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人権に関するデータベース

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研修講義資料

京都会場 講義2 平成26年11月11日(火)

「障害者差別解消法 ~誰にも優しい社会へ~」

著者
野澤 和弘
寄稿日(掲載日)
2015/03/25

 障害者関係の法律が今なぜ必要なのか、我が国の歴史の中で障害者というのはどのように扱われてきて、今どのような状況にあるのかということをお話しさせていただこうと思います。
 障害者虐待防止法(2011(平成23)年)、障害者差別解消法(2013(平成25)年)、障害者権利条約(2014(平成26)年批准)など、障害者関係の法律、あるいは制度の整備が、ここ数年、非常に目まぐるしく行われています。これはいったいなぜなのでしょうか。戦後の社会福祉というものはどのようなものだったのかというと、この頃は一般の障害者というのは、あまり公的福祉の対象としては見られていませんでした。それだけ余裕がなかったということもありますが、そのようなことは家族の中で支え合ってやってください、というのが我が国の福祉の原形のような気がします。世界各国を見てもだいたい家族で支え合うというのが原形ですが、スウェーデンやデンマークのように公的福祉サービスが非常に高いレベルの国もあれば、アメリカのように、企業がかなりそれを担っているところもあります。日本と同じように家族中心の福祉という国が多いのですが、私はこのやり方は決して悪くないと思ってきました。
 実は私の長男も重い知的障害と自閉症というユニークな障害があります。見た目には分かりません。ただ言葉は全くしゃべれません。知能検査ではIQ測定不能です。時々パニックになってしまい、私や妻の手の甲は傷だらけになってしまうこともあります。しかし、決して彼は乱暴者でもわがままでもないのです。むしろ逆だと思います。彼にはいろいろな思いがあるのでしょうが、うまく伝えられない。それで混乱してしまい、パニックになって目の前にいる、自分が信頼している人にそれをぶつけてくるということだと思っています。ですから、とても生きにくい人だと思います。世間から誤解されやすいといってもいいのかもしれません。
 やはり家族のような、彼らのことをよく知っている人たちが生活を支えていくことが、彼らにとっては安心できることだと思います。しかし、それだけだと家族の負担が重くなります。特に母親が家庭に縛られてしまう傾向が非常に強くなります。そして本人にとっても家族の中で生活するだけで本当にいいのだろうかということが言われてきました。また、日本では家族だけによる福祉が不可能になってきています。理由は幾つかありますが、一つは高齢化です。
 年齢別の人口動態のグラフを見ると、子どもと現役世代は大変な勢いで減っていて、高齢者だけが着実に増えている。これが日本の高齢化です。また、人口減少が同時におきています。これだけの高齢化と人口減少に見舞われている国というのは世界を見ても日本ぐらいかと思います。寿命はどんどん伸びています。ついに男性の平均寿命が今年は80歳を超えました。我々が今注目しなければいけないのは都市部の高齢者です。地方はまだ隣近所の支え合いや家族の機能がそれなりにあったので何とかなってきました。しかし都市部はそうはいきません。これだけ膨大な高齢者を誰がみていくのかということです。これは世界中どこも同じようなものです。他の国もあまり戦争がなくなり、飢餓がなくなり、医学が発達してくれば人間はそれほど簡単に死ななくなる。世界規模で高齢化が始まっているということです。しかし、高齢化そのものを悲観すると世の中が暗くなってしまいますし、私は最近あまり高齢化を悲観する必要はないのではないかと思っています。なぜかというと、昔の高齢者と今の高齢者はずいぶん違う。今の高齢者は経験が豊富で時間がたくさんあります。まだまだ才能があり元気です。こういう方たちが、今、日本に大量に現れているのですから、いろいろな面白いことを始めてくれる可能性があるのではないかと思うのです。
 むしろ心配なのは、日本が家族中心の福祉であるということです。戦後の日本はどんどん核家族化が進んでいるため、もう家族で福祉を支え合うのは不可能です。そこで政府は1990(平成11)年代の終わりに社会福祉基礎構造改革を行って福祉の形をがらりと変えました。実はこれが今日の障害者の権利擁護をめぐるさまざまな制度の原点になっているのです。これまでは家族が障がい者の生活を担ってきました。家族がつぶれてしまって、どうしても担えない場合には行政が社会福祉法人等に委託して福祉サービスを提供します。これを措置制度と言います。しかし、これをやっていくとパンクしてしまうので、1990年代後半に措置から契約へ大転換をしたわけです。つまり福祉サービスを提供する側を産業として育て、福祉が必要な人とサービスを提供する側が対等な関係で契約を結ぶということです。
 2000(平成12)年に高齢者の世界で介護保険が始まりました。障害者の世界ではその3年後の2003(平成15)年に支援費制度、さらに3年後の2006(平成18)年に障害者自立支援法ができました。今は障害者総合支援法(2013(平成25)年)になっていますが、いずれも契約制度です。子育てだけはやはり家族が面倒をみるものだと措置制度できましたが、いよいよこの消費税増税に伴う子育て新システムの発動により契約に近い形になっていくわけです。
 契約のよい点は、自分で好きなサービスを選べることです。「憲法25条の福祉から憲法13条の福祉へ」などと当時言われていました。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」というのが25条です。13条は幸福追求権、そして個人の尊重が定められています。幸福追求権というのは自分で好きなサービスを選んで幸せを追求していってください、という意味です。個人の尊重は、障害があるとしても家族の附属物ではありません、障害者は、家族や施設の中で守られているだけではなく、権利を持った1人の人格として見なしていかなければいけないという意味です。これは大変素晴らしいことです。自分でサービスを選べるというのは劇的な転換です。ただし、ここで大きな問題が登場します。自分でサービスを選べない人がいるということです。例えば認知症の高齢者や言葉を全く発しない知的障害のある人たち、あるいは重度の精神障害の人たちはどうなるのでしょうか。
 少しここで日本の障害者福祉の大きな特徴を押さえておきます。日本では、施設や病院での隔離収容型の福祉というものが非常に色濃いのです。ヨーロッパやアメリカは何十年も前から大規模な施設や精神科病棟が廃止されてきました。今、ヨーロッパではほとんどが、住み慣れた地域で自由に暮らそうという方向で進んでいます。ところが日本は、まだ入所施設に暮らしている知的障害者が11万人以上います。精神病院に至っては社会的入院が20万人と言われています。世界を見ても日本は突出しているのです。これを国は10年、20年ぐらい前から何とかしようとしてきましたが、最近、ようやく地域での福祉が根をおろしてきたといえるのではないでしょうか。今の日本の福祉はこのような状況です。
 それでは、自分で選べない人はどうしているかというと、家族が代わりに選んだり、行政が選んだり、最近では相談支援専門員などが選んだりしていますが、「果たして、第3者が選んだ福祉は、本当に本人が希望するものといえるのか」ということが、自己選択や自己決定という言葉で盛んに議論されるようになりました。この問題意識が、当時それまで埋もれていた一連の問題を社会にあぶり出すようになったのです。
 例えば児童虐待は昔からありました。私は新聞記者になって30年以上経ちますが、三重県の津というところで3年間駆け出しの記者時代を過ごした当時から、親の暴力で子どもが亡くなるということはありました。慌てて警察に取材に駆け込むと、警察は発表すらしてくれません。「これは事件ではない、新聞に書いてもらうような社会問題ではないのです。家族の中で起きた問題なのですから、そっとしておいてやったらどうですか」と言われた覚えがあります。当時から児童虐待はあったのですが、メディアが取り上げてこなかっただけなのです。今のような大きな報道がされるようになったのは1998(平成10)年の10月からです。
 当時私は毎日新聞の児童虐待取材班におりましたが、何だか児童虐待が多いと思い全国の支局を通じて調べてみました。すると、1998(平成10)年10月までの1年半の間に、全国で57人の子どもが虐待で亡くなっていたのです。これにはちょっとびっくりしました。当時学校でいじめによる自殺があると、1件でもテレビ・新聞は連日大騒ぎです。ところが児童虐待は1年半で57人です。しかし、ほとんど社会的問題として認知されてきませんでした。我々が社会問題として見てこなかったところに、実は深刻なことが起きているのではないかと気付いたのがこの頃です。
 高齢者の世界でも、有料老人ホームが終身介護をうたって高い入居金を取りながら、認知症が始まると介護の手抜きをするという非常に詐欺的なことをしているのが発覚して、公正取引委員会が、「終身介護というのは虚偽表示だ」という切り口で問題化していったのもこの頃です。
 障害者の世界では、1995(平成7)年に発覚した水戸市の「アカス事件」があります。この事件は当時我々が報道した連載記事を基に『聖者の行進』というテレビドラマになりました。水戸市に知的障害者を30人雇用していた段ボールの加工工場があったのですが、その工場で起きた事件です。今は随分障害者雇用が進んできましたが、当時は、地方都市で30人もの知的障害を雇用している企業はありませんでしたから、この会社は地元では大変有名で福祉に熱心な優良企業と言われていたのです。ところが一皮めくってみたら、連日のように殴る蹴るのひどい暴力です。一番ひどくやられていたのは19歳の男の子でした。コーヒーの空き缶を両ひざの裏に挟んで正座をさせられ、ひざの上には漬け物石を2個乗せて2時間お仕置きだと座らされたり、スリッパで顔を何十回も殴られ、耳が半分ちぎれて大出血して病院に運ばれたこともありました。当時の雇用促進協会という公的な団体から4,800万円という助成金を受けて従業員寮を建て、そこに社長も住み込みます。そして、女性に対する性的な虐待も行っていたのです。陰惨極まりない事件でした。こういう虐待は密室性が高いので外からの目が入らない、だからなかなか発覚しにくいといわれます。確かにそういう傾向はありますが、完璧な密室というものはなくて、実は周囲の人が知っている、うわさが出回っている、目撃者がいる、そんなことが結構多いのです。やはりこの事件もそうでした。
 ある女性はとんでもない性被害を受けています。フラフラになって寮を飛び出してきます。最初に駆け込んだのは警察署です。次に労働基準監督署、ハローワーク、福祉事務所、コミュニケーションが難しい面もありますが、どこに行っても相手にされません。当時は警察や労基署というのはあまり障害者のことを分かっていなかった。少なくとも障害者の権利ということについてはほとんど理解されていなかったのです。福祉事務所だけは障害者に詳しいケースワーカーさんがいるのに、おかしいじゃないかと思って私は話を聞きに行きました。すると、そのケースワーカーさんは、「大変申し訳ありませんでした」と反省していました。「最初はびっくりしました。あの福祉に熱心な優良企業でまさかそんなことが繰り返えされているとは信じられなかった。被害者から、分かりにくい言い方で、くどくど言われたため嘘じゃないのかな、と思えてきてしまいました」と言っていました。
 私はそれを聞きながら、この方は必死になって嘘だと思いたかったのだと思いました。もし本当だったら自分は何かをしなければなりません。一介のケースワーカーに調査権限や捜査権限はありません。相手は地元の優良企業だという評判のところです。自分の先輩や同僚たちが何年もかけて育ててきた企業です。そのようなところに乗り込んで行って30人も助け出してくるのは大変なことです。そういうときの人間の心理というのは、どうしても後ろ向きになってしまうのではないかと思います。ですから現場にだけ責任を押し付けても駄目なのです。やはり障害者に対する認識を変えることが必要です。そのためには、被害があったときに表に出していく。そしてきちんと救済できるような仕組みをつくることが大切です。これが今日の障害者虐待防止法につながる最初の事件です。
 次の「サングループ事件」というのは滋賀県で起きた雇用の場の事件です。「白河育成園事件」は1997(平成9)年に発覚しました。福島県の山奥にあった入所施設です。30人定員のところですが27人は東京都内の障害者です。2人が横浜、地元は1人だけ。つまり東京、横浜のような大都市は地価が高くてまとまった土地がないので自前の施設をつくれない。ですから地方の過疎地の施設に障害者を入れるという非常に評判の悪い政策をとってきました。今でも北海道や九州の離島に行くと施設があって、そこには東京の人ばかりということがよくあります。
 「白河育成園」は1980年代の半ば頃に建てられました。当時東京都内で入所を待っている人が1,900人いたそうです。その待機者の家族に、後に理事長になる男性が説得するわけです。「1,900人も待機者がいて、おたくの子どもにはいつ順番が回ってくるのか分かりませんよ。私に寄付をしてくれればいい施設をつくって、一生面倒をみてあげますよ」と。1人につき800万円ずつ集めました。山奥に立派な施設をつくったのですが、施設の運営や福祉については全くの素人であったため、でたらめなことになります。10代、20代の元気いっぱいの知的障害者、発達障害者ですから体は丈夫で元気です。そこで理事長は持て余してしまった。どうしたのかというと徹底した薬漬けです。夜の6時になると睡眠薬を大量に飲ませて動物以下の扱いをしていました。
 10年経ち4人の女性職員の勇気ある告発によって、この施設のひどい虐待が発覚し閉鎖に追い込まれました。30人は一度家に帰りましたが、1人だけ女性が取り残されてしまいました。その女性のお母さんが家に帰ることをがんとして認めなかったからです。他の親たちが、「ひどい施設だと分かったじゃないの。おたくの娘さんだって帰りたいと泣いているのだから帰したら」と一生懸命説得していましたが、お母さんは顔色一つ変えませんでした。「皆さんどうぞご勝手にしてください。私はこの子の実の母親なのですから、うちの娘の幸せは誰よりもこの私が一番よく知っています。うちの娘はずっとこの施設にいるのが一番幸せなんです」。そんなことを言っていました。なぜこのお母さんが意固地になってしまったのかというと、多額の寄付をしていたからでした。自分の人生を掛けているので引き返しがつかなくなってしまったのです。
 虐待事件の現場を歩くと、実に多くのこういう親たちに出会います。虐待されている我が子を守るのではなく、虐待している相手側に立って擁護をしてしまうような親たちです。水戸の事件でもあるお父さんが、「こんな子たち、雇ってもらえるだけでありがたいんです。少しぐらいぶたれてもいいんです。あの社長は神様だと思っている」。こんなことを言うのです。どうしてそんな理不尽なことになってしまうのかと思います。しかし、私に対して「あなたは一体どうなのか」と問われたとしたら、悔しいですけれども、私の中にも同じような要素があることを否定できません。障害の重い子どもを持った親にとって、我が子を預けている相手に対する独特の屈折感、あるいは遠慮、負い目、いろいろな思いがあります。なかなか我が子をストレートに守るということにつながっていかないのです。
 親というのは切ないもので、この子のために、この子のためにと思っていろいろなことをやりますが、よくよく考えてみると、この子のためにと思ってやっているうちの何割かは、実はこの子のためではなくて、親が自分自身の安心感にしがみついてやっていることがあるように思います。あるいは不安で、不安でどうしようもなくてやっている。大抵それでも子どもの幸せと重なり合うのだと思いますが、時と場合によっては背中合わせになってしまうことがあるということです。
 私は、このお母さんに大変同情します。でも被害に遭っているのは一体誰なのかということを見失ってはいけないと思います。10年間、山奥の施設に閉じ込められて、殴られたり蹴られたり、薬漬けにされたりしていたのは娘さんです。決してお母さんではありません。憲法13条の個人の尊重というところに立脚して、きちんと被害者は誰なのかということを見なければいけない。
 当時、他にもたくさんのいろいろな事件が表に出て来ました。これが措置から契約に切り替わる1990年代の終わり頃の日本です。
 ようやくこの頃から、国や地方自治体はさまざまな権利擁護の制度をつくり始めました。
 滋賀県は「サングループ事件」をきっかけに「障害者110番」という権利擁護の相談窓口をいち早くつくりました。初代の110番室長が、「確かにこの制度はいいと思う。だが、ここに机と電話を1台置いて、『障害者の皆さん、困ったことがあったら、ここに電話をかけていらっしゃい』と言ったって、電話をかけてくる障害者がどれぐらいいると思う?」と言うのです。「ここに電話をかけてきてくれるような障害者はこの制度がなくても多分私たちも気づくでしょう。でも、ひどい目にあっている人に限って声をあげてはくれないものです。私たちが彼らの本当の声を聞くためには、彼らが生活している現場に入らなければならないのですが、それは難しい。ですから、彼らとともに生活や仕事をしている人たちが私たちに伝えてくれるようにしなければ」と言っていました。私も全くそのとおりだと思います。
 いろいろな事件の現場を歩きます。こんなひどい目に遭っていて、どうして「悔しい」、「助けて」と声をあげてくれないのかと悲しくなってくるようなケースばかりです。なぜ障害者は声をあげないのでしょうか。一つには障害の程度が非常に重い人の場合に、自分の身に起きていることの意味が分からないということがあります。水戸の事件はこれでした。重度の知的障害のある女の子が週末自宅に帰ってきたときに、お母さんが見ている前で見知らぬ男の人の体を触り始めたのです。お母さんはそれを見て、その場で気を失ってしまいました。娘はいったい会社で何をされているのかと、びくびくしながら調べたところ、ひどい性被害を受けていることが分かったのです。ところが娘さんは社長からされていることの意味が分からない。自分が被害に遭っているという認知ができない。それでも苦痛や屈辱感を感じ、人間の尊厳を踏みにじられ、ぼろぼろにされてしまうというのは非常に残酷なことだと思います。
 また、本人は一生懸命「嫌だ」ということを言っていても、言葉によるコミュニケーションがない人の場合に、こちらが意味を受け止められないということがあります。なぜ急に大騒ぎするのか、暴れるのか、情緒が乱れているのかが分からないために、障害特性にすり替えられてしまう。自閉症の人はパニックを起こしやすいと簡単に決めつけられてしまう。これは非常に理不尽なことだと思います。
 では、言葉が話せる障害者は話してくれるのかというと、そんなことはありません。いじめの被害者を見てください。障害がなくとも無力感でがんじがらめにされてしまうと、なかなか本当のことを言ってくれません。どうせ言っても無駄だ、僕にはそんな資格はない、もっとひどい目にあったらどうしよう、親に知られたくない、恥ずかしい思いをしたくない、いろいろな無力感で自尊心をがんじがらめに縛られてしまい、言えなくなってしまう。
 そして、本来ならば彼らとともに生活し、一緒に仕事をして、彼らを守り代弁しなければいけない立場の人が加害者になってしまう場合が多いということです。家族がそうです。福祉の現場スタッフがそうです。雇用や教育や医療の現場のスタッフや管理者がそうです。ですから、障害者虐待という概念をつくったわけです。
 道を歩いている障害者が見知らぬ人に殴られた、あるいはお金を取られた、これは虐待とは言いません。犯罪です。すぐに警察に通報して捜査してもらわなければいけません。虐待というのは彼らを守ったり、代弁したり、しなければいけない立場の人による行為です。虐待の語源はabuse(アビューズ)です。 Abuse(アビューズ)というのは「不適切な使用」という意味です。何を不適切に使ってしまうのかというと親権です。
 日本の民法は親権が非常に強いのですが、さらにそれを過剰に使って子どもを傷付ける、あるいは死に至らしめる、これをchild abuse(チャイルド・アビューズ)といいます、障害者の場合には必ずしも親権を持っている人とは限りません。福祉の現場の人や、医療や雇用の現場の人もあります。その人たちも親に準ずる立場だということで、虐待の加害者になりうる立場として位置付けられたわけです。
 児童虐待防止法が2000(平成12)年、高齢者虐待防止法が2005(平成17)年、障害者虐待防止法は随分遅れて2011(平成23)年にでき、ようやく日本でも3つの虐待防止法がそろいました。そして、2013(平成25)年には障害者差別解消法ができました。2010(平成22)年以降に障害者関係の重要な法律がいくつも国会で通っていることが分かります。2010(平成22)年というのは民主党政権ができた翌年で、衆議院と参議院の多数派がねじれてしまって予算の関連法案すら年末まで通らないという異常な時期なのですが、障害者に関するいろいろな法律は通ってきた。これは自民、公明、民主各党の中に「障害者問題だけはきちんとやっておこう」という熱心な議員さんたちが何人かいて、手を携えて障害者の問題を進めてきたからだと思います。
 障害者自立支援法や障害者総合支援法(2013(平成25)年4月1日施行)は、障害者の立場をガラッと変えました。障害者が、行政処分や行政措置の対象から契約の主体に切り替わったということです。これによって、障害者は権利を持った主体として位置付けられるようになりました。福祉や給付の対象から働いて納税者になっていこうではないか、共生社会の重要な一員として位置付けていこうというのが、今取り組まれている障害者政策の核心部分です。これが国内の動きです。
 もう一つは海外からのいろいろな動きがそこにオーバーラップしていきます。つまり1990(平成2)年にアメリカが障害者差別解消法(ADA)という法律を世界で初めてつくりました。これが発火点になり世界各国に障害者差別を禁止する法律ができるようになります。10年経って2000(平成12)年に日本弁護士連合会が世界各国の状況を調べました。するとその当時、40数か国で障害者差別禁止法を持っている国があると分かりました。その中には、フランス・韓国・日本の主要3か国が抜けていたのです。フランスと韓国は間もなくよい法律をつくりましたが、日本だけがずっと先進国の中で障害者差別禁止法を持っていなかった。国連から勧告されましたが、なかなか政府は動きませんでした。
 次に国がつくらないのであれば、地方自治体が条例として障害者差別をなくすようなルールをつくっていこうという動きが出てきました。最初、鳥取県・長野県・宮城県が取り組みましたが、結局できませんでした。鳥取県は議会まで通ったのですが、凍結されてなくなってしまいました。宮城県や長野県は挫折してしまいました。日本で初めてできた条例は千葉県です。2006(平成18)年のことです。千葉県というのは保守的な県です。東京に近接し600万人も県民がいる大きな県ですがとても遅れています。2001(平成13)年に女性知事が誕生し、何とか自分がいる間に福祉を飛躍的によくしたいと思いましたが、なかなか県の職員がついて来ない。仕方がないので民間人を大量に福祉政策の場に入れて、政策立案から実行まで官民一体でやろうという方針を打ち立てました。国が障害者差別禁止法をつくらないのであれば、県が率先して条例をつくろうと打ち出し、研究会を組織したのです。その座長を拝命したのが私です。29人の委員の中には知的障害者、精神障害者、身体障害者、視覚障害者、いろいろな方がいらっしゃいました。
 障害当事者は結構うるさい人が多いのです。なかなか議論になりません。そこで事例の分析をやることになりました。この研究会が県民から差別の実例を募集したところ、全部で800余りの事例が集まり、それを分析したところ、いろいろなことが世の中には起きているということが分かりました。
 分野別に分類したのですが、一番多かったのは教育分野でした。これは、当時、統合教育を求めていた親たちが事例を集めてくれたためです。障害を持った子どもの親が、「うちの子は障害があるのですが、普通学級に通わせたいのです」というと、教育委員会から、「おたくの子は普通じゃないんだから」と言われて、「その言い方は何だ」と言い合いになる。このようなことがたくさんありました。また、学校から、「登下校だけでなく休み時間も付き添ってください」と言われて、乳飲み子を抱えたお母さんが、一日中校門の前にワゴン車を止めてそこで待機していたという切なくなるような事例もありました。あるいは身体障害者のお子さんが普通学級に通いたいといったとき、学校から、「他の保護者から、『障害児がクラスにいると授業が遅れるのではないか』、『うちの子にも何か負担がかかってくるのではないか』といった懸念の声が出ているので、他の子には一切迷惑をかけないという条件を飲んでください」と言われて、お母さんが、「大丈夫です。うちの子は迷惑をかけるようなタイプの障害児でないので大丈夫です」と言って通うことになったという事例もありました。ところが、授業中にその子がクレヨンを床に落としてしまったそうです。なかなか拾えない。隣の子がそれを見て手を伸ばしたら、先生が「やめなさい」と言って、「他の子には迷惑をかけないという条件ですから他の生徒には拾わせません。この子のお兄ちゃんが別のクラスで授業を受けているからちょっと呼んできなさい」と連れて来させ、「悪いけどきょうだいで解決してください」と言って拾わせたというのです。私は血が逆流するような感覚を覚えました。せっかく子ども同士のさりげない助け合いの場面がありながら、わざわざ先生がそれを足で踏みつぶすようなことをする。これはないのではないか。先生は保護者との板挟みになっていろいろ大変な目にあっていたのでしょうが、これは何とかしなければいけないと思いました。
 このようなことは教育分野だけで起きていたのではありません。福祉、医療、不動産、公共交通、ありとあらゆる分野でこのようなことがたくさんありました。時々変なものもありました。ある家族が家電量販店で冷蔵庫を買ったところ、店員さんに「この冷蔵庫は保証が5年付いていますが、おたくには障害児がいるので保証は付けられません」と言われたそうです。なぜ障害児がいると冷蔵庫に保証が付かないのか不思議でなりません。また、最近ペットを飼ってもよいというマンションが増えてきましたが、ある家族は賃貸マンションで入居手続きをしているときに、管理組合から言われたそうです。「ペットを飼っている人は登録していただきます。管理料は月々500円上乗せになります。おたくには障害者がいると聞きましたので登録していただきます。管理料もペット同様に払ってください」と。障害者をペットと同じように扱う。これはどういうことなのでしょうか。
 これは小さな障害児を抱えているお母さんから聞いた話ですが、障害のある子を連れて歩いていると何となく「白い目」で見られる。汚いものを扱うようないやーな空気を感じるというのです。私には、これは非常によく分かります。私も長男と歩いていると何かいやな空気を感じます。電車に座ると隣の人がスッと席を立って行ったりするので、「白い目」で見られるというのはどういうことだかよく分かります。しかし、これを立証するのは非常に難しい。「白い目」とは一体何かという定義が難しいのです。白さ何%と数字で表せればいいのですがそういうわけにはいきません。
 しかし、私はここを変えたかったのです。法律や条例で段差をなくす、あるいは車いす用のトイレを作る。これはできるかもしれないけれど、「白い目」が変えられるのだろうかということです。しかしこれを変えないと、私の長男のようなタイプの障害者というのは非常に生きにくい。そこで、ここに挑んでみようということになったのです。
 いろいろな障害者にいろいろなことを教えていただきました。耳の不自由な方は、いつも手話通訳を連れてきます。自分の席の前に座ってもらって我々の議論を手話で通訳していただきます。それについて、「どうしていつも私ばかりが通訳を連れて来なければいけないのだ。これは障害者の差別をなくそうという研究会だろう。それなのに、私だけがいつも通訳を連れて来るというのはおかしいじゃないか。なぜ私だけがいつも過重な負担をしなければいけないのだ。これこそが差別だ、皆さんはそう思わないか。だいたい皆さんのための通訳でもあるじゃないか」というのです。これはどう思いますか? 私たちは黙っていました。でも、心の中でちょっと待って、と思いました。それは、あなたのための通訳でしょう。我々は手話通訳はいりませんからと。
 ところが、私にも彼の気持ちが少し分かる場面が来ました。耳の不自由な方々の団体があります。聴覚障害者連盟です。その連盟がこの条例についてみんなで勉強会をしようというのでシンポジウムを開いたときです。私にも出演依頼が来たので、「いいですよ」と軽く引き受けました。ところが、本番前に控室でお弁当を食べて打ち合わせをしていると、皆さん手話を使います。私には分からない。何とかなるだろうと思って見ていましたが、どんなに熱心に見ていても分からないものは分からない。みんなは盛り上がっていくし、時間はどんどん過ぎていく。私はだんだん不安になってきました。誰かがクスッと笑うともう疑心暗鬼です。何か自分が笑われているような気持ちになってくるのですね。ノートに「手話通訳さんはいませんか」と書きました。皆さんきょとんとして「何でそんなもの必要なんだ」といった顔をしています。私は身ぶり手ぶりで、「私は皆さんの手話が分からない」と言ったら、「ああ、そういうことか」と。「ちょっと待ってくれ、『ああ、そういうことか』はないだろう。本番はどうなってしまうんだ」と思うと、だんだん腹が立ってきました。
 本番は通訳さんがいましたが、私以外の発表者は全部手話で発表します。会場の皆さんは手話が分かります。本当はそのシンポジウムに通訳はいらないのです。しかし、私だけ蚊帳の外になってしまうから、私のためにだけに通訳さんがいてくれたのです。マイクを持って皆さんの手話を見ながら私のために話し言葉で通訳し、私がしゃべり言葉で発表すると、通訳さんは、今度は私の声を聞きながら手話をします。すると会場中一斉に通訳さんの方を見ます。つまり手話通訳というのは二通りの役割があるのです。どちらの人数が多いかによって、通訳の比重が変わるだけなのです。
 大事なのはここです。人数が多くなると少ない側の立場、気持ち、特性が分からなくなってしまうことがあるということです。社会と障害者の間で起きている差別の核心部分というのは、実はここだと私は思います。800余りの事例を集めましたが、悪意のある差別はほんの一握りでした。ほとんどが障害者のことがよく分からずに、誤解や無理解、偏見、そのような行き違いにより起きている差別が圧倒的に多かったのです。そういうものに対して罰則を持って、拳を振り上げたらどうなってしまうのかということです。むしろ徹底して障害者のことを理解してもらう。彼らの生きにくさ、彼らの障害の特性、彼らがどんな歴史を背負って生きてきたかということを理解していただき、できるだけの合理的な配慮をしてもらう。社会と折り合っていくような、そういうやり方の方がいいのではないかということを、そこで気付いたわけです。罰則を持って拳を振り上げていっても、「白い目」というものは変えられないと思います。それをこの29人の委員との議論の中で学んでいったのです。
 それをさらに詳しく分かりやすく教えてくれたのは、目の見えない委員でした。彼は、「皆さん、障害とは一体何でしょう? 白い杖をついている人を見ると、また車いすに乗っている人を見ると、障害者だなと思うかもしれませんが、果たしてそうでしょうか」と言います。彼は「障害者というものは、どこの町でもだいたい同じぐらいの割合で生まれてきます。ところが、もしも神様がいたずらをしてこの町で私のような目の見えない人間を多く生ませたら果たしてこの町はどのようになるのか、皆さん想像してみてください。もしそうなったら私はこの町の市長選に立候補しようと思います。今、地方自治体の財政が厳しくてなかなか福祉予算が伸びない。これはどうにも我慢ができない。私はこの町の市長になって今の福祉予算を2~3倍に増やしたい。ところが財政は厳しくて、なかなかお金を増やせない、だから福祉予算を2倍にするためには何か別の予算をバッサリなくすしかない。でも、どれもこれも大事な予算ばかりで困っています。ところがいろいろと研究してみると、一つだけ完璧に予算を削減できるものが見つかりました。私はこれをマニフェストの切り札にして市長選に立候補する」と言いました。
 その切り札というのは何だと思いますか。目の見えない市長候補は言います。「市役所、図書館、公民館、税務署、交番、この町のありとあらゆる公的施設から明かりを全部なくします。そうすると電気代だけで年に数億円浮くことが分かりました。それを福祉の予算に付け替えるとちょうど倍ぐらいになります」と。「だいたい我々目の見えない人間にとって明かりというものは意味がない。こんな無意味なもののために、どうして市民の貴重な税金をどぶに捨てているのか。公的施設から明かりを消すと発電所の稼働率も若干下げることができて、地球の温暖化防止にも貢献できる。こんな一石二鳥のよい政策があるのに、どうして今まで誰も気が付かなかったのか。私は市長になったらこれをぜひ実行したい。あまりにも素晴らしい政策なので公的施設だけではもったいない。民間にまで普及させたい。つまりこの町では明かりを全面的に禁止する、明かり禁止条例をつくるのです」というのです。
 「そうすれば目の見える人たちはびっくりして、私のところに抗議に飛んでくるはずだ。『市長、あなたは何ていうことを考えているんだ、明かりをなくされてしまったら我々は室内で仕事もできない。子どもたちは勉強もできない。家に帰ってもロウソク1本でどうやって生活するのか、ふざけないでくれ』と。しかし、そのときの答えは既に考えてある。『まあまあ、皆さんの気持ちは分からなくもないけれども、一部の人のわがままには付き合いきれない。少しは一般市民のことも考えてみてはどうか』」と言うのだそうです。つまり目の見えない人の方が多くなったら、この町はどのような人が一般市民としてみなされるようになるのか、ということを彼は言いたいわけです。
 私はそれを聞いたときに、いや、面白いことを言う人だなと思って、「今日はよい話を聞かせてもらってありがとうございました。私は新聞で小さいコラムを担当しているので、今聞いた話を引用させてもらっていいですか」と聞いたところ「こんなのが新聞記事になるの?どうぞ」と言ってくれました。早速引用したら結構社内で評判になりました。次の研究会のときに、おじさん読んでくれたかなと思って楽しみに行きました。けれども、その日はプイと横向いたきりなのです。今日は機嫌が悪いなと思っていたら、休憩時間に私のところにやって来て、「野澤さん、あれ本当に記事にしちゃたんだね」と怒っているのです。「え、私、断りましたよね、新聞記事にしてもいいと言ってくれましたよね」。「まさか、本当に書くとは思わなかったからさ」。「何かまずいことがあったら謝りますから、何があったんですか」。「そんなことが分からなのか」とブツブツ言っています。こちらは気もそぞろになってきて、「すみません、謝ります、教えてください、何があったんですか」と問うと、「だいたいね、あんなの記事にされちゃったんじゃ、私は市長選に出にくくなっちゃったじゃないか」と。彼ならではのジョークですね。目は見えないのですが、人の心の中は見えるような方なのです。
 彼とシンポジウムに出るときには、いつも彼のことを「視覚障害者のAさんです」と紹介していました。しかし、彼はそれが気に入らない。「何であんたはいつも私の名前の上に余分なものをくっつけるんだ、『視覚障害者の、視覚障害者の』と。私には他に特徴がないのか? 『千葉県在住の』でも、『社会福祉法人理事の』でも、『50代男性の』でもいい。いろいろな説明の仕方があるのに、何でいつも視覚障害と言うんだ」と言うのです。ま、そうかなと思ったので、彼の前では「視覚障害者」とは言わないという暗黙のルールができました。
 ある日、研究会が終わった後にみんなで連れだって居酒屋に行きました。今日はたまたま時間があるからと、メンバーの中で一番若い女性が付き合ってくれました。すると、目の不自由な彼がその女性の横にピタッと座ります。いつも以上に上機嫌で飲んでいます。ああ、この人にもこんな一面があるんだなと思って、すごく盛り上がりました。そうこうしているうちに、酔っ払いだした彼はだんだんその女性にくっついていく。しまいには肩に手を乗せたままビールを飲み始めました。すると、みんなが私を見るのです。「ちょっとそれはまずいよ、誰か言わなきゃ、あんた座長なんだから」と。
 弱ったなと思いながら、「Aさん、あなた今大変なことしてますよ、訴えられますよ。世の中は、最近そういう行為に厳しくてね、そういうのをセクハラっていうんですよ」とドキドキしながら言うと、彼は「皆さんの世界はそうかもしれないけれども、視覚障害者は触らないと分からないんだよ」と。普段は「視覚障害者と言うな」と言っているのに、都合のいいときだけ視覚障害者を持ち出す。そんなAさんに、みんなでまた盛り上がったわけです。ところが今度は、「どう? 今私のこと、視覚障害者だと思った?」と問うのです。Aさんのことを、ただのスケベおやじにしか見えていなかったみんなは、その一言で考えさせられてしまいました。この人は我々の障害というものに対する錯覚、遠慮、先入観というものを逆手にとって、本質に引きずり込む名人なのです。この人には何をどうしてもかなわないなと思いました。
 こういう方たちと半年、1年、厳しいガチンコの議論をして、お酒を飲みながらこんな交流をしていくと、さまざまな障害者がそれなりの苦労を背負いながら生きているのだということが分かってきました。そして障害者というのはただ大変な人たちだけでなく、いろいろなユニークな世界観や感性、そういうものを持っている人たちであることが分かってきました。私1人だけでなく、この研究会に参加していたメンバーそれぞれが分かり始めたのだと思います。そこから議論が噛み合うようになってきました。
 もう一つ、この研究会は1年間に20回ありましたが、県庁各課の職員さんたち20~30人が毎回夜遅くまで傍聴してくれました。会を重ねるごとに、だんだん熱心に聞いてくれるようになったと思います。障害を持った人たちが、お互いに理解し合っていくプロセスを共有してくれた。そして障害者の差別をなくすというのは、障害福祉課だけの仕事ではなく、スロープを作るときは土木関係の部署、視覚障害者用の信号というときには警察本部、教育については教育委員会、就職には商工労働部、ありとあらゆる部署が関わってきます。それはそうですね、障害者の生活は我々と同じですから。そういうことがだんだん分かってきました。このプロセスを共有することがいかに大事なことなのかということです。 
 議会に提案を出したときに誤解されて反対されたことがありましたが、そのときに最後の最後まで我々と一緒にスクラムを組んでくれたのは、このとき傍聴に来てくれた行政の人たちだったのです。これは我々にとって大変大きな財産となりました。
 また、いろいろな関係団体に来ていただきヒアリングをしたときも、結構厳しいことを言われました。中小企業の経営者の代表には、「皆さん、障害者だからといって甘えないでください」といきなり言われました。自分たちばかりが大変そうなことを言うけれども、本当にそうなのか、世の中には障害者でなくてももっと大変な人たちはいっぱいいる。我々中小企業の仲間が年間どれくらい倒産しているか分かる人があったら手を挙げてみてください。我々だって家族や従業員を守るために必死に働いているんだ。しかし努力だけではどうしようもないことが世の中では起きる。大変な思いをしているのは、あなたたちだけじゃない。障害者が大変なのは分かる。でも、世の中の大変さを分かった上で言ってほしい。それによって我々の受け止め方が違う」と。確かにそのとおりでした。
 これは悔しかったのですが、彼は自分が憎まれ役になりながら大変重要なことを我々に伝えてくれたのです。実はこの方も重度の知的障害を持った娘さんがいて、障害者の家族の気持ちと会社を守っていかなければいけないという経営者の立場の板挟みで悩んでいる方でした。自分たちのことを相手に理解してもらおうと思うのであれば、相手のことも理解しなければ駄目だ、ということを我々に伝えてくれたのです。実は29人の研究会のメンバーのうち4人、企業関係者がいました。それまでは何も言ってくれなかったのですが、この経営者の発言を皮切りに実に本音でいい意見を言ってくれるようになりました。我々を信じてくれたからです。ここの研究会に参加している障害者や家族は本音でしゃべっても受け止めてくれるのだという信頼が生まれたからこそ言いたいことを言ってくれるようになったのです。障害種別を超えて議論が噛み合うだけでは駄目なのです。障害者と社会の間で議論を噛み合わせていかなければいけないということを教えてもらいました。
 各地域に出掛けて36回くらいタウンミーティングを行いました。みんな手づくりでよいタウンミーティングでしたが、房総半島の南の過疎の町でのミーティングは忘れられない思い出です。あるお母さんが、自分は2人子どもがいます。上の子は小学生のお兄ちゃん、下はまだ小さい娘さん、下の子は生まれてからずっと寝たきりの重度の脳性麻痺の娘さんです。どこに連れて行くにも背負っていかなければいけない。3度、3度の食事、おむつの介助、毎日毎日それに追われていてお母さんは疲れ果てています。白い目で見られたり、心ない言葉を投げかけられたり追い詰められることもある。こんなにつらいのならば、いっそこの子を道連れに、という思いが何度も頭をよぎったと言います。しかし、そのときにお兄ちゃんが黙ってお母さんのことを支えてくれたといいます。お兄ちゃんの存在にドキッとなって、「こんなことではいけない」と、もう一度気持ちを切り替えて何とか今日まで生きてくることができたそうです。最近少し余裕が出てきましたと話してくれました。市民の方は、みんな神妙な顔で聞いていました。
 ところが、そのお兄ちゃんが時々言いにくそうに、「お願いだから学校には妹を連れてこないで」と言うのだそうです。寝たきりの妹を学校に連れてこられて、それを友達に見られたら、冷やかされたり、バカにされたり、いじめられたりするんじゃないか、それをお兄ちゃんは恐れているのです。お母さんはそれが分かるものだから「大丈夫、大丈夫、連れて行かないから安心して」と言うのですが、学校ではいないことにされている妹のことを思うと、それがまた不憫だといいます。妹だって一生懸命生きています。一番好きなお兄ちゃんから学校ではいないことにされている妹も不憫でならないわけです。でもお母さんはそんなことは言えません。それを素直に話してくれました。
 お兄ちゃんも成長して6年生になり、卒業が近付いてきたある日、うれしそうな顔でお母さんに「今度ソフトボール大会の選手に選ばれた」と報告に来ました。お母さんはよかったね、頑張ったねと言いましたが、その先の会話が続きません。もしかすると応援に来てほしいのかなと思うのですが、妹を連れて行くわけにいかない。だからといって、妹を家に1人で置いていくわけにもいかない。そこは田舎だったので預かってもらえるような機関もなかったようです。ですから、「頑張ってね」というしかありませんでした。
 それでも、お母さんはどうしても応援に行きたくて、試合の当日、誰にも相談せず、悩んだ末に妹を車いすに乗せて学校に行くわけです。校庭の隅の方で見つからないように応援しています。お兄ちゃんは必死になって頑張って活躍したそうです。お兄ちゃんのチームは勝ちました。お母さんはそれを見て、「来た甲斐があった、よかった、見つからないうちに帰ろう」と妹にささやいて、車いすを押して行こうとしたら、試合を終えたお兄ちゃんのチームメートがずらっと並んでこちらを一斉に見ているのです。
 お母さんはドキッとして足がすくんでしまいました。ざわめきがザワザワと聞こえてきます。だんだんそのざわめきが近付いてきて、気が付けばお母さんたちはお兄ちゃんの同級生に取り囲まれていました。子どもというのは好奇心を率直に表します。代わる代わる首を伸ばして、車いすの中をのぞき込みます。重度の心身障害の子ですから、小さい顔でポカンと口を開けてよだれを垂らしています。子どもたちは騒然として、「何だ、生きているのか」、「どれどれ、うわあー」という感じで、お母さんは倒れそうだったそうです。これまで優しいお兄ちゃんに守ってもらってきた。そのお兄ちゃんが、「学校にだけは連れてこないで」と遠慮しながら言った、たった一つのお願いをお母さんは破ってしまったのです。そして、妹を連れてきた揚げ句に、白昼見せ物になってしまった。でもそのとき、1人の子が車いすに手を伸ばしてきて、妹の小さい頭をなでながら「勝利の女神だね」と言ったのだそうです。「この子が来てくれたから俺たちは勝てた、この子は勝利の女神だ」と。すると、みんなが「そうだ、そうだ、勝利の女神だ」と、今度は「勝利の女神、勝利の女神」と盛り上がったそうです。
 この話を聞いていた市民の方たちはたまらなかったです。みんな涙ぐんでいる。そのときのお母さんのホオーッとした気持ちがみんなに伝わってくるわけです。「お母さんよかったね」という思いが会場にあふれました。よくそんなことをやってくれたと思います。子どもというのは不思議だなと思うときがあります。田舎の方なので、クラスメートの家庭のことは、きっとみんなが知っていたのだと思います。多分その子が妹のことを言えないでいることも、お母さんが妹を連れてこないことも。ところが卒業を間近に控えたある日、お母さんが初めて妹を車いすに乗せて連れてきて、ポツンと遠くの方で見ていた。子どもたちは分かります。お母さんが背中を丸めて帰って行こうとしたときに、そのまま帰してしまっていいのだろうかと、とっさにそう考えて見に行ったのではないでしょうか。見に行ってみたらやはりびっくりしました。こんなに障害の重い妹だったのかと。どうしよう、どうしようと…。誰にも教えてもらっていないのに、出て来た言葉が「勝利の女神」ですから。子どもの感性というものを我々はもっともっと信じなければいけないのではないかと思いました。
 今の子どもは生きる力が希薄だと簡単に言いますが、子どもは数十年で変わるものではないと思います。変わったのは社会の方ではないでしょうか。人間は所詮群れをつくってしか生きていけない生き物です。子ども同士、同じ地域で生まれ育って遊んだりしているといろいろな出来事があります。お互いに悲しいことやうれしいことの中で、みんなの心が触れ合ってそれを体験していきます。こうした心の触れ合いの中で、この仲間は自分のことを分かってくれているのだという相手に対する信頼感を持ち、自分自身を肯定できるようになる。それが人間にとって生きる力をつくっていくための一番の原動力ではないかと思います。「勝利の女神」と言ってくれた子どもたちは、本当に貴重な体験をしたと思います。もっともっと、こういう体験を子どもたちにはしてほしいと思います。
 私たちがつくった条例というのは障害者のための条例ですが、決して障害者のためだけのものではないと思っています。この時代に生きるすべての子どもたちにとっても、やはりこういう条例が必要だと思うのです。
君は知らないかもしれないけれど、君の隣に住んでいる人の中には障害のある子どもがいて、それを誰にも言えない、隠している、生きにくい思い、悲しい思いをしている人がいる、そういうことを少しも知らずに生きていく人生と、そういう人の傷みや悲しみを分かった上で、お互いの心が触れ合うような体験を重ねながら生きていく人生では、人生の潤いや豊かさがどれほど違ってくるのだろう。こんなことを子どもたちに伝えていきたいと思います。
 2006(平成18)年10月11日、千葉県で障害者条例がようやく成立しました。条例ができるまで研究会が1年、それから議会でもさんざんもめて、ひどい妨害や嫌がらせをされました。ですから、条例ができたときは本当にうれしかったものです。そのとき私は社会部のデスクという一番忙しいポジションでしたが、やれ研究会だ、タウンミーティングだ、議会の傍聴だと、そのたびに同僚や上司に「ちょっと取材に行ってくる」と会社を抜け出していたのです。それが、条例が成立して傍聴席から降りてきたとき、地元のテレビが取材をしていて、日本で初の条例なので座長のコメントが欲しいと言われました。「テレビに出るのは困るから」と言うと、「いや、ローカル放送だから」というのでインタビューに答えました。ところがそのローカルはローカルでも関東ローカルだったのです。その日の夜のニュースで東京まで流れてしまいました。その時間帯は新聞社の編集局は翌日の朝刊づくりで一番忙しい時間帯なのです。広い編集局に30台ぐらいのテレビが設置されています。本来そこにいなければいけない社会部のデスクがおらず、テレビにアップで3度も登場して、「私は本業よりもこれに掛けていた」と熱く語ってしまったのです。
 私は次の日、一番で上司にわびを入れに行きました。そのときに上司が、「何だおまえ、いつも取材に行くとか言いながら取材受けていたんじゃないか、なかなかいいこと言っていたな」なんて労をねぎらってくれました。実にいい同僚や上司に恵まれたと思います。

 

 今、国は障害者政策委員会で基本指針というものをつくっています。2015(平成27)年3月ぐらいには姿を現すと思います。これは障害者差別解消法の一番の基になるものです。これを基にして公務員向けの対応要領と民間向けのガイドラインがつくられます。これには、どういうものが差別でどのように考えていったらよいのかというような具体的なことが書いてあります。しかし、むしろ公務員の皆さんにとって密接なのは、障害者差別解消支援地域協議会の方ではないでしょうか。障害者差別解消法に、この地域協議会をつくることができると記載されています。いくらいい基本指針や対応要領をつくっても、やはり現場で差別的な事例は起こります。そのときにどこに相談を持っていくのか、相談を受けたところがどのように解決していくのかということが問われるわけです。それをやるのが地域協議会です。これは都道府県と市町村が設置できることになっているのですが、ここがどのようになっていくのかということが問題です。この法律でうたわれている差別には2種類あります。一つは差別的取り扱いの禁止、もう一つは合理的配慮義務です。民間は合理的配慮については努力義務にとどまっていますが、公的な機関は両方ともすべて法的義務です。
 差別的取り扱いの方は分かりやすいです。例えば障害を理由に大学入試を受けさせない、レストランに入れない、選挙権をはく奪する、これらは一般的に我々が考えている差別です。しかし、合理的配慮はこれとはちょっと違います。もう一歩踏み込んだ考え方です。つまり、ある車いすの受験生がいい点を取って入学を許されたとします。ところがその学生が大学に行ってみたところ、3階建ての校舎でエレベーターもない、車いす用トイレもないとなると、その大学の学生となっても授業を受けることは実際にはできません。すると形式的には平等ですが実質的な差別をしていることになります。つまり、実質的な平等を得られないときに合理的配慮義務というものが生じるわけです。
 また、これまで日本では知的障害者に後見人が付くと選挙権ははく奪されていました。しかし、昨年違憲訴訟で、それは憲法違反だという判決が出て、総務省が公職選挙法を改正し、今は後見人が付いていても選挙ができるようになりました。ところが今の選挙の在り方というのは障害者にとって、とても優しいとはいえないと思います。知り合いの知的障害者は政治に大変興味があります。口は達者な人ですけれども、彼は字が書けません。すると投票場に行っても投票できないのです。誰かに代筆してもらわなければいけない。漢字が読めないという障害者もいます。せめて候補者の名前の上に顔写真ぐらい載せてほしいと思います。あるいはマークシートのような投票になると、もっと多くの人が選挙権を行使できるのではないかと思います。これはそれぞれの障害者によって違います。合理的な配慮というものは、非常に個別的で多様な配慮が必要になってきます。
 特に雇用の場と教育の場がこれから合理的配慮の主な舞台になってくるでしょう。
 実際にいろいろな企業に行くと結構合理的配慮がなされています。例えばJR西日本の特例子会社では、障害者が使いやすいように高さや幅が変わる机を使っています。あるいは、車いすの人や足の不自由な人が移動しやすい絨毯や、弱視の方や知的障害を持った人たちに分かりやすい案内があります。知的障害や発達障害、精神障害のある方は、人間関係がこじれて仕事を辞めてしまう人が非常に多いのですが、そういう場合には障害特性をよく理解したジョブコーチを配置したり、一般の従業員に対する研修を行ったり、彼らの相談に乗ってくれる窓口をつくったりしています。ストレスに非常に弱く満員電車がつらいという場合には通勤時間の変更ですとか、いろいろな対処法が考えられます。非常に感覚過敏な自閉症の方もいるので、パーテーションを立てたり、耳栓をすることによって作業能力が伸びていくこともあります。
 今、このようなことを率先して行わなければならないのは行政だと思います。県庁や市役所、公営施設の窓口、例えば視覚障害者や聴覚障害者への情報提供、バリアフリー化。車いす用トイレの設置は行われていると思いますが、知的障害、精神障害の方のことを理解するための職員研修、これはぜひやっていただきたいと思います。トラブルや苦情があると、障害者やその家族の方に責任を求めていくことが多いのですが、そうではなくてむしろ、行政機関、公的機関の職員の皆さんが他の利用者から苦情が来たときに、障害のある人のことを説明していただけると、一般利用者との軋轢が少なくなるのではないかと思います。
 今、幾つか地域協議会のモデル事業を行っています。内閣府の地域協議会のモデル事業検討会の会長を私がやっておりますので、いろいろなところにこれからお手伝いに行きます。
 浦安市では、浦安警察署が、全警察官に知的障害や発達障害、精神障害のことをよく理解させたいと研修会を行うことになりました。大きな成果ではないかと思います。 
 千葉県のように差別をなくす条例を持っている自治体の場合は、県の職員を各福祉事務所に配置し相談にあたっています。それでも解決できない場合には県の中に調整委員会という独立した委員会を置き、そこに持ち込んで解決に努めるという仕組みがあります。しかし、それがないところは既存の組織をネットワーク化して、そこで解決していくしかないと思います。今、条例は北海道、岩手県、茨城県、千葉県、熊本県、京都府、長崎県、大分県、鹿児島県、沖縄県、さいたま市、八王子市、他にも幾つかつくられています。
 また、いろいろなところで面白い取り組みが始まっています。岩手の競技スキーの選手だった方は事故で両手、両足が麻痺してしまいました。電動車いすを使って生活しているのですが、これまでは、お店に行ってスロープがないといつも喧嘩をしていたそうです。しかし、彼はこの法律ができてから、相手に要求するのでは駄目だと思って、「スロープを付けろ」ではなく、「スロープを付けさせてください」というように言い方を切り替えたといいます。折り畳み式のスロープを自らのNPOでつくって、それをお店に持っていき「これを付けさせてもらえませんか」とお願いすると、お店からは大歓迎されて、障害者への理解が大変進んでいるということです。この話を聞いて、ただ我々障害者側から何かを要求するだけではなく、お互いに折り合っていくことが大切だと思いました。このようにお互いが折り合っていけば、個性を持った方たちが楽しく暮らせる町になっていくのではないかと思うのです。ぜひ障害者の多様性のようなものを皆さんも考えていただければと思います。ご清聴ありがとうございました。