メニュー

人権に関するデータベース

全国の地方公共団体をはじめ、国、国連関係機関等における人権関係の情報を調べることができます。

研修講義資料

東京会場 講義4 平成24年9月20日(木)

「刑期を終えて出所した人と人権~育つ人・育てる人の心~」

著者
中井 政嗣
寄稿日(掲載日)
2013/02/18



 千房さんの味、いかがですか。わかりません。自信ないのですか。いや、自信持てます。でも、わかりません。何故ですか。はい。あなたの口がわからへんから。
 つまり、そうなんですね。幾ら自信を持ってお出ししていても、お客様がまずいって言うたらまずいのです。また、自信なくても、お客様がおいしいって言ったらおいしいのです。つまり、お客様のニーズに合わすというのは、まさにこのことであって、こんなん、こだわっています、あんなん、こだわっています。相手に通じて初めて、これはこだわりであって、通じなかったら、単なるひとりよがりです。ひとりよがりとこだわり、全然違うのです。
 今日は全国からお集まりいただいているようなので簡単に紹介しますが、千房の店舗は、北は北海道から、南は九州、鹿児島まで。残念ながら、沖縄にはないのですが、全国展開しております。国内が64店舗、それから、22年前から海外もスタートしました、ニューヨークマンハッタン、オーストラリアブリスベン、ゴールドコースト。これは、大型店舗でした。220席のジャパニーズお好み焼レストラン。
 ジャパニーズお好み焼レストラン、つまり、お好み焼は、海外で出す場合、よく、ジャパニーズピザとか、言い方されるのですが、やっぱりお好み焼って、洋食ですか、和食ですか。つまり、昔は洋食焼きと言ったのですが、洋食にかつおぶし、青のり乗せますか。乗せません。かつおぶし、青のりって言ったら和食ですか。マヨネーズ、チーズが入ってきます。チーズと餅、今、餅チーズというのは、若者には大変受けているのですが、これなんて、和洋がドッキングしているのですね。そこに、からしが来ます。あるいは、キムチが来ます。豚キムチ、これ、結構おいしいのです。言ってみたら、これは完璧な日本食です。ですから、ジャパニーズお好み焼レストラン。
 そして、韓国ソウル、そして、新婚旅行のメッカでありますハワイホノルル。残念ながら、ニューヨーク、オーストラリア、韓国は大失敗いたしました。約6億ほど失敗したのですかね。あの金が、今、あればなとか思ったりするのですが、海外進出ブームでしたし、また、銀行もばんばんとお金を貸してくれたという、古きよき時代ったのですが、おかげさまで、ハワイのほうは順調に推移しております。ホノルルは、ワイキキにあります。カラカウア通り。これも大型店舗です。180席のジャパニーズお好み焼レストランということで、また、ぜひお越しいただいたらと思うのですが、合わせまして、65店舗。それから、従業員総数が、直営だけですが、現在、612名。600名強、あるいは700名弱とか言われますが、弱とか強とかいう人間は1人もおりません。612名、間違いありません。
 半数以上が、アルバイトです、パートです、そして、フリーター。だけど、お客様からごらんになれば、アルバイトも社員もすべて社員として見られるわけです。ですから、アルバイト、パート、フリーター、そういったものに関しても、社員と同じ教育、同じ扱いをしなければなりません。当たり前のことなのですが、グループ合わせまして、年商が50億を突破したという会社の、私は創業者です。
 なぜ、そうなったのですかと、ときどき聞かれるのですが、自分でもよくわからないのです。私は学歴がありません。昭和36年、地元の中学校を卒業して、そして、社会人となりました。37歳、実は全国展開真っただ中のときに、大阪府立桃谷高等学校に入学しました。これは、実は、通信制です。4年間、レポートを出し続けながら、月、水、金、日、週4回スクーリングに通い続けました。日曜日も学校に行くのですが、日曜日ともなれば、みんなは弁当を持って、学校に行くのですが、私はベンツに乗って学校に行くという。(笑)ありがとうございます。笑うところは、ここだけしかないんです。(笑)ほっとしました。ありがとうございます。
 なぜ学校へ行ったの。はい。おかげさまで私にも子どもが、男ばっかりですが、3人おります。長男が進学の時期になりました。残念ながら、見事失敗しました。担任の先生から、息子さんはお父さんの背中を見て育っていられます。おやじ、中卒でも、ああして、元気で活躍しているやんか、学問なんて。いやいや、学歴はどっちでもいいです。だけど、学問は大事だ。幾ら言っても、やっぱり、俺の背中見て育ってたんか。お店が歓楽街のど真ん中にあります。本社も、歓楽街のど真ん中にあります。まあ、友達が夜な夜な飲みに行こうと誘ってくれます。おつき合いするのですが、こんなことばっかりしておってはだめだ。自分にも、ちょっとかせをかけてみたい。そんな思いもあって、たまたま、私の妹の婿ですが、高校の教師をしておるものですから、俺みたいなものでも行ける学校あんのやろか。そして、見つけてくれたのが、大阪府立桃谷高等学校。さあ、入学しました。
 ところが、二十数年、学問から離れています。なかなかついて行けられなくて、やめようと思いました。まして、全国展開真っただ中、社長しています。言いわけもできると思うのですが、入学したら間もなく、周りから、「中井さんすばらしいですね。社長しながら、しかも、全国展開真っただ中、こんなときにでも高校に行くなんてすばらしい。ポーズだけでもすばらしい」と言われました。今、言ったように、やめたいと思うのですが、今、やめると、「やっぱり中井はポーズで行きよった」と思われそうなので、言われそうなので、クラスメイトに助けてもらいながら、無事4年目にして卒業証書を手にしました。260名入学したのです。ところが、1年の間に130名が退学していきました。実際、4年目に無事卒業できたのは42名という。でも、気持ちはまだ中卒と同じです。
 この高校に進学したというのは、周りに、大きな、大きな影響を与えることとなりました。縁があって、学校の先生、あるいは保護者が不登校の相談に来られるのですが、100%学校に行くようになります。保護者が、あるいは担任の先生が、「どんな話されたのですかとか」と、よく聞かれるのですが、いやいや、別に私は専門家でも何でもありません。心理学者でもありません。ただ、なぜ学校に行ったのかという話を、ただ、切々とするだけであって、昔からよく言われるのです。子どもは親の言うことは聞きません。親の言うことは聞きませんが、ところが、近所のおっちゃん、おばちゃんの言うことは、よう聞いたのです。周りの人の言うことは聞く。会社でもそうです。部下が言うことを聞かないと嘆く。そうそう、あんたの言うことは聞かへん。聞かへんから、相手があかんということと違うのです。あんたの言うことは聞かへんけど、別の人の言うことは聞くんやで。ここなのです。縦軸はしっかりしていますが、もし自分の部下に、よその課の部の人間が、何か言うものなら、わしの部下に何言うてんのとなるでしょう。でも、違うやんか、あんたの言うこと聞かへんけども、別の人の言うことは聞くんやで。
 昨年、漢字一文字にありました絆というのはまさにこのことであって、横串です。いわゆる、自分の言うこと聞かへんけど、誰かの人の言うことを聞いてくれたらええわけですよ、つまり、近所のおっちゃん、おばちゃんも、最近は、なかなか言ってくれないです。まして、言うもんなら、子どもは逃げていきよるんですね。とにかく、知らんおっちゃん、おばちゃんから声かけられたら、逃げなあかんで。そんな教育指導を受けているものですから、そういうふうになっていく。絆と言う言葉ばんばん言っています。でも、やっていることと、言ってることちゃうやんかということを改めて思いますね。
 今、言ったように、私は高校に行った。私どもは中卒でも採用しています。と言うこともあって、不登校の子どもを抱える親から相談受けるのです。学校に行かへんのであれば仕事したらということで。本人が面談に来ます。これは面談といっても、30分、1時間ではないです。2時間、3時間、場合によっては5時間、終わったらぐったりします。そのときに、「何で学校に行かへんの、何で、何で。」いろいろ、聞きますね。学校行ってる間は親が、あるいは家庭が、そして学校が、地域が、先生がいろいろなことを言います。そうか。けどな、社会いうところは、もっときついねん。もっと厳しいんだ。吉本興業なんか入ってみ。休ませてください言うたら、はい、もうずっと休んでいていください。つまり、学校に行けとか、それから、来なさいとか、世の中、そんな甘いこと言ってくれへん。おまえ、社会で頑張ろうというその勇気があるんだったら、その勇気を持って学校に行け。でも、やっぱり、あかんかったら、うちに来たらええ。何ぼでも迎えてあげる。俺は37歳のときに高校に行った。高校に行って親不孝にしたんや。
 学校に行ってたある日曜日、母親から私の家に電話があって、女房が出た。帰ってきたら電話するようにということで、私、帰ってきてから、実家へ電話したのです。「お母ちゃん、何。」奈良のほうではおふくろのことをお母ちゃんと言うのですが、「お母ちゃん、何」って聞いたら、「政嗣、おまえ、学校に行ってるねんてな。」「うん。」「誰の?」「いや、誰のって、俺のや。」「何で。」「いや、何でって、俺、高校行ってへんやんか」って言ったときに、電話の向こうで、おふくろが絶句しました。それから年に何度か、父親の墓参りに家族で帰るのですが、帰るたびに、おふくろが「学校に行ってんのか、学校に行ってんのか。」聞いてきましたけれども、「そんなのええやんか」と言いながら、誰に聞いたか知りません。4年目、ちょうど卒業式の朝一番、おふくろから電話がかかってきました。「政嗣、卒業式やな、よう頑張ったな、よう頑張ったな、おめでとう」と言われたときに、僕は、「お母ちゃん、ごめんな、俺、いやみで行ったんちゃうねんで、許して。」
 俺はね、高校に行って、親不孝したんだ。おまえは、高校行かんと親不孝すんのか。おまえがやっていること、同じこと、結婚したら、子どもが同じことするで、かまへんのかという話を、懇々としていくのです。まあ、泣きますね。泣きながら、でも、泣いている姿を見たときに、ああ、これで、彼の汚れが落ちているのだと、何か、安心しますね。だんだん、だんだん、こう、話していくのに乗ってくるのですね。情が移っていくのです。子どももおとなしく、真面目に聞いてくれています。「おまえな、こんな姿を親が見てみ。涙こぼして喜ぶよ。おまえ、親の言うこと聞いてへんやんか。俺なんて、おまえが学校に行こうが、行くまいが、全く関係ない、他人だ。でも、他人の俺のことを一生懸命聞いてくれるやんか。親はな、もっと、もっと、俺以上のすばらしいことを言ってんねんで。もうちょっと素直に聞いてみたら。」という話をするのです。
 私、奈良県に生まれました。勉強が嫌い、学業成績が悪い、家が貧乏ということで、中学を卒業して、そして社会人になるのですが、学歴はありません。家は貧乏。お金なかった。あるいはもっと言えば、やる気もなかった。そんな私が、何か、きざな言い方かもわからないのですが、振り返ってみたら、こんな会社になっていたんですね。わずか5人の従業員からスタートしたのです。いやあ、もっと言えば、女房と2人からです。5人の従業員になって、「やめないでくれ、やめないでくれ、やめないでくれ。」と切実に願っていました。
 よく言われます。お客様のニーズに応えましょう。残念ながら、私は、そんなお客様のニーズに応える余裕がなくって、この数少ない従業員が、どないしたら、胸張って、自信持って働いてくれるのか。つまり、従業員のニーズに応えていったことが、平均年齢23歳、お客様のニーズに応えていくことにつながっていきました。お店も、だんだん、だんだんと忙しくなってきた。よい人材が欲しい、よい人材が欲しいと思うのですが、残念ながら、よい人材は全部、一流企業に取られていってしまうのです。であれば、もう、この手で、よい人材を育てる以外なかった。猫の手も借りたいほどでした。
 今日も、和歌山から来ておられる方がいらっしゃいますが、和歌山で猫が大活躍してくれているのですね。猫のたまちゃんと言うのですが、たまちゃんは駅長さんなんかして、マスコミで報道されたりしているのですが、あのたまちゃんもすごいです。後継者ができたようで、2代目ができたのですね。言い方は悪いですけれども、猫以上の人間だったらどんなんでも採用しよう。ある日、人間が応募に来てくれました。学歴はもちろんのこと、学業成績、身元保証人、一切問いませんでした。実は、これは、今も変わりません。
 振り返ってみたら、その中にたくさんの、この言葉、大嫌いですが、一般的によく言われる、つまり落ちこぼれ、非行少年、非行少女、少年院上がり、鑑別所上がり、あるいは教護学校、児童養護施設、あるいは元受刑者、そういう者がたくさん入社してくれておりました。1回言うても、2回言うても、なんべん言うても聞いてくれない。だけど、一流企業に行くような人たちと比べたらあかん。あるいは焦ったらあかん。こんなやつやめたほうがいいのに。でも、諦めたらだめだ。「比べず、焦らず、そして諦めず。」この3つを信条にしながら、実は、彼らとともに私も育ってきました。それはつまり、よく言われる、そうです、「共に育つ。」この教育につながっていきました。
 おかげさまで、我々、外食産業、学歴は問われません。学業成績も問われません。でも、徹底的に、人間性、人柄が問われるのです。大阪には有名な高級料亭、そうです、あの船場吉兆。あの船場吉兆の創業者が、2代目、3代目に言い続けられた言葉があります。それは、「商売ってなあ、人柄やで。」この言葉っていうのは、あらゆる職種、あるいは人間関係に欠かすことのできない言葉。まさに企業は人なり。人育てに始まって、人育てに続いております。これは永遠のテーマ。つまり、外食産業というよりも、「共に育つ」、この教育産業ではないかなと、改めて思ったりします。
 コンサルタントの先生が、時々、こういうことをよく言われるのですね。「おじいちゃん、おばあちゃん、昔の人、あるいは、創業者というのは、昔のことばっかり言う。そんな昔のことばっかり言うてる人間に未来はない。」と断言されるのですけど、ばかたれが。確かに、時代とともに変わっていくもの、あるいは変えなければならないもの、たくさんあります。よく承知しています。だけど、幾ら時代が変わろうとも、絶対に変えてはならないのもたくさんあるのです。
 実は、今から94年前、大正7年に初版が発行されました。もちろん、私は習ったことはありませんが、そうです、文部省から出されていた尋常小学修身書を手に入れたのですね。読みました。感動しました。感激しました。どんなこと、教えられているのか、ちょっと目録だけ読んでみたいと思います。
 小学1年生、こんなんです。「よく学び、よく遊べ」から始まるのですね。「時刻を守れ。怠けるな。友達は助け合え。けんかをするな。元気よくあれ。食べ物に気をつけよ。行儀をよくせよ。始末をよくせよ。物を粗末に扱うな。親の恩。親を大切にせよ。親の言いつけを守れ。兄弟仲よくせよ。家庭。忠義。過ちを隠すな。うそを言うな。自分の物と人の物。近所の人。思いやり。生き物を苦しめるな。人に迷惑をかけるな。よい子ども。」これ、小学1年生です。
 2年生に行きます。孝行。ちょっと、ひらがなでぺらぺら言っていますが、書いているのはカタカナで書いています。孝行と言いましたが、書いているのがカタカナでカウカウと書いています。現代用語に同時通訳しながらしゃべっております。(笑)「孝行。親類。兄弟仲よくせよ。自分のことは自分でせよ。勉強せよ。決まりよくせよ。自慢するな。臆病であるな。体を丈夫にせよ。友達に親切であれ。不作法なことをするな。人の過ちを許せ。悪い勧めに従うな。正直。忠義。約束を守れ。恩を忘れるな。祖先を尊べ。年寄りに親切であれ。召使をいたわれ。辛抱強くあれ。工夫せよ。規則に従え。人の難儀を救え。よい子ども。」これ、小学2年生です。
 1年生、2年生、この2冊、徹底的にたたき込んだだけで、立派な人間になります。間違いありません。せっかくですんで、3年生まで行っておきます。「忠君。愛国。孝行。」そう。この親孝行の孝行はたびたび出てきます。「孝行。仕事に励め。学問。整頓。正直。師を敬え。友達、規則に従え。行儀。勇気。堪忍。物事にあわてるな。皇大神宮。祝日。倹約。慈善。恩を忘れるな。寛大。健康。自分の物と人の物。共同。近所の人。公益。生き物を憐れめ。よい日本人。」
 さあ、3年生になって、よい日本人が出てきました。「よい日本人とは父母に孝行を尽くし、師を敬い、友達には親切にし、近所の人にはよくつき合わなければなりません。正直で、寛大で、慈善の心も深く、人から受けた恩を忘れず、人と共同して助け合い、規則には従い、自分の物と人の物との分かちをつけ、また、世間のために公益を図らなければなりません。そのほか、行儀をよくし、物を整頓し、仕事に骨折り、学問に励み、体の健康に気をつけ、勇気を養い、堪忍の心強く、物にあわてないようにし、また、倹約の心がけがなければなりません。かように、自分の行いを慎んで、よく、人に交わり、世のため、人のために尽くすように心がけるのはよい日本人になるに大切なことです。そうして、これらの心得は真心から行わなければなりません。」
 これ、小学3年生です。1年生、2年生、3年生、この3冊、徹底的にたたき込んだだけで、立派な経営者になります。立派な幹部になります。立派なリーダーになります。間違いありません。残念ながら、2つ飛ばしました。1つは天皇陛下、2つ目は皇后陛下なのですが、何、問題あるの。子どもはもちろんのこと、もう1回、大人も原点に返れよということを改めて思います。
 たまたま、これを紹介していたら、産経新聞出版社がこの3冊のすべてを収録した復刻版として、渡部昇一さんの監修で『国民の修身』を7月に発売されました。1,000円です。これは、細かいこと、全部解説つきです。子どもと大人、宣伝するつもりはさらさらありません。たまたま、よく、こんなのどこに売っているのと言われるのでご紹介させていただきます。復刻されたのが3年生まであるので、どうかお買い求めいただいたらと思うのですけれども。
 皆さんご存じの、相田みつをという詩人がいらっしゃいますが、相田みつをさんの詩にこんなのがあるのです。「花を支える枝、枝を支える幹、幹を支える根、根は見えねえんだなあ。」つまり、「花があって、花を支えているのは何ですか。そうです、枝です。枝を支えているのは何ですか。幹です。幹を支えているのは何ですか。そうです、根なんですね。そして、根は見えねえんだなあ」、という詩です。つまり、根って何ですか。そう、あなたの考え方、感じ方、捉え方、生き方、人間性、人生観、価値観、目に見えないです。でも、見えるのです。そう、その考え方、捉え方が幹。つまり、行動となってあらわれています。そして、枝から花に出て、実がなるというのは、言うてみたら、結果なのです。
 桜の木、1月、2月、枯れ枝のようです。でも、春になれば、間違いなく花、開きます。何故ですか、そうです。しっかりと根が張られているから。私たちの命の元って誰ですか。そうです、親です。両親です。親を敬いも、感謝もしない人間、残念ながら、ただの1人も大成された方いらっしゃいません。
 たまたま、この間、14日の日に、私の出身の母校である白鳳中学が、全校生徒の前で文化講演会というのがあって、私、出身ですから、母校ですから、そこへ講師に呼ばれたのです。会場に行って、感動しました。「ようこそ先輩」。ようこそ先輩。何か、そのセリフ聞いたことあるなと思いながら、ああ、そうか、先輩やってん。演台に立ちながら、まずちょっと、校歌聞かして。もうびっくりです。50年以上も前のことなのに、すっとそらで私も歌えるんですね。それから、450名の後輩たちを前にして、90分のお話をしました。そのときに、子どもたちに言ったのです。私、もちろん中学を、もう卒業して50年。50年です。その間、つらいことも、苦しいことも、嫌なことも、たくさんありました。だけど、それを支えてくれたのが、私の、このふるさとでしたという話をしたのですが、1,400年の歴史と伝統ある奈良、ここで、皆さん方、生まれ育っていられるのですよ。誇りを持ってください。これを大事に、大事に、次の世代に伝えてくださいという話をしたのです。
 さて、皆さん、自分の命ってあるじゃないですか。自分の産んでくれた両親いてますね。その上に、また、両親がいてます。その上に、また、両親がいてます。その上に、また、両親がいてます。先祖でずっとつながっていくのですが、そうなのです。古く、ずっと昔たどっていったら、もう国民みんなが兄弟というような、そういう、たくさんの手によって、自分が産まれたのです。尊い命なのです。同じように、隣の方、お友達もそうなのです。その産んだお母さん、両親、その両親、その両親、そういう血を受け継いだ中で、人がいるのです。一人一人の人権をほんとうに尊重してほしいということを言いました。
 ともあれ、今、景気が悪いとか、いろいろなことを言われていますけども、だけど、考え方、捉え方にすべてがあると思うのです。今日は、人権という大変、重たいテーマをいただいています。私、残念ながら、そんな難しいこと、専門的なことは、正直、全く知りません。ただ、日ごろから思ってきたのは、一人一人を大事にすることだ。これが、人権そもそも根の部分。人を大事にしなさいということ、どんな人であっても大事にしなさいということが、人権の基礎だということを思うのです。
 人権と言ったら、特に、権利、権利という話をよくされています。いやあ、ちゃうやんか。権利の前に大事なことがある、義務がある。義務がどこか行っているのです。権利、権利ばっかりの主張をされるのですが、よく、握手するときに、こうやって、両手で握手しますね。両手で握手するのですが、ちょっと、あなた、オギハラさんですか、済みません。ちょっと小指だけあけてください。これで、握手してください、ぎゅっと。よく締まるでしょ。もう1回、普通の握手、これね。この握手、この握手。全然、ちゃうでしょ。ちょっと、隣の方と、小指をちょっとあけて、隣の方とちょっと握手、しっかりと握手してください。よう締まるでしょ。いやいや、そんな話ししているのとちゃうんです。(笑)
 はい。これはですね、日本の国民の義務、ご存じですか。まず1つ、働きなさい。ともかく働きなさい。労働の義務です。働いたら、税金を納めなさい。納税の義務。さあ、そして、3つ目。教育の話です。教育を受けさせる義務です。義務教育というのは、まさにこのことです。この3つをしっかり国民の義務として守る。先ほどご紹介した握手は、ボーイスカウトのなんです。ちょっと、皆さん、公務員の方、たくさんいらっしゃるので、これから、皆さん、握手するときは、この方、小指広げてしっかり伝えていただきたいというふうに思ったりします。
 しっかりお話しします。だけど、言ってみたら、後ろにも資料がたくさんありまして、専門的な知識とか、そんなん知りたかったら、図書館へ行ったら無数にあります。あるいは本屋さんへ行ったら、専門書が無数にあります。だけど、これからお話しする話というのはライブです、生です。つまり、その人から漂ってくる雰囲気というのがあるのです。残念ながら、これは、だましはできないのです。講師の方から漂ってくる雰囲気、つまり、ライブ。
 ちょっと余談ですけども、私は、関西演芸推進協議会、NPO法人、今、社団法人になりましたが、そこの、いろいろお世話させていただいているのですが、何のことはない。大阪で、実は、吉本興業、松竹芸能、この2つの大きな芸能プロダクションに所属していなかったら、芸人さんの舞台がないのです。もう6年になりますか、上方落語協会会長さんが桂三枝師匠、この間、襲名披露されて、文枝師匠になりましたが、その会長率いる上方落語協会が、大阪は北区天満宮というところに、天満天神繫昌亭という常設の落語の小屋を民間の手によって誕生させました。連日、大にぎわいです。
 それよりもまだ歴史の古い関西演芸協会。この会長さんが桂福団治師匠なのですが、もう8年前、大変、個人的にも親しくしておりました。その8年前というのは、実は、私が道頓堀商店街の会長をしているときでした。道頓堀、実は、過去に一番にぎわった時代というのは五座があった時代なのです。ご存じですか、角座、中座、浪花座、朝日座、弁天座という大衆演芸場があったのです。残念ながら、この五座、今、すべてパチンコ、ゲーム、カラオケに占拠されてしまっています。食のまち大阪、食い倒れのまち大阪とか言っていますが、何言っているの、食だけでは持たへんのです。その証拠に全国のうまいラーメン屋さんばっかり集めたラーメン大食堂というのが、道頓堀に誕生しました。2年持たなかったです、つぶれたのです。
 つまり、そうです、お芝居見てから、御飯食べよう。御飯食べてから映画見に行こう。何かとドッキングして初めて、お互いに相乗効果をもたらすのですね。そのときに、福団治師匠から、中井さん、関西演芸文化を支えてもらえないか。そして、継承し、普及させてもらえないかという話あって、もう、喜んでさせてくださいということで、さあ、関西演芸推進協議会が立ち上がりました。既にメンバーが800名を超えております。心斎橋にある大丸心斎橋劇場という300席の劇場をお借りして、笑うライブ、笑らいぶ(わらいぶ)を開催してきました。舞台挨拶させていただきました。皆さん、ようこそお越しくださいました。これから、若手が登場してきます。そして、中堅が、ベテランが登場されます。ぜひ、皆さん、思い切り、声出して笑ってあげてください。思い切り、指の骨折れるくらい、音立てて拍手してあげてください。よろしくお願いしますとご挨拶します。
 よく講演でもそうなのですが、あるいは、舞台を見て、楽しかったわ、元気が出たわとか、よく言われるんですが、元気をもらっている間は、絶対元気にはなれないのです。もらっている間は、外に出たら、ぶすん、ぶすん、ぶすん、もう終わってしまうのですね。元気になるのは、つまり、周りを元気にさせることが大事です。周りを元気にさしたら、自分が元気になるのです。その、元気というのは、いろいろあるのですが、その中の1つ、拍手です。拍手。この拍手も、さあ、○○さん、登場されます。どうぞ。皆さん、盛大な拍手でお迎えください、どうぞと言ったときに、そのときに、さあ、見ている人が、パチ、パチ、パチ。こんな拍手で登場した人間がスイッチ入りますか。また、聞く側もです。見ている側も、こんな拍手で、おい、聞くぞというのはないです。つまり、「待ってました!」というのはパチパチパチパチなのです。待っていましたと、こんな拍手するのです。演者たちも、やあ、どうも、皆さん、こんにちはと始まっていくのです。乗るのです。つまり、どっちもスイッチ入るのです。
 特に、役所で会議をやったときに、どうも、皆、音が小さい。それで、音を聞いただけで、何か、やる気ないねんなとか思うのです。何か、惰性でやってはるのですか、義務的、作業的にやっているのですかと思ったりするのですが、ほんとうに心から思っていたら、思い切り、気の入った拍手、指の骨が折れるぐらい。ちょっとやってみませんか。すみません、今さら拍手の練習はないのですけども、ちょっとご協力いただけますか。皆さんにも、一緒にスイッチを入れたいと思うので、ご協力よろしく。指の骨が折れるぐらい、思い切り拍手やっていただけますか、大丈夫ですか。こういう、あほみたいなことを真面目にやることが大事です。あほみたいなことを、あほみたいにやったら、あほです。(笑)真面目にやることが、すごく大事です。よろしくお願いします。拍手。(拍手)はい、ありがとうございました。これだけで、しゃべるほうもそうですし、聞く側も思い切りスイッチ入ってくるのです。だから、これは、今だけじゃなくて、皆さん、これから、どこへ行かれても、拍手されるときには、思い切り、この拍手に拍手がつられるのです。このことがすごい大事です。くれぐれもお気をつけいただけたらと思うのですが、ありがとうございました。
 千房の千日前本店のちょうど裏側が、なんばグランド花月、吉本興業があるのですね。吉本興業は、吉本の裏に千房があるって言うのですが、何言うてんの、千房の裏に吉本があるのですけども。まあ、朝から晩までおもしろいことをやっています。けども、あれ、実は、笑わんかったら、おもしろいことも、何ともないのです。つまり、笑うからおもしろいのです。テレビ見て、ラジオ聞いて、腹抱えて、涙出るほど笑うということは、絶対ないです。ところが、生だったら、ライブだったらあるのです。
 私の友達が、笑いの学会を主宰しているのですが、あるとき、連れられて行きました。こんなような会場なのですが、皆さん、2人向かい合ってください。何さすんか知らんと思ったら、「はい、それでは、皆さん方にこれから笑っていただきます。用意、始め」とか言うのですね。おもしろいことも何ともないのです。突然笑えと言うのです。友達はプロですから、声出して、うへーと笑ったのですね。私、思わず、こいつ、あほとちゃうかって。で、思わずくすっとしたら、また、輪をかけて、うへーと笑うのですね。やっぱり、こいつあほやわなんて、笑っているうちに、大発見しました。何か、どこからともなくおもしろくなってくるのです。ああ、そうか。おもしろいから笑うっていうのもあるねんけども、おもしろなかっても、声出して笑ったら、おもしろくなんのかということに気づくのですね。
 私たちのキャッチコピーがあります。「笑(しょう)は、商なり」は、笑いは商いに通じています。「笑は昌なり」笑いは、繁盛に繋がっています。「笑は勝なり」何よりも、笑いは勝つ。「笑は正なり」がん患者が笑って、がんが消滅したという事例はたくさんあります。糖尿病患者が笑って改善されたという事例はたくさんあります。笑うというのはいかに大事か。けども、こんな時代、なかなか笑われへんと言われるのですが、いやいや、笑われへんから笑われへんじゃなくて、1回、家へ帰って、鏡に映っている自分の顔をちょっと見てください。そのときに、思い切り、声を出して、1回笑ってください。そうですね、20秒ぐらい。20秒ぐらいのときは、何か白けてきます。わしゃ、何しているんだろう。白けてくるのですが、30秒超えた時分から、何か、スイッチ、ポンと入るのですね。入った途端に、何かおもしろくなってくるのです。おもしろくなって、そこへ拍手を加えていくと一層盛り上がっていくのですが、おもしろいから笑うのちゃうねん。笑うからおもしろくなってくんねんということを実感してもらいたいのです。
 どんな人でも、うまく行ったら希望を持つのです。違うねん。希望を持つからうまいこと行くねん。あるいは、わかるからやるっていうのがあります。いやいや、ちゃうねん。わからんでもええねん。やったらわかる。わかるということは、わ・か・る。わとかがひっくり返ったら、わかるということは、そうです、変わるということです。変わらんかったらわかったことにならへんのですね。
 知っている人と、やっている人としたら、間違いなくやっている人が勝ちます。やっている者が勝つし、それから、続けている人はもっと勝ちます。これ、簡単に言うと、知っているのは1、やっているのは10の力があります。続けているのは100の力があります。知らないより知っているほうがええけども、知らんでも、やっている者が勝つんやでということが、そこにあるのです。
 あるいは、また、誰でもよくなったら感謝します。いや、ちゃうねん。感謝するからよくなるねん。以前コマーシャルで思い切りやっていました。「ありがとう」。これは、魔法の言葉とか言っておられますけども、実は、ありがとうの反対は、何かご存じですか。子どもたちに聞くと、ありがとうの反対は、ありがたくない。まあ、そうなのですけども、そういうことじゃなくて、ありがとうの反対は、実は、「当たり前」。当たり前。朝が来た。目があいた。当たり前。職場がある。当たり前。仕事が終わって、帰る家がある。当たり前。待っていてくれる人がいる。当たり前。目が見える。当たり前。耳が聞こえる、しゃべれる、手が動く、足が動く。当たり前。そうですか。盲目の有名なピアニストが言いました。もし目が見えたら何が見たいですかと言ったときに、お母さんの顔が見たい。お母さんの顔が見たいです。つまり、我々、目が見える者にとっては、お母さんの顔が見れる幸せを当たり前のように享受しているのです。
 まあ、だけど、健常者、あるいは障害者というのがあるのですが。100%の障害の方は一人もいらっしゃいません。目が見えない、耳が聞こえる。手動かせない、足動かせる。100%の障害者の方はいらっしゃいません。同時に、100%の健常者もいらっしゃいません。目が見えるのに、人の話を聞くのに目をつぶる。目をうつむく。あるいは、耳が聞こえるのに、耳日曜日。しゃべれるのにしゃべらへん。手足動くのに動かさへん。これは、ある意味では障害です。社会というところは、お互いに欠けているものを補い合うのが社会です。ですから、障害者だと言って、哀れみの目で接するのは、大変失礼だと思うのです。お互いに欠けているものを補い合うのが社会なのですよということです。
 あるいは、病は気から。気は病から。どこか体の具合が悪いからそういう気持ちになるねん、いやいや、そうじゃなくて、そういう病んだ気持ちになるから病気になるねん、ということなのです。
 テレビで思い切りやっていました。心は見えないけれど、心遣いは誰にでも見える。思いは誰にも見えないけれど、思いやりは見えると。そうです。思いを形に。形に思いを、いわゆる、実行。形から入って、そこに心を入れるという。後からでもかまへん。まずは形から入れということを言っているのです。
 さっきもちょっと言いましたが、私は、学歴はない。勉強が嫌い、学業成績が悪い、家が貧乏ということで、中学を卒業して社会人になっていく。これは、私にとっては超ラッキーなのですね。超ラッキーなのですが、私の上に、兄、姉、それから、妹、弟がおります。これが非常に学業成績が優秀。もう私の3つ上の兄なんてクラス委員をしていたり、生徒会長なんかをしておりました。その下に私がおるんです。できの悪い子どもほど、その子ども、親から見ればかわいいもんだと言われるんですが、あれは嘘ですね。やっぱり、親もできのいい子どもに期待をかけていましたね。私なんて、勉強なんてしろなんて言われたことがなかった。そんな学業成績が優秀な兄、姉、いずれも、中学を卒業して、そして就職をしていきました。家が貧しいばかりにです。
 でも、私は勉強も嫌い、学業成績が悪い、家が貧乏。もう、私とっては、就職、超ラッキーなのです。超ラッキーなのですが、だけど、少年よ、大志を抱け。夢と希望を胸いっぱい描いてと言われるのですが、残念ながら、まだ15歳。子どもです。そんな、夢、希望なんて持てるわけがなかった。まして、卒業式が、昭和36年3月18日。地元の白鳳中学卒業式。その明くる日でした。3月19日。そぼ降る小雨の中。また、寒が戻ったような寒い日でした。誰よりも、誰よりも尊い父親に連れられて、奈良から、そして大阪に向かっていきました。今、言った、15歳。頭丸刈り、学生服を着て、持ち物と言えば、風呂敷包みだけ。ほんとうに風呂敷包み。中に肌着を入れてもらって、脇に抱えて、親のあとをとぼとぼとついていくのです。何で私がこんな話をするのか言うたら、私の生い立ち、背景が、元受刑者、あるいは養護施設、そういう者たちを採用する、大きな、大きな動機になっているからです。
 ともあれ、親父は私に言いました。「政嗣、1年間はな、どんなことがあっても、家に泣いて帰ってきたらあかんねんで。」親父は、私に励ましたつもりで言ったんでしょうけども、私は励まされたどころか、むしろ突き放された気がした。俺にはもう帰るところもあらへんのか。別れ際、そっと私に500円を握らせてくれた。今、もらったこの500円、これが私の全財産でした。「政嗣、元気でな」と言って、私を残して親父は帰っていきました。四つ角まで父親を見送りました。親父、二、三度、心配そうに振り向きながら、そして、人ごみの中に消えていってしまった。この光景というのは、私は、いまだに、頭にこびりついていて、忘れられません。この姿こそが、私が父を見た最後の姿になったからです。その年の昭和36年10月10日、父はがんで亡くなりました。「チチキトク、スグカエレ。」その当時、電報でした。飛んで帰ったのですが、10分前に親父、亡くなっていた。泣けないのです。いやあ、帰ってきた。何遍も、何遍も帰りたい思ったけど、親父、帰ってくるな言うから、俺、帰られへんかったけど、今、帰ってきたんだ。
 厳しさ、苦しさ、これはね、耐えることができます。だけど、寂しさだけは耐えられなかったのですね。まだ、十五、十六、子どもです。1日、仕事が終わって、さあ、布団をかぶった途端に、ふるさとの景色がぶわーっと出てくるのです。おふくろの顔が浮かんでくるのです。途端に、家に帰りたいなあと思ったら、涙、だーっと出てくるのですね。毎晩、泣いて寝ていました。寂しさは耐えられなかった。
 あの、東日本大震災被災地に、何度も何度も、炊き出し、その他で足を運びました。被災した、その人たちの生の声を聞きました。目の前で親が流されていった、子どもが流されていった。あるいは職場が。そんなのを生で聞いたときに、寂しさだけは耐えられへんやろな。私のその当時のこととダブりながら、一緒に抱き合って泣きました。そんなのが、何回も、何回も繰り返されていったのですが、避難所に行かれなかった人たちが、のぼりに寄せ書きで「東北頑張れ!」と書いてくれました。現地に持っていたのですが、とても、とても、こんなのぼりをかける気がしなかったですね。つまり、生きているだけでも頑張っているねん。頑張れ東北とちゃうねん。頑張らなあかんのは、被災を受けていない者が頑張らな、あかんねん。ほんとうに心に誓ったものです。まだまだ、これからも復興支援は続いていく。しっかりと皆さんとともにやっていきたいというふうに思いました。
 そこから私の人生が変わっていくのです。親父が亡くなった。もう誰にも頼れない。そのときに、何でもええから、小さなお店を持ちたい。独立目標ができるのです。目標ができる。そのときに、兄が私に言いました。「政嗣、独立しようと思うたら、お金ためなあかんわな。お金貯めるコツは簡単やで。お金はな、収入の高いこと違うねん。お金はな、使わんかったらたまんねん。」もう私、大笑いしました。そんなん、誰でも知ってるやんか。
 こんなような話をしてくれました。比喩ですけども「ちりめんじゃこ、あるやんか。ちりめんじゃこ、口に入れたら、すぐ溶けるやろ。ちりめんじゃこ、食べたらあかんねん。ちりめんじゃこ、餌にして、サバ釣れ。サバ釣ったら、1日食える。食べたらあかんねん。サバ、餌にして、マグロ釣れ。マグロ釣ったら、1カ月食える。でも、もう1回、辛抱せえ。マグロ餌にして、鯨釣れ。鯨釣ったら、一生食える。」うまいこと言うたなと思う。これは、いまだに頭にこびりついていますね。
 同時に、もう1つ言われた。「金銭出納帳をつけろ。」小学校、中学校、絵日記もろくさまにつけたことのない私。でも、何かにすがっておかなければ。じゃあ、金銭出納帳をつけていたら、一人前の商売人になれるのか。だったら、つけようと思って、そして、つけ始めました。9月1日。お金、拾う、10円。時効ですけども(笑)。10月5日、ヤマニシの前で拾う、5円。5円拾った、10円拾った。克明に記帳されていきました。その金銭出納帳、これが、千房を創業するときに、わずか80万しかお金がなかった私に、小さな、小さな6年間の取引のあった信用組合が救ってくれた。この信用組合が、総投下資本3,000万円、無担保で融資していただきました。これが、千房の誕生です。
 2年ほどたって、軌道に乗り始めたころ、その信用組合の理事長が、中井君、創業当時のことを覚えているか。はい、忘れもいたしません。担保もなしで。いやあ、実は、大きな担保があったんだ。君は、多分知らないと思う。奥さんと二人で22歳から独立して、おじいちゃんとおばあちゃんと全くの他人がやっておられたお店の後を受け継いだ。そのときに、お店を訪ねた。君、出前に行って、おらへんかったんけど、君の奥さんから、君の丁稚奉公のときの話を詳しく聞いた。5年間、道で5円拾った、10円拾った、克明に記帳されていた金銭出納帳のことを思い出したんだ。すごい担保の裏づけがあった。よく頑張ったねと言われたとき、そうやったんか。継続は力なり。続けるって何が力ですか。私、全従業員612名、アルバイトに至るまで、全従業員の給料袋に、毎月、毎月、私からメッセージが入っています。このメッセージ、書き続けて、入れ続けて25年と8カ月。千房を創業して、今年、39年です。25年前まで、全従業員、給料を現金で手渡しでした。
 残念ながら、今日は時間の関係でその話をしませんけれども、非行少年、非行少女を採用し、立派に立ち直っていくというこの話なのですが、教育委員会とかそういうところで時々話をするのですが、何回話をしても、その場面にきたら涙がでーと出てくるのです。思い出すのです。泣きながらお話をしてきました。講演が終わって外に出たら、必ずと言っていいぐらい、どなたかが私のもとに来られて、「うちにもあんなん、1人おるんですが、採用してやってくれませんか。」まるで千房を更生施設のように思われている(笑)。それでも、この手で採用してきました。全国からレベルの高い非行少年、非行少女が集まってくれました。給料を現金で手渡し。給料日に現金盗難事件が全国的に相次ぎました。間違いなく内部です。
 罪を憎み、人を憎まず。疑わしきは罰せず。人を見て法を説け。この言葉、大好きです。人を見て法を説け。とったやつが悪い。これは、誰が何ちゅうたかて、悪いのですが、そんな環境をつくっていることが、もっと悪いやんか。現金を手渡ししているからだ。銀行振り込みにしたらええねん。いや、月に1遍くらい、従業員の顔見たい。ねぎらってあげたい。励ましてあげたい。いや、何も給料日じゃなくてもええやんか。いや、給料日というのは、それなりの意味のある日だと思ったときに、私の友人ですが、社員に、全従業員に給料袋の中にメッセージを入れているということを知って、じゃあ、私もやろうとやり続けて25年と8カ月。
 ちなみに、これは今月号です。食欲と文化の秋は年中夢求です。(年中夢求のむきゅうは夢を求めるという夢求です。)業績も上向き加減になっています。飲食店は経済の動きと連動しています。チームワークのとれている店舗は特によいのです。先日、全国主任研修を大阪で開催しました。テストから始まり、工藤支配人のモチベーションアップの話は、参加者をやる気にさせたと思います。全員の手柄話には成長した姿を見せていただき、頼もしく感じました。特に、岡田SVの体験発表に感動しました。彼は、入社時より給与袋に同封しているこのメッセージカードを出したのです。平成4年4月号でした。お金は使わんかったらたまる。こんな簡単な一言を忠実に実践していたのです。40を超えたら誰もがわかる。実感しているのです。体験に基づいた話は迫力満点、幾ら貯めたのでしょうね。
 市村副社長の伝説のサービス。千房の創業時のメニューボードを出しながら、千房の歴史を語りました。感激。竹田恒泰先生は講演で、日本が腰砕けになったのは、戦後アメリカの手によって、日本の歴史と神話を消したことにある。それを学ばない民族は崩壊する。事実なんてどうでもよい。真実を学ぶべきと力説されました。一日一日を積み上げてきた歴史。その上に私たちが生かされています。今日の売り上げは、昨日までの結果。今日の努力は、明日への種まき。日本に生まれてよかった、千房に勤めていてよかったと思える会社を目指しています。すべてはあなたにかかっています。平成24年9月9日中井政嗣。NO308号。
 これ、毛筆です。それから、原寸です。「中井さん、習字習っていらっしゃるのですか。」いや、習った覚えはありません。最初、書き始めたころは、ミミズに覚醒剤を打ったような字を書いていました。どんな字かようわかりませんが。毎月、毎月、大変ですね。いや、皆さん、朝、顔を洗って、歯を磨くのは大変ですか。幼稚園のときは大変だったのです。でも、今、何ともないわけですね。よいことは続けなさいよ。続けたら本物になります。本物は続きます。
 イエローハットの創業者、鍵山秀三郎さんが言っておられます。10年続けば偉大なり。20年続けば歴史となり、30年は恐るべし。50年は神のごとしと言っておられるのは、まさにそのとおりだということを思うんです。
 3年前に、山口県美祢というところの、美祢社会復帰促進センター、つまり官民一体の刑務所です。PFIというんですが、この刑務所にかかわっておられる民間の、小学館集英社プロダクションから、就労支援の依頼が来ました。何で。つまり、創業当時からそういうものを受け入れていた経緯を知っておられて、そして、千房さん、ひとつ就労支援をお願いできませんかということで来られました。熱心に来られるものですから、じゃあ、私たち仲間、飲食店も含めて、10社の社長ばかりを引き連れて、その美祢の社会復帰促進センターを視察しました。
 これで義理は果たせたなと思いながら、ちょっと放っておいたのです。そうしたら、小学館さんが、法務省さんを連れてきて、それから、いつからスタートしましょう。まあ、とにかくお尻に火をつけはるんですね。うちわであおらはるんですが、これはあかんで。じゃあ、何とか前向いて行かんとあかんかなと。つまり、大卒も、あるいは高校卒とか、新卒の大卒も迎えられるような、そんな企業になっています。そして、来年の新卒はやめようという、ちょうどそんなときでした。困ったなと思いながら、だけど、いろいろ実態を知った私は、何とか力になりたい。そんな思いがあって、幹部を集めてこの話をしました。もちろん賛否両論。何で、社長、そんなん採用するんですか。まして、今、そんなの採用せんかて、何ぼでも人採用できるじゃないですか。まして、今年は、止めているときに何で。そんなん採用したら、お客さん、怖がって来ないじゃないですか。いや、そういう人もいるかもしれない。だけど、いいことしてんねんねと応援してくれる人もいるかもしれない。
 要は、損か得か。プラスかマイナスかということに関しては、プラスマイナスちゃらだ。でも、企業として、これは、善か悪かどっちだと言ったときに、それは間違いなく善です。じゃあ、取り組もうよ。俺かて、そうだ。学歴もなかった、能力もなかった、やる気もなかった。でも、振り返ってみたら、いろいろな人たちに目かけてもらった。支えられた。おかげで社長をしております。同じように、おまえたちも、言い方悪いけどね、誰のおかげでここまでなれたん。俺のとは言わない。いろいろな人に目かけもろたやんか、世話になったやんか。そして、今、こうなってんのやんか。それを、次の人にバトンタッチしてあげたいと思わないか。経営も、教育も、これは、マラソンと違うねん。駅伝だ。自分がやってもらったことを次にバトンタッチしたいと思わないか。最終的に、社長がすべて責任をとりますということで、私と人事部長を連れて、美祢社会復帰促進センターに面接に行きました。
 その前に、募集を刑務所の中でしてもらいました。男子500、女子500。今、ちょっと増設されたようなのですが、約1,000名が収容されている、官民一体の刑務所です。そこで募集したら13名が応募したようです。その中の男子2名、女子2名、4名を刑務官に選んでいただいて、そして面接に挑んだのです。何かなしに面接しているのじゃなくて、ちょっと条件を出しました。私ども現場が23歳と若いんで、何ぼいっても、25ぐらい。ただし、実年齢ではなく見た目25歳。戸籍年齢にはこだわりません。その次に3つ。まず、いろいろな事情があるんでしょうけども、殺人、これ、外してほしい。うちも力がついたら、また、これも取り組んでいけるかもしれませんけど、今のところ外してほしい。2つ目は覚醒剤とか薬物、それから3つ目、強姦とか性犯罪、この3つだけ外してほしいということで、応募されたのが、今、言った13名でした。
 1人、90分。2日間にわたって面接をさせていただいたのですけども、4人とも、面接して泣かされました。すべて家庭崩壊でした。じゃあ、家庭崩壊の子どもはみんなそうかいな。決してそうではありません。本人が一番、もちろん悪いのです。昔、こんな歌がありました。「こんな女に誰がした」っていうのがあったのですが、「こんな人間に誰がしたのよ」と思ったときに、100%、罪をとがめることができませんでした。そして、そのうちの2人を内定してきたのです。
 ちょっと話は変わります。月刊『致知』というところで、これは、実話ですが、掲載された鈴木秀子という先生のお話です。実話です。『その先生が5年生の担任になったとき、1人服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。あるとき、少年の1年生からの記録が目にとまった。朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみとある。間違いだ。ほかの子の記録に違いない。先生はそう思った。2年生になると、母親が病気で世話をしなければならず、時々、遅刻すると書かれていた。3年生では、母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする。3年生の後半の記録には、母親が死亡。希望を失い、悲しんでいるとあり、4年生になると、父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力を振るう。
 先生の胸に激しい痛みが走った。だめと決めつけていた子が、突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として、自分の前に立ちあらわれてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。放課後、先生は少年に声をかけた。先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかないか。わからないことは教えてあげるから。少年は初めて笑顔を見せた。それから、毎日、少年は、教室の自分の机で、予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手を挙げたとき、先生に大きな喜びが湧き起こった。少年は自信を持ち始めていた。
 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。後であけてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその1滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋で、1人本を読んでいた少年は、気がつくと、飛んできて、先生の胸に顔をうずめて叫んだ。ああ、お母さんのにおい。今日は、すてきなクリスマスだ。6年生では、先生は少年の担任ではなくなった。卒業のとき、先生に少年から1枚のカードが届いた。先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番すばらしい先生でした。
 それから6年、また、カードが届いた。明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます。
 10年を経て、また、カードが来た。そこには、先生と出会えたことへの感謝と、父親にたたかれた体験があるから、患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。僕はよく、5年生のときの先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって、最高の先生は5年生のときに担任してくださった先生です。そして1年、届いたカードは結婚式の招待状だった。母の席に座ってくださいと1行、書き添えられていた。』
 内定した2人は、そして、半年後に仮出所をしてきました。まず1人、そして2人目。私どもで衣食住をすべて提供しながら、彼らを迎えました。迎えて、そのときに、出所したときに、私、この3つを約束してくれということを言いました。まず1つ。うそをつくな。2つ目、ルールは守れ。ルールは従うものではない、ルールは守るものだ。3つ目。素直であれ。この3つ。これ守ってほしい、絶対嘘つかんといてほしい。
 同時に、ただ君たちを採用したのではない。君たちを採用したのは、後に続く者たちがいることをしっかりと認識して欲しい。ただ単なる2人を採用したんちゃうねんで。そのことを自覚してほしい。会社でも賛否両論あった。だけど、何とか後に続く者たちにつなげていきたいために、おまえたちが成功しなかったら、まして、10社が刑務所に視察に行っているのです。行っているのですが、私ども以外は、一切、まだスタートは切っておりません。私たちの今の現状をしっかりその周りが見ているのだ。君たちが成功しなかったら、いわゆる、後に続く人に、もうつなげなくなる。だから、自分だけの問題と違うということを自覚してほしい。くれぐれも頼む。
 やがて、保護観察が終わりました。だけど、そのときに改めて私は言いました。君たちは、確かに法的には罪を償ったかもしれないけども、被害者がいる。永遠に、いわゆる罪を償わければならない、残念ながら。だから、君たちが償うのをお手伝いする。償うと言うことは、一番大事なことは、自分たちがまっとうに生きることだし、後に続く者たち、君たちが店長になって、そして、自分がお世話になった刑務所に行って、採用募集をかけて、そして面接に行って、内定を出してくる。この辺まで徹底的にやってほしい。そこまでは、私も責任を持って見守っていきたい。それまでは保護観察。私が、君たちの保護観察だ。千房もいろいろなことがあった。君たちもいろんなことがあった。でも、これは変えられへんやんか。だから、今までもそうだ。千房は過去は問いません。ただし、現在と未来は問う。そのために、自分と未来は変えられるやんか。これを忘れないでほしい。
 奈良少年刑務所から講演依頼がありましたが、その前に浪速少年刑務所から講演依頼が来ました。講演が終わって、そしてしばらくたったら、その講演を聞いた院生たちの中の1人が、千房に勤めたいという依頼が刑務官から来ました。いや、ちょっと待って。今、2人、採用したばっかりで、これが海のものとか、山のものとか、全くわからへん。だけど、私、浪速少年院で講演したときの光景が目に浮かびました。130名でしたが、そこで90分のお話をさせていただきました。この時話したことは夢と希望を与える話を思い切りしてきました。泣きながら話しました。講演が終わったら、彼らが一斉に立って、アンジェラ・アキの「手紙」というのを合唱してくれました。感動しました。ぼろぼろと涙しながら、思い切り、心から頑張れよとエールを送りながら舞台からおりていきました。その浪速少年院をあとにしました。私、講演中思ったんですが、130名。これがすごいな、まっとうに生きてくれたら、この130人、うちに全部迎えられたら10軒の店できるね。ああ、あのときの話を聞いた院生たちか。であれば、面接しよう。
 社内でも営業部長が、最後の最後まで懸念しておった。この営業部長をあえて面接に連れて行きました。今度は1人だけでしたので、60分ということで、60分の面接をしました。面接が終わりました。営業部長にどうやと聞いたときに、営業部長が、社長いいですね、採用しましょうと言ってくれた。私は思わずありがとうと言ってしまいました。ありがとう。刑務官に言って、また、彼をもう一度面接会場に呼んで、彼の顔をまじまじと見つめながら、おめでとう、内定ですと出したときに、もう、彼は、ぼろぼろと涙こぼした。ありがとうございます、頑張りますと言いながら、そして、半年後に、やはり、私どもが迎えに行きました。
 現在7名が、私どもで勤務しております。まだ、保護観察、あるいは執行猶予中、こういうのもおります。何のことはない、東京のある店なのですが、お店に行ったときに、社長、1人面接してください。何と聞いたら、いや、ちょっと、今、執行猶予中なのですが、1人採用しましたと聞いたときに、ああ、そうか、もう既に、現場がそういう形で動いてくれているのかということを知りました。ありがたく思いました。
 だけど、ただ単純に、ここまで来ているわけでも、何でもありません。やっぱり、起こってはならないことも起こってきます。その中の1つにこんなのがありました。もう既に、美祢社会復帰促進センターから受け入れた者がレジをやっています。罪状は窃盗です。レジをやっていて、あるとき、事故報告書が私のもとに上がってきました。この事故報告書というのは、つまり、3,000円以上、お店のレジが、現金過不足が起こった場合、事故報告書として私のもとに上がってきます。6,000円のマイナスでした。見たら、担当が本人でした。さあ、私、びっくりして、すぐに店長に電話を入れました。「店長、社長だ。今、事故報告書見たんやけども、彼を信じてやってほしい。彼はやっていないから、だから、周りがひょっとしたら、後ろ指指すかもわからへんから、くれぐれもフォローしておいてほしい」と言ったら、店長が「社長、ご安心ください。私も信じていますから、既にフォローしていますから、ご安心ください、大丈夫です。」「そうか、頼むよ」と言いながら、電話を切りました。しばらくたったら、本人から電話がかかってきました。「社長、信頼していただいてありがとうございます。もちろん、やっておりません。これからも決して裏切ることはありませんので、どうかご安心ください。でも、電話、うれしかったです。」たった1本の電話。これが、どれほど、周りに大きな、大きな影響を与えることかということなのです。
 でも、少年院から来た者が、この間のお盆のときに蒸発しました。続けざまで2人蒸発していった。これは、申し合わせでも何でもなく、別々の話なのですけが、まあ、びっくりしました。私どもの社員です。もし、これが再犯したら、どうなる。間違いなく千房社員と出ます。すぐ警察に行きました。南警察に行って、実は、今、行方不明です。保護願と捜査願を出しました。電話を持っているので、メールを入れるのですが、一向に反応がない。1週間待ちました。でも、このまま放っておくわけにいかへんので、最終結論として、本人宛にメールしました。もう1回だけチャンスをやる。だから、今、連絡来たら、今やったらチャンスをあげるから。だけど、連絡がなかったら、残念ながら、それなりの対応、処置をするから。ということをメールしましたら、そうしたら本人が出てきました。
 店長が待ち合わせをして共に私のもとに来ました。何のことはないです。大事な仕事の、その日に遅刻したのです。結構、正義感が強かったのですかね。遅刻して、これはもう俺も終わりだと思って、飛んだのです。着のみ着のまま飛んでいるのです。「申しわけありませんでした。また1から頑張ります。」「うちは更生施設とは違う。謝って、おまえは済んでも、俺とおまえと2人だけやったらかまへんねん。けども、ちゃうでしょ。周りにどない説明するの。まして、店長、店長の管理不行き届き、管理責任が問われる。最終的には社長まで責任を問われるのやけども、そんな甘いもんと違うねん。どうしたらいい。」そうしたら、店長が、泣きながら、社長、もう一度戻してください。現場の従業員、アルバイトに至るまで、全従業員の嘆願書を出します。それで許してください。泣きながら言ってくれました。
 そのときに、私、ほんとうは本人も、現場も、もうだめだというふうになったら、私、頼んででも、もう1回我慢して、迎えてあげてほしいと、ほんとうは言いたかった。そうして、その言葉を受けて現場の店長並びに全従業員が言っているということを知って、わかった。じゃあ、全従業員の嘆願書、店長をはじめ、嘆願書と、本人の減給処分で、これで終わりということで、帰ってきたその日から、もう既に現場に入りました。そして現場から嘆願書が届きました。
 このたびは、○○が4月24日から寮から姿を消し、行方がわからなくなり、中井社長や市村副社長、部長、次長はじめ、家族の方々、店の全従業員や、彼を知る方々にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。そして、1週間という長い時間、職場から離れ、ほんとうなら即解雇と言われてもおかしくない状況で、チャンスを与えていただき、ほんとうにありがとうございます。○○は少年院から、中井社長のおかげで千房に入社することができ、覚えにくい頭を全力で使い、頑張っています。彼のよさは、元気なところです。店の活気を生む原動力になる存在です。すごく生き生きとして、皆が楽しい気持ちになるぐらい、影響力は非常にあります。そして、いろいろな方々に、すごくかわいがられ、好かれやすく、皆に目をかけていただいています。目をかけていただいているだけではなく、後輩にもすごく面倒見がよいのです。反対に、悪い部分で言えば、自分が失敗したときなど、すぐに落ち込んでしまうところです。何事もまっすぐ受けとめてしまう性格、かつ若さゆえに、気負う気持ちも強いと思います。今回の件でも、絶対にあってはならないことですが、結果的に逃げてしまったり、周りの皆様にどれだけ迷惑をかけたか、ほんとうにわかっているのかな、などまだまだ足らないところはいっぱいあります。遅刻は誰にでもあることですが、その場から逃げだすことは、二度とさせません。ほんとうに、これからの千房にとって大事な存在であることは間違いありません。二度目はないと思っています。もう一度、○○を千房で働かせてください。お願いいたします。店長。
 それから、アルバイトも含めてですが、従業員が○○君が働いているお店の雰囲気がよくなるので、○○君の職場復帰の許可をお願いします。○○君は、我々を引っ張っていく人材の人間になると思っています。職場復帰をお願いします。職場復帰をお願いしますとなって、今、2人とも、もう1人も飛びましたですけども、だけど、おかげさまで、2人とも戻ってきております。
 彼らに改めて言ったことは、自分たちだけの問題と違うということを、改めて、ともかく自覚してほしいんだ。同時に、面接から、ずっと現在までに至るまで、大阪の関西テレビが密着取材をしております。たまたま、私、道頓堀の商店街会長のときに、阪神タイガースが18年ぶりで優勝して、道頓堀に川へドッと飛び込んでいった4,000人、2,000人とかマスコミは言っておられますが、いやいや、実際は6,000人飛び込みました。そのときに、関西テレビの報道部に大変お世話になった経緯があって、この取り組みをしようと思ったときに、私は思いました。これは、世間にオープンにせなあかん。隠したらあかん。オープンにしよう。どうせ腹くくるのだったらオープンにしようということで、関テレの報道部に電話を入れました。実はこういうことをやろうと思っているのですが、いかがですか。密着取材させて下さいということで、その刑務所の協力も得ながら、そしてカメラが面接会場に入っていきました。
 最初の10分と、後ろの10分、あとはカメラをはずしてもらいましたが、その模様がすべて収録されました。そして、仮出所してきました。刑務所の中は、全部モザイクが入っています。でも、私どもに来た途端にモザイクが消えました。本人の実物がモザイクなしで、くっきりと映りました。お店の看板がくっきりと映りました。怖かったんです。もうほんとうにどきどきしていました。でも、日本も捨てたもんじゃなかったのです。ただの1本の嫌がらせも、そういう批判のメールとか、あるいはブログであるとか、ファクスであるとか、そういうものは一切ありませんでした。大半は、現場にも大きな反響が来ました。ともかく、その本人の顔をお客さん知っていますから、頑張れよとエールを送ってくれたようです。
 ともあれ、彼らたちが一刻も早く、店長になって、そして、一番最初の入ってきた人間、去年10月の認定試験、昇格認定試験に挑んできました。まず社員から、そして、主任になって、店長になります。決して、げたを履かすわけでもなく、見事、主任の合格認定を、合格しました。彼らが一刻も早く店長になって、そして、自分がお世話になった刑務所に行って、面接をして採用してくるというところら辺までを、当面の5年以内に多分、それは達成するであろう。同時に、入ってきた者が主任になった。私どもの取り組みをずっと知っている飲食店の人たちが、今、既に4社、協力体制してくださることになりました。そのうちの3社が近々募集に入っていくと思います。やっぱり手間暇かかります。でも、手間暇かけたらかけた分だけ情が移っていきます。人間は、教育してそんなに育つものではありません。やっぱり、目をかけて、大事に、大事に、目をかけていく。そういうことが、いわゆる人の情けというんですか。
 札幌刑務所、これは女囚でした。女囚の方、600名ぐらいでしたか。そこで、90分のお話をしました。感想文が来ました。
 「お忙しい中、私たちのためにわざわざこの北海道まで足をお運びいただき、貴重なお話をしてくださった社長さん、講和の時間は1時間30分、往復の時間のほうがはるかに長い。感謝で、頭を下げるのはこちら側なのに、講話が終わり、講堂を出ようとしたとき、社長さんが一人一人にありがとうございましたと頭を下げていらっしゃるではありませんか。その光景を見たときに、何が起こっているのかわからず、え、嘘とびっくりしてしまいました。この方は、誰に対しても、何に対しても、感謝をされている方なのだと、お話を聞いた後、改めて思いました。お話をお聞きしているうちにどんどん引き込まれてしまう自分がいました。笑ったり、泣いたり、感動したり、1時間30分という間、苦痛ではなく、また、飽きず、もっと聞きたいと、とても魅力的でした。それは、やはり、社長さんの一生懸命に生きてきた姿すべてからのものなのでしょうか。
 社長さんは、社会からこぼれてしまった人間のことを、苦労された時代の仕事の話を交えてお話をしてくださいました。まさに私は、社会からこぼれ落ちてしまった1人です。罪は許されません。過去も変えることができない。でも、今と未来は変えることができる、自分の努力で社会に戻ることができるかもしれない。戻りたい。認めてもらうのに一生かかるかもしれません。簡単なことでもありません。とても怖いです。中井社長さんのような理解をしてくださる方はいないと思います。でも、自分が一生懸命に生きていけば、いつかきっと認めてもらう日がくるかもしれません。中井社長さんのような理解のある方がいらっしゃるかもしれません。それは、自分が変わっていくしかないことなのです。
 私は、社長さんのお話をお聞きしてから、強く、強く思えることができました。今まで社会に出ることを怖いと思っていた私に、一歩前に出る勇気を与えていただきました。そして、何をどうしてよいかわからない私に、過去は変えられない、でも、今と未来は変えることができるというお話で、そうだ、私にはそれしかないと気づかせていただいたのです。刑が終わるまで9カ月を切った今、この時期に社長さんのお話を聞くことができましたことは、私にとってほんとうにラッキーなことでした。不安でどうしたらよいのかわからなかったのに、社長さんとお会いできたこと、ほんとうに感謝しています。この講話の機会をつくってくださった先生方にも感謝しています。ありがとうございました。自分自身が努力して、未来を変えていき、いつか私のような人がいたならば、少しでもその人の力になれるように、今は、一生懸命にその日が来ることに向かって歩いていくのみです。それも、1つの罪の償いだとも思います。社長さんのお話をお聞きして、こんなにも考え方を変えることができました。」
 美祢で4名面接したうちの女性2人が仮出所してきたときに、私のもとに1人は来ました。1人は手紙をくれました。私のもとにきた2人が、うらやましいと。なぜ、うらやましいのか。千房さんに入った人たちはオープンにしてもらっている。私たちはいまだに過去を伏せているんです。履歴書を偽っているんです。いつもおどおどしていますということを言ったときに、ああ、そうやったんや。私どもに入っている7名は、すべてオープンにしています。過去は変えることができない。でも、自分の未来は変えられるやんか。そんなわかりやすい話をしました。いわゆる、昔、御殿に住んでてん。今、こじきしてんねん。昔、こじきやってんけど、今、御殿や。どっち格好ええの。言うまでもないやんか。変えることがでけへんのやから、それを1つのエネルギーにしろ。周りに、おまえたちに続く者たちのためにも、君たちがまっとうな人間に、成功しなかったらだめなんだということ、自分だけの問題と違うということを、くれぐれも忘れないでくれということを言い続けています。
 いわゆる、協力雇用主のところでもよくお話しします。この時に、皆さん、そういう就労支援しておられること、恥ずかしいですか。違うでしょう。立派な社会貢献をしておられます。どうか、オープンにしてください。1人でも大勢の方を迎えるために、オープンにしてくださいよ。あるいは、元受刑者に関してもそうだ。過去は変えられへんやんか。だけど、今、立派にやっていますと胸張って行け。ましてテレビでオープンにされた。もう二度と後には戻れないで。
 まあ、おかげさんで、私どもも怖かったのですけども、現場もおどおどしていました。でも、要するに、彼らが出所して、現場に入ったと同時にカメラが来ました。すると、頑張れよとカメラの前でええ格好してくれたのです。また、元受刑者も頑張りますとええ格好したのです。そのええ格好した者同士が、だんだん、だんだん、それが本物になっていったということでした。だから、カメラが入ってきたことも、ほんとうによかったな。オープンにしてよかったということを、今、痛切に思います。
 まだまだ、いろいろなドラマが待っていると思うのですが、でも、反省は、1人ででもできますが、更生は、1人ではできません。周りの力、暖かい、何よりもぬくもり、1人ではないのだというぬくもりを感じさせることが、更生の道に進んでいくということを強く感じています。彼らを見て、彼らとともに、私たちも育ってきました。彼らが入ってくることによって、一気に会社が活性化されていきました。みんな、やさしい人間になってくれました。よかったなあ、彼らとともに、私たちも育てていただいているような気がします。これからもしっかりと、就労支援に結びつけていきたい。継続していきたい。心から思いますし、それを、皆さん方にも改めて約束しながら、終わりたいと思います。
 長時間、ご清聴ありがとうございました。