平成26年度人権啓発指導者養成研修会 採録コラム

名古屋会場 講義8 平成26年10月3日(金)

  「東日本大震災における人権と伴走型支援」

著者 特定非営利活動法人 抱樸 理事長
奥田知志
寄稿日(掲載日) 2015/03/16


 皆さんこんにちは。ご紹介いただきました奥田知志と申します。今日は東日本大震災の中での、私たちの活動の紹介をしながら、課題を皆さんと共に少し共有できればと思っております。
 私の本業は牧師ですが、困窮者支援、ホームレス支援、震災支援もしておりますし、北九州市立大学の特任教授もやっています。今回はNPO法人抱樸(ほうぼく)という団体の理事長、もしくは公益財団法人共生地域創造財団の代表理事という立場でお話しをいたします。
 それでは、自己紹介を兼ねて抱樸というNPOのことを少しお話ししたいと思います。
 私は地元の北九州で、ホームレス支援、困窮者支援を始めてもう26年目になります。随分長くやっています。今年(2014(平成26)年)の7月に創立25周年を記念してNPOの名前を「抱樸」に変えましたが、それまでは、ずっと「北九州ホームレス支援機構」という名前でやってきました。その「北九州ホームレス支援機構」をNPO法人化したのが2000(平成12)年です。そのときの代表就任の挨拶で、私は、「NPOの一日も早い解散を目指し頑張ります」と申し上げました。それなのに15年経った今でも若いスタッフが私たちのNPOに続々と参加して来ます。活動は福岡市・北九州市・下関市と3つの市にまたがっていて、5つの施設を運営しています。正規雇用の職員が70名を超えていますから、NPOといっても相当大きなNPOです。
 最近はスタッフ同士で結婚する人も出てきました。私は牧師なのでスタッフの結婚式もしますし、野宿のおじさんが亡くなるとお葬式もします。若いスタッフたちが結婚したとか、子どもができたとか、そういう話しを聞くと、いつまでこのNPOはあるのだろうかと複雑な気持ちになります。私たちのようなNPOのなくなる日が来ることを目指しているのですが、今の社会状況を見ると、正直申し上げてなかなか解散できないだろうと思います。

 私がホームレス支援を始めたのは1988(昭和63)年12月、26年前です。1988年というのはどのような年かというと、バブル経済に向かっていた時期で仕事もいっぱいありました。ですから基本的にはほとんどの人が正規雇用に就いていた時代だったのです。労働人口の85%が正規雇用でした。そういう時代にホームレス支援を始めたものですから、一般の人からは、「ホームレスをやっている人がおかしい」、「普通に働けば働けるじゃないの」と言われました。残りの15%の非正規雇用といっても、当時はいわゆる主婦・パート層と言われる人が大半で、今のような若者の非正規雇用というのは主流ではありませんでした。
 確かに、労働者派遣法(労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律)は1986(昭和61)年にできてはいましたが、当初、労働者派遣法が対象としていたのは高度な技術をもった人たちで、今のような若者の派遣労働者というのは想定されていませんでした。これが、バブルが弾けた後の1995(平成7)年になると、大きな変化が起きます。日経連(日本経営者団体連盟)が、これからの日本の経営について、「新時代の『日本的経営』―挑戦すべき方向とその具体策」という指針を出したのです。そして、その中で労働者を3層に分けて位置づけています。1つ目は終身雇用の安定層「長期蓄積能力活用型グループ」、2つ目は技術者の派遣層「高度専門能力活用型グループ」、3つ目が柔軟な雇用形態「雇用柔軟型グループ」。日経連が指針を出してから20年が経ちますが、今では3つ目の「雇用柔軟型グループ」(パートタイム労働者、派遣社員、契約社員、委託社員など)の不安定な労働形態が主流になっています。
 さらに、政府は2014(平成26)年10月1日に労働者派遣法を改正し「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律」とし、専門性が高いとされる一部の業務を除いて、現在は最長で3年までとなっている派遣期間の制限を撤廃する一方、1人の派遣労働者が企業の同じ部署で働ける期間を3年に制限する方向で決定しました。これからは、不安定な派遣労働に従事する人がさらに増えてくると思われます。
 今、非正規雇用がどれくらいの率になっているかというと約4割、38%ぐらいになっています。これは相当大きな数です。例えば、労働人口が5,500万人ぐらいいるとすると、正規雇用で働いている人が3,500万人ぐらい、その下に正規ではない不安定雇用層が2,000万人いるのです。そして、その2,000万人のすぐ下に、ホームレスの人たちが約10,000人弱います。例えば、1988(昭和63)年当時は85%以上の安定雇用層の労働者がいっぱいいる中で、ずっと離れた下の方にホームレスの人たちがいるという感覚だったと思います。ところが今は、2,000万人の一番下の人とホームレスの人とが、時々行ったり来たりしている。私たちが25年前に北九州でパトロールをしていた時は誰が見てもホームレスの人だと分かりましたけれど、今は分かりません。町を歩いている若者がファーストフード店に入っていく。でも様子を見ているとどうもおかしい。付いて行って「君、行くところあるの?」と聞くと「今日はない」と言うのです。「でも明日は携帯の派遣が決まっているから明日の夜は泊まるところがある」と言うのです。そういう子たちが2008(平成20)年のリーマンショック以降、たくさん現れ始めました。
 その当時の北九州は、日豊線沿いに車の工場や精密機械メーカーが並んでいましたが、雇い止めや派遣切りにあって、日豊線を若者が上がって来て小倉駅に溜まっていたのです。最初に20歳代のホームレスの人と出会ったのは2008年12月でした。あのときの有効求人倍率は一番悪いときで0.3~0.4ぐらいまで落ちました。働きたい人1人に対して0.3人しか求人がないわけです。4人のうちやっと1人雇われるということです。今、有効求人倍率は、全国平均で1.1(7月値)まで回復しました。しかし、全国でばらつきがあります。東京あたりの有効求人倍率は4ぐらいになっていると思いますが、地方では、まだ0.幾つというところもいっぱいあります。それにしても、1.1というのは画期的な数です。働きたいと言っている人1人に対し、1.1倍の求人が出ているのですから、全員が働けるのではないかという話になります。確かに数字の上ではそうです。しかし問題は、有効求人数の6割が非正規雇用だということです。正規雇用の有効求人倍率で言うと0.64ぐらいで止まっています。率から行くと、2人に1人ぐらいしか安定した雇用に就けないということです。
 私は釜ヶ崎でずっと活動していましたが、大阪の釜ヶ崎、東京の山谷、名古屋の笹島、横浜の寿町は、四大寄せ場と言われます。寄せ場の労働者層というのは日雇い労働者、不安定労働層です。先ほどお話しした労働者派遣法は、私の学生時代にできました。そのときに、釜ヶ崎の労働者と一緒に、「派遣法反対!」と言ってチラシをまいていたのですが、正直大学生だった私は、なぜ反対なのかその反対の意味が分かりませんでした。「何で釜ヶ崎の日雇い労働者がこの法律に反対するのだろうか、この法律がターゲットにしているのは高度な技術を持ったエンジニアじゃないか。釜のおじさんたちは関係ないじゃないか」と思っていたのです。しかし、20数年前の釜ヶ崎のチラシには、「この法律はいずれ日本中を釜ヶ崎化する、寄せ場化する、いずれ多くの労働者が使い捨てにされる」と書いてあったのです。当時釜ヶ崎は景気の安全弁と言われていました。景気がよくなると多くの人を雇うし、悪くなると一番先に首を切られる。景気の安全弁としての労働者を釜ヶ崎という地域に集めていました。それが全国化するぞと、チラシに予言的な言葉が書かれていたのです。あれから20数年経って本当にそうなりました。
 私は生活困窮者支援をやっていて、一番気になっていることがあります。困窮者がなぜ生まれるかという話をするときに、だいたい皆さん景気の問題だと思っているわけです。ですから、景気がよくなれば雇用も進むし給料も上がるし、みんながハッピーになるというふうに思うわけです。かつてはそうでした。しかし、今お話ししたように、もう景気の話だけではありません。構造自体が変化したわけです。その認識が必要です。
 私は、困窮者支援においても震災支援においても構造的なことを考えなければならないと思います。
 例えば被災地で言うと、やはり気になるのが人口動態です。総務省から人口動態の予想という発表が出ています。そのデータを見ると、40年後ぐらいには日本の人口は7,000~8,000万人になります。これは大変なことで、今1億2,000万人の人口が4,000万人いなくなるという話です。私がずっと関わっている大船渡の津波で流れたあの更地には誰が住むのだろうかと想像します。それは町が戻るか戻らないかの問題でなく、人がいるかいないかというレベルの話なのです。東北は米所であり、農産品を都市にたくさん出荷してきましたから、そこが空き地になると、都市の人は何を食べるのでしょうか。復興支援といっても、単純に以前の姿に戻ろうという話ではないのです。
 震災復興支援のために、私は、今週は仙台市、来週は大船渡市に行きます。福島では避難解除をされる川内村の人たちに、今どのような支援を入れようかと考えているところです。避難解除をされ、一部帰村が始まるわけですが、町の機能は戻っていないし、放射線量も高い。川内村の人たちから私たちの法人に来たSOSは何だと思いますか? 食糧支援です。考えられないでしょう。地震直後に食べ物がないといって運ぶのならまだしも、4年経とうとしているところで、食べ物がないというSOSが来ているのです。町をつくっても誰が住むのでしょうか。人が戻っても町の機能がないところでどうやって暮らすのでしょうか。
 今の東北を見ていると、構造的変化(人口変化や就労構造変化)が進んでいたところに震災の復興支援が入っている。貧困が常態化する中で、では私たちはいったい何を目指すのかということが非常に難しいところです。

 「私たちのNPOの一日も早い解散を」という気持ちは今でもあるけれども、やはりもう腰を据えてやるしかないということで「抱樸」という名前に変えたのです。「抱樸」の「ホウ」は「抱く」と書きます。「ボク」は木偏の「樸」です。これは老子の言葉です。「樸」という字は原木・荒木という意味です。山から切り出された原木・荒木です。荒木をそのまま受け止める、抱くというのが抱樸です。原木そのままでは、トゲなどがあり、抱えた人が傷つくこともあります。しかし、傷つくことを恐れずに受けとめてあげる。
 人がいれば、その原木はやがて柱や家具となり、人びとのために役立てる可能性があるのです。
 日本の行政機関は、困ったら相談に来なさいという申請主義ですが、困っている人と言うのは、困窮状態が深まれば深まるほど声をあげられなくなります。まさにサイレント・プア、困窮者は沈黙しているのです。
 相談窓口の人は、「何でもっと早く言わなかったの、こんな状態になるまで何で相談に来ないの」と言いますが、何も言わないのを困窮者というのです。「無告の民」とも言えると思います。「無告」というのは「告げる先がない」と書きます。辞書に載っている言葉です。これは悲しみとか苦しみとか、嘆きを訴える先を持っていない人たちのことです。「抱樸」というのは、そんな彼らをともかく、その状態のままいったん抱き止めようという意味です。「条件が整ったら引き受けてあげますよ」と言っていたら、困窮者の命を守ることはできなくなってしまうからです。特に今の若者たちに「自己申告」を促しても「どっちみち自己責任だと言うんだろう」と言って離れていってしまいます。今の若者は、「助けて」と言ったら、大人は「お前が悪い」と言うに違いないと思い込んでいて助けを求めません。そして、「周りに迷惑をかけるだけだから死にたい」と言います。
 困窮というのは、実は自己喪失状態なのです。食べ物がない、お金がないだけではなくて、自分は何のために生きているのか、何ができて何ができないのか、自分は今何を欲しているのかが分からない。そんな状態になっている人たちに、「あなたは何者ですか」といくら聞いても分からない。困窮者は自分が何を求めていいのか分からない、という状態にまで追い詰められているのです。
 皆さん冷たいビールを飲みたいと思うでしょう。今日も蒸し暑いですね。冷たいビールが飲みたいという欲求が起こる人は、世の中に冷蔵庫というものがあることを知っている人だけです。そもそも冷蔵庫を知らない人は、冷たいビールの欲求は起こりません。困窮者というのは実はそういう状況に置かれていて、一体何を選択していいのか分からない。つまり世の中のことも自分のことも見えなくなっているので、欲求が起こらないわけです。「君が何を求めているのか言ってごらん」といくら言っても「分からない」のですから、とにかくそのままおいでと。一緒にご飯を食べながら考えようというのが我々のスタンスです。
 もう一つ抱樸には原木を抱くという意味があります。原木をそのまま抱くわけですから、多少抱く方も抱かれる方も違和感があったり、ごつごつしていたり、とげとげしかったり、もしくはちょっと傷付きます。今の社会は、傷付くことをものすごく恐れています。そのために人と人とが疎遠になっていく。そして、ともかくややこしい人には近寄りたくないというふうにみんなが思っています。ですから、その人たちを追い返すために自己責任という言葉を多用するようになりました。それはあなたの責任だというのです。
 また、「安心・安全の町づくり」とどこでも言います。安心・安全に越したことはないのですが、しかし、あえて困窮者支援やホームレス支援をやっている立場として言わせてほしいのは、自分の安心・安全ばかりを言っていて困っている人には手も出さない社会になってしまったのではないかということです。困っている人と出会ったら、当然なんらかのリスクは負わなければいけないわけです。しかし、今の社会は自分の安心・安全だけを言って、誰かにリスクを追わせてしまう傾向が非常に強くなっていると思います。一つは自己責任、もう一つは身内の責任です。生活保護制度もこの(2014(平成26)年)7月に改訂が実施されましたが、身内の責任が非常に強くなりました。しかし、社会というのは他者のために誰かがちょっと傷付く。みんながある程度健全に傷付くことによって支え合わなければ成り立たない。傷の再分配方式が必要だと思うのです。抱樸というのは原木を抱くゆえに、多少傷付くことも覚悟しようという宣言です。
 「NPO法人北九州ホームレス支援機構」というのは目の前のホームレスの人たちの支援をどうするかという問題解決型の名前だったのですが、このような社会状況の中で、目の前の問題をだけを追っていてはどうしようもない。そこで、「抱樸社会を目指す」という意味を込めて、「NPO法人抱樸」という名前に団体名を変えたわけです。

 2007(平成19)年に日本全国のホームレス支援団体・研究者によるネットワーク「ホームレス支援全国ネットワーク」というNPOを立ち上げました。今では88の支援団体が加盟している日本で唯一のホームレス支援の全国組織です。東日本大震災が起きたとき、そのメンバーと協議してすぐに東北に支援を入れることを決定。3月11日の震災でしたが3月18日の時点でした。現場に3人のスタッフを送り込みました。実は、宮城にホームレス支援団体が3団体あるのですが、そのうちの1つの団体は、若林地区という津波に飲まれたところに事務所を置いていたのです。まさにそこの代表とのやりとりは「生きているか?」、「なんとか、スタッフ全員助かりました」というものでした。次に、もう一つのワンファミリーという団体に電話をしました。すると、「仙台は、市内全域が停電しました。県庁だけが自家発電機で灯りがともりましたけれど、他は真っ暗です」ということです。3月11日は寒くて雪が降っていました。ワンファミリーは、支援団体が持って行った毛布を県庁で配り、翌日の朝11時から毎日3回の炊き出しを始めたというのですが、「今あるプロパンガスは1週間で底を突く。何とかしてくれ」という話だったので「よし、何とかする」と、私はすぐに動き始めました。
 阪神淡路大震災の経験から、メーカーに話すとそのメーカーのものが大量に来るので、現地が相当大変になることが分かっていましたから、そのような大きなことは行政の皆さんにお願いして、私たちは、必要なものを、必要なところに、必要な分だけ届けるという仕組みをつくろうと考えました。考えに考えたあげく、生活協同組合は今週配達する品物がすでに倉庫にあるはずだ、そこには食料品から日常品や衣料品に至るまですべてがそろっている。あれを回してもらえないかと思って、地元九州のグリーンコープという生協のトップに電話をして、「宮城に現地の事務所を開いて炊き出しを始めたから、何とか協力してもらえないか」と言いました。生活協同組合のもう一つの強みは流通ルートを持っていることです。運送会社と提携しながら動いていますから、現地まで物を運べないかという話をしました。すると、「実は、もう1日、2日前にトラックに荷物を満載にして出した」と言うのです。僕は「どこに出したの?」と聞きました。すると、「どこへ出すかは決めないで出した」と。「今、どうなっているの?」と聞くと、「さっき東京から電話があって『この先どこへ行くの?』と言って、トラック部隊が彷徨している」と言うのです。「だったら宮城の仙台の青葉区のここの住所にうちの事務所を開いたから、そこに持って行ってくれ」という話になって、新潟経由で入ってもらいました。
 その後、東京の生活クラブ生協にも頼みに行って、生活協同組合2つとホームレス支援ネットワークという異色の取り合わせができ、公益財団法人共生地域創造財団という財団を設立したわけです。共生地域創造財団は、震災支援と現地の復興と、さらに未来に向けた共生地域の創造を目的としています。私たちは、地震で発生した問題だけではなくて、もともと東北が抱えていた問題が、ここで加速化するだろうと考えています。このような厳しい状況の中で、どのようにしたら共生地域をつくっていくことができるのか考えていこうと思っています。組合員数がグリーンコープは42万人ぐらい、生活クラブも40万人ぐらいいます。ここと組んだことが後々復興支援の、ある意味ビジネスモデルになると思います。2012(平成24)年10月に公益財団として国から認められたのですから相当早いスピードでした。この公益財団には7つの基本コンセプトがあります。

(1)もっとも小さくされた者への偏った支援を小さくかつ継続的に行う
(2)当事者から聴き、学ぶ姿勢を持つ ―東から
(3)困窮者の課題を経済的困窮と関係的困窮として捉える ―伴走型支援の実施
(4)絆の相互性を尊重する ―助ける側と助けられる側の固定化克服
(5)自尊感情と自己有用感を尊重する ―相互多重型支援の実施
(6)官民の支援活動・団体との連携を図る
(7)復興ではなく新たな共生社会の創造を目指す ―起業と委譲

 1番目の「もっとも小さくされた者への偏った支援を小さくかつ継続的に行う」は、私が書いた最初の一文ですが、これはだいぶ物議をかもしました。公益財団と名乗る団体が片寄った支援と言っていいのかということです。私は人権や差別の問題はまさに偏見の問題だと思っています。ただし一方で、命ということを真剣に考えるとなると、やはり片寄らざるを得ないのではないかと思うのです。平等というものは大事なのだけれども、例えば、ある程度食べられる人と、全然食べられない人がいたとき、平等だからと言って同じ量のご飯を配るのかといったら、それを平等とは言わないだろうと思うわけです。今回の被災地においても、やはり平等の議論というものがありました。例えば避難所に100人逃げている。そこにアンパンが30個届いた。100人に30個のアンパンでは分けようがないから配らずに腐らせたという話がありました。平等でなくなるからだそうです。しかし、100人が100人、アンパンがいるかどうかをまず調べた方がいいのではないかと思いませんか。「私は甘いものが苦手だから」と言う人がいるかもしれないし、「今日は俺、まだいいわ、遠慮しておく、お腹が減っている人がいたら先に回してやって」と言う人がいるかもしれない。なぜそういうことをしないで、最初から、「平等にしなければいけないから配らない」という話になるのでしょうか。本当に命のことを考えたら片寄らざるを得ないのではないかと思うのです。そんなことを26年間ずっと経験してきたものですから、もう今回ははっきり言いました。「我々は民間だから国や行政がするような大規模支援はできない。我々は、ここと決めたらそこに片寄っていくぞ。出会いじゃないか人生は。それでいいじゃないか。最初から平等というからおかしいんだ。だから小さく継続的に行う」と。
 2番目は、「当事者から聴き、学ぶ姿勢を持つ」です。震災直後は、「絆」という言葉がブームになっていました。例えば私が2回出た「プロフェッショナル仕事の流儀」もNHKが付けたタイトルは、最初は「絆が人を生かすからhttp://www.nhk.or.jp/professional/2009/0310/」というタイトル、2つ目が「絆が希望を創り出すhttp://www.nhk.or.jp/professional/2012/0416/」というタイトルでした。しかし、私は当時の「絆」ブームをずっと見ているうちに、だんだん疑問に思えてきたのです。「九州の元気を東北に届けよう」という大きな垂れ幕を見たとき、何となく傲慢な感じがして「そうかな?」と思ってしまいました。つまり当時の絆の方向性は「東へ」という一方通行だったからです。「九州のものを被災地へ届けよう、こちらの元気を届けよう、こちらが支えようという」という一方向性でした。けれど同時に「東から」聴く、「東から」学ばなければいけないのではないかと思ったわけです。ですから、「東から」と「東へ」という双方向性をどのようにしたら持つことができるのかを考えました。先ほど、80年代に釜ヶ崎の労働者が派遣法反対のチラシをまいていたと言いました。釜ヶ崎の労働者は20数年後に起こることを予言的に見ていたわけです。「こんな法律を通したらいずれ自分たちが今さらされているような苦難を多くの若者や労働者に強いることになる。だからこれは反対だ」と。やはり苦しみ、悲しみの中に置かれた人にしか見えない世界があって、そこから学ぶしかないのだという思いがあります。ゆとりがある人がゆとりのない人を助けるという傲慢な形でいいのか、という気持ちが私にはありました。
 3番目は、「困窮者の課題を経済的困窮と関係的困窮として捉える ―伴走型支援の実施」です。2番目の目標を具現化するものとして、伴走型支援、絆の相互性、助ける側と助けられる側の固定化の克服というようなことを考えるようになりました。この写真を見てください。これは震災直後の仙台市内の炊き出しです。町はあまり壊れていませんが燃料がないので、多くの人が炊き出しを利用しました。このときのワンファミリーという現地団体はすごかった。仙台市内に燃料が供給されるようになってからは、炊き出しを利用していた人たちに対して、「今から本格的に北の方に向かって支援を入れて行くから、皆さん、おにぎりをつくって持ってきてほしい」と呼びかけたのです。私もこの事務所に寝泊まりしていましたけれど、朝の6時くらいから外に置いておいた箱の中に通勤途中のサラリーマンたちがおにぎりを2つ、3つ置いていく。それが1日2,000個くらい集まるのです。それを持って北へ車で支援に行くということをやっていました。この写真は全国から集めた洋服などを青空市で配布しているところです。こちらは津波の土を取り除いているところです。
 このときに、私たちは最初、石巻に入ったのですが、石巻はすでに自衛隊の人も来ていたし、多くのボランティアも入っていました。そこで石巻の先の牡鹿半島に向けて出発しました。牡鹿半島は小さな漁村集落が点在しているリアス式海岸です。その中で私たちが力を入れたのは、最も小さい蛤浜と折浜という浜です。もともと蛤浜には9世帯しかありませんでしたが、津波でそのうちの5件が全壊という状態でした。私が行ったときには、住民は8名だけ。ほとんどの人が避難所などで暮らしているという状態でした。港もすべて津波に流されてしまいました。あの日は最初から津波がドーンと来たのではなく、ズブズブと上がって来たということです。どこまで来るのだろうと思ったらもう村の上まで来て、そして一気にダーッと引き始めた。「これはもういかん、逃げろ」と言って、60歳代の漁師たちが80歳代のおばあちゃんを背負って山の中に逃げた。そのときに振り返って見たら、直径が4キロぐらいあるリアス式の大きな湾の水が引き潮でなくなったと言っていました。「60年漁師をやっていて初めて海の底を見た」と。そして2回目の津波がドカーンと来て全部持って行かれたそうです。一晩、真っ暗な森の中で、ガラガラガラガラと津波が来るたびに瓦礫が持って行かれる音を聞いていた、雪が降っていたと言っていました。この写真が蛤浜です。村の一番奥に集会所があって、そこに二十数人の人が暮らしていました。3週間目に私が訪ねたときには、もう既にうちのスタッフが九州からの物資をどんどん入れていたので、村の人たちが出てきて、「九州からの物資で本当に助かった」と言って喜んでくれました。瓦礫を踏んだら危ないので、畳を引っ張り出してきて、瓦礫の上に畳を敷いて、その畳を道にして上まで上っていました。
 3週間経っていましたがお風呂も入れない。電気もガスも来ていないので、水は山の湧き水を壊れた家から樋を運び出して、それで飲んでいるという状態でした。亀山さんという村長さんが出て来られて、最初に感謝の辞を述べられ、そして「ここにはボランティアも自衛隊の人も来ていない」とおっしゃった。「この村には誰も来ないんですか?行政の人も来ないんですか?」と聞くと、亀山さんが「いや、ここには誰も来ないんですよ」と。普通、「ここには誰も来ません」と言ったら恨み言を言うと思うじゃないですか。しかし、亀山さんは、「ここには誰も来ません、他のところはもっと大変だから」と言ったのです。僕はその瞬間に、この人に付いて行こうと思ったわけです。この人に付いて行こう、この人と一緒に復興しようと思いました。それ以来、ずっとこの蛤浜に通っています。
 そのときに亀山さんのお連れ合いが、「昨日着いた物資の中にこんな手紙が入っていたんです」と見せてくれたのがこの絵手紙です。真ん中辺りに、「生きていればきっと笑えるときが来る」と書いてある。これを私に見せながら、「私たちはすべてを失ったけれども、今はこの言葉で生かされているのです」と、泣きながら話してくれました。「この手紙が来てから、みんなで毎朝読んでいます」と言っていました。僕はそこですごく考えさせられたのです。家がないと駄目だし、仕事がないと駄目だし、食べ物がないと駄目だ。そんなことは誰が考えても当たり前です。しかし、あの極限で、最後の最後に人を支えたのは他者の言葉だった。最終的に人間を支えるものは何かということを、とても考えさせられた瞬間でした。
 そして、支援が始まって3か月ぐらい経った頃のことです。亀山さんが、「本当に物資を送ってもらって助かっている、あれがなかったら生きて来られなかった。本当に助かっている、ありがたい。でも重い……。こんなに支援を受けても何一つ応えることができない。自分たちで立ち上がることができない。これがつらい。だからもう自分たちで何とかします」と言い出したのです。私は月に1、2回訪ねていたので、物資をずっと供給し続けていました。ずっと漁師でやってきた、自分の腕で稼いできた人たちです。その人たちが、他人からのもらい物で3か月食べている。さぞ、つらかったのだろうと思いました。
 いったい絆とは何でしょう。絆は相互性を持っていないといけない。もしくは双方向性を持たないといけないと思います。ホームレス支援でもそうなのですが、助ける人と助けられる人が固定化されるとまずいのです。支援するときに私は助ける人、私は助けられる人、とやってしまうと、助ける人は良いことをやっているという意識があるものですからいつも元気なのです。「どうぞ、どうぞお食べください」とやるわけです。しかし、助けてもらっている人はいつも「すみません」とずっと謝っています。「ありがとうございます、すみません」と言わされている。この関係が3か月続くと、さすがに「ありがたかったけれど、つらい」となってしまう。助ける側と助けられる側が相互性を持っているというのは、助けられた人が助ける人になれる、助けた人が今度は助けられる。そういう関係性です。そのような仕組みをつくれないかということが、当時の私たちの課題になりました。
 そこで一月ほど間を置いて再び亀山さんを訪ね、相互多重型支援というものを提案しました。これはもともとホームレス支援で考えていたことなのですが、震災支援でもできないかということです。そこで大切なのは、自尊感情と自己有用意識というものです。自尊感情というのは、自分は尊い存在だと自ら認識できるということです。もう一つの自己有用感は、自分が何らかの役割や仕事を持っていて、人から必要とされる存在であると認識できるということです。
 北九州市立大学で行ったホームレスの人たちを対象とした調査をご紹介します。「ホームレスのときにあなたは一人ぼっちだと感じましたか?」と聞くと、「そう思う」62%、「まあ、そう思う」19.5%を合わせて、約8割の人が「孤独だ」と答えています。しかし、北九州市がつくった公設民営の自立支援センターが支援を行った後は、「一人ぼっち」という認識が4割ぐらいに減ったのです。つまり、人は助けられたら助けられただけ「一人ぼっち」感が解消できるということです。問題は自己有用意識です。一般市民に「自分はこの世の中で必要とされていると思いますか?」と聞くと約6割が「必要とされている」と答えました。ホームレスの人に聞くと「自分は必要とされている」と答えた人は3割です。一般市民の半分です。しかし、自立支援センターが支援を行った後は、「必要とされている」という人がさらに減ったのです。この調査が出たときに私たちは、「俺たちは一体何をやっていたのだろうか」と愕然としました。
 手厚く、手厚く支援することによって、「自分は必要とされている」とか、「自分の存在に誇りを持てている」という感覚をそぎ落としていることが分かったのです。下手な支援をするとこうなってしまうわけです。
 実は、その調査が私の頭の中にあって、震災状況において同じことが起こっていることに気づきました。これはいけない、亀山さんを追い詰めたのは相互性がなくなっているからだと思い、震災復興の場面で被災者が役割を果たすことができる方法はないのかという問いに立ったわけです。しかも、被災地の沿岸は高齢化が進んでいて、第一次産業で働いている人の平均年齢は64.7歳です。人口流出や労働市場の流出で後継者問題が非常に大きな課題になっている。そのため私たちが現地の漁師さんと復興のことを話していても、「奥田さん、この村はね、復興してもせんでも、もっと言うと津波が来ても来んでも、10年後にはなくなっていましたよ。この村を復興させたところで誰が住むんですか?」と言うわけです。「なるほどね」と言いながら、そこで私が提案したのは、「じゃあ、こうしましょう、うちの財団を通じて資金を集めるから、ともかく牡蠣の養殖を一日も早く復興させましょう」と。実際に一千数百万円の資金を投入して、牡蠣の養殖筏をもう1度作り直しました。「その代わり、この養殖筏で牡蠣が採れるようになったら、路上で生活をしている青年や失業して困っている青年、自分は何のために生きているのか分からなくなっている青年たちを連れてくるから、牡蠣を使って若者たちを助けてやってくれないか」と言ったのです。亀山さんは、「分かった」と言ってくれました。
 そこでは、養殖した牡蠣をむいて出荷しています。私は現場が好きなので、一緒に作業をしましたがこれがうまくむけません。牡蠣をむいて中身を取ろうと思うのですが、どうしても傷が付いてしまう。傷が付くと商品にならないので、その場で食べるのです。私が延々と食べていると後ろから亀山さんが「奥田さん、何やってるの?」と言うので、「いや、いや、傷付いちゃって」と言うと、「もうやめて、全部食われる」と言って笑っていました。こんなに難しいのでは、牡蠣をむいて出荷するのは無理だなと思って、結局何をしたかというと、殻付き牡蠣を綺麗にして、若者たちが箱につめて出荷することにしたのです。亀山さんとの間で浜値の倍で牡蠣を買うという契約を結びました。ちょっと高めの牡蠣になりますがそれでも何とか売る。若者たち、困窮者たちは自らの仕事がもらえると同時に、浜値の倍で牡蠣を買ってもらうことによって復興支援の役に立っているという自負が生まれます。復興支援にも役立つし、困窮者や若者たちにも役立つ牡蠣ですから、消費者にとっては一粒で2度おいしい牡蠣なのです。
 私は富の再分配ということが大事だと思っています。税金だけでは、何か取られたような気持ちになるのであまり元気が出ません。ですから、物を買ったり売ったりする消費活動の中で富を再分配していくことが必要です。値段の中に一部社会創造のための金額を入れていくということです。つまり、かつて資本家が吸収していたところを社会に還元するようにできないかと考えました。亀山さんに、「若い人たちの中に、『俺、漁師になりたい』という人が出てきたら跡継ぎにしてくれる?」と聞いたら、「いいよ」と答えてくれました。
 この写真は、石巻市が支援してくれてできた共同牡蠣処理場です。行政の方にも志が届いて、大きな牡蠣の加工工場ができました。この中で私たちは今一緒になって作業をしています。この写真は漁師さんが牡蠣をむいている様子です。私たちは一番奥のブースで牡蠣を洗って箱詰めしています。しかも、その売り先には生活協同組合が控えているわけです。「生きていればきっと笑えるときが来る」という絵手紙から始まったプロジェクトなので、牡蠣の名前は「笑える牡蠣」という名前にして、「漁師も笑った、若者も笑った、食べるあなたもきっと笑える、笑える牡蠣!」と売り出しました。2キロで3,150円、初年度は800箱売れ、就労訓練生5名のうち1名がその後自立しました。3名は就労訓練を継続しています。2013(平成25)年は5,000箱を目標にしてやりました。就労訓練生は7名です。去年は大阪からも就労訓練生が入り、さらに地元の引きこもりの青年もこの仕事に就き始めました。
 同じような方法で、宮城の亘理で今トマト栽培を始めています。ここはイチゴの産地です。「もういっこ」というブランドイチゴがありましたが、これが全部津波でやられてしまったのです。地下水が塩化されてしまったために、イチゴをもう一度やるのは難しい。そこで、生活協同組合の生産担当や農業担当などが集まって考えた結果、塩に強いトマトを作ることになりました。露地栽培のトマトをトマトピューレ・トマトケチャップ・トマトジュースというものに加工して、6次産業化して売るという仕組みをつくりました。これもまた生活協同組合を通して販売しています。ここの現場監督は仙台で元ホームレスをやっていた人です。今は共生地域創造財団で雇用して彼が現場で若者たちの指導にあたっています。

 それでは、次に困窮者支援とソーシャルビジネスについて考えてみます。次に大切なポイントをまとめてみました。

(1)相互多重型であること
(2)意義のインセンティブ
(3)クオリティとストーリー
(4)選択的消費者の確保
(5)消費における富の再分配
(6)資源創造と人材育成

 

 震災復興支援では、震災復興住宅を造ることも大事なのですが、今までになかった仕組みをつくる、今までになかった関係性をつくる、今までになかったソーシャルビジネスモデルをつくる、そうしない限り人は戻って来ないのではないかと考えています。
 今、私たちが考えている新しい東北復興支援は、相互多重的であることです。九州で、今まで路上生活をしていた若者たちが東北に行って、津波の話や原発の話を聞くわけです。今まで一番の悲劇のヒーローだと思っていた彼らが、地獄のような話を聞くことによって、逆に励まされたり、復興の役に立つのならば頑張りたいという気持ちになったりと、メンタルにおける相互的な作用もあってなかなか面白い展開になっています。誰かが誰かを助けるのではなくて、支え合えるような仕組みをどのようにつくるかということです。そこには自尊感情とともに自己有用意識を持たせることが重要です。そして、これに参加する意義があるということが大切です。例えば、牡蠣やトマトを買う人にとっては、復興支援と若者支援ができるのだという、その意味が大切なのです。もちろん生協の組合員に販売するのですから、絶対的にクオリティが高くなければならないし、放射能検査は確実にやります。しかし一方で生協の組合員が動くのはストーリー、意義性が必要です。みんなが求めているのはその物語に対する参与なのです。困窮者支援や震災支援は、一緒にそこで役割を果たすということが大切です。次に、選択的消費者の確保が重要です。生活協同組合員さんがそうだと思います。現在の消費活動は、より安いもの、安いものへとみんなが流れています。けれども、私は生活協同組合の組合員たちに象徴される消費者は選択的消費ができる人たち、意味のあるものだったら100円高くても買うという選択ができる人たちだと思っています。そういう消費者を育てることが大切です。すなわち消費における富の再分配です。税金で再分配するだけでなく、消費をすることで富を再分配する。その中で社会資源をつくっていくという、これが私たちの復興支援モデルです。

 「生きてさえいればいつかきっと笑える日が来る」。よい言葉です。今、抱樸では「笑い家(や)」という店を出し、路上生活をしていた青年が「笑えるだし巻き玉子」を毎日焼いています。これもいろいろなところで販売してもらっています。20人体制でやると生活保護ベースで年間1,000万円の費用対効果が出るという計算になります。この店があるのは高齢化した町なので、このだし巻き玉子を定期購入してくれるお年寄りのところに、うちのスタッフと若者が定期訪問する見守りサービスを付けています。お年寄りはだし巻き玉子を買うことによって若者を支援する。若者たちはだし巻き玉子を買ってもらうことによって支援されながら、見守りサービスを届けるという地域を支える相互多重型支援です。
 さらに元ホームレスの人たちを中心に一座をつくって「生笑(いきわら)一座」という公演活動をやっています。去年7ページの特集で女性自身にも載りました。元ホームレスの人たちが、小学校・中学校を回って「死んだらいかん、おじさんたちも実は死のうとしたことがあった。でも、生きてさえいればいつかきっと笑える日が来る」と伝えています。ホームレスをやった経験というのは忌むべき経験、人前で言えない話だと思われていたけれども、今彼らはそれを能力に変えて、武器に変えて、子どもたちに「生きろ」というメッセージを発しています。今年、国から認められて、このプロジェクトは自殺対策の一環として費用が一部出るようになりました。この間は三重公演をしました。もうすぐ東京公演や大阪公演にもまいります。ご用命があればぜひ呼んでやってください。これも助けられた人が今度は助ける側に回っていくという相互多重型支援の一つの形です。
 今日は、震災支援の中での私たちの取組と困窮者支援についてお話ししました。皆さんの地域での人権活動に少しでもお役に立てればと思います。