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人権に関するデータベース

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研修講義資料

名古屋会場 講義4 平成23年10月20日(木)

「新しい視点から同和問題を考える」

著者
石元 清英
寄稿日(掲載日)
2012/03/28



 関西大学の石元です。お手元のテキスト(PDF)に基づきまして、お話ししたいと思います。
 部落問題については、多くの人が例えば学校、あるいは職場研修、市民啓発などで接することが多いので、さまざまな情報を得ているはずなのですが、でも、実際、どういったイメージを部落、同和地区に対して持っているかというと、非常に一面的なイメージしか持っていないという場合が少なくないのです。
 と言いますのは、私も大学で学生に教えていまして、学生に、被差別部落に対しどういったイメージを持っているかということをアンケートで何度か取ったことがあるのですが、一番多く出てくるのが、「貧しい」。そして「暗い」「閉鎖的」。この三つが常にトップスリーなのです。部落は貧しいから差別を受けるのだろう、あるいは差別を受けている結果、貧しいのだろう、差別の結果、暗いのだろう、あるいは閉鎖的なのだろう、そういうふうに考えている学生が少なくないのです。
 実際の部落はどうかというと、非常に多様です。大都市の中心部にある部落もあれば過疎地にある部落もある。農村、山村、漁村、さまざまなところに部落があります。その部落の世帯数規模を見ますと、大都市では数千世帯からなるような非常に大きな部落がある一方で、農村地域に行きますと20から30世帯といった規模の部落が数多く見られます。中には5世帯に満たないという非常に小さな部落もありますし、広島県には1世帯だけの部落というのが幾つも見られます。この1世帯、1軒だけの部落なのですが、過疎化が進んで世帯がどんどんと出ていった。その結果、1軒の家が残ったというのではないのです。そうではなくて、江戸時代から1軒の家が部落だとされて代々続いている、そういったところもあります。
 ですから、部落と一口に言っても数千世帯からなる部落もあれば、1世帯、1軒だけの部落もある。この1軒だけの部落というのはイメージしづらいと思うのですが、例えば20世帯の集落があるとします。この20世帯の集落の中の1軒の家が部落だとされて代々続いている。そういうところです。
 先ほど言いましたように、大都市の中心部、非常に大きなターミナルのすぐそばにある部落もあれば、過疎地の部落もある。瀬戸内海の小さな島々にも数多く部落があります。ですから、部落といっても非常に多様なのです。
 こういった非常に多様な部落を私たちは一面的なイメージで見てしまっている。部落というと特定の職業が多いのだろう。周りとは違った産業があるのだろう。そういうふうに考えがちです。例えば学生に聞いても革屋さんが多いと言うのです。皮革業関連の業者が多いのだと。この皮革業なのですが、大きく言って二つに分かれます。牛だとか馬、豚からはいだ皮、これを原皮といいますけれども、これを堅くならないように、柔らかくする、なめしという工程があります。六価クロムだとかタンニンという薬品を使って柔らかくするのですが、これでできた皮がなめし皮なのです。このなめし皮を今度はカバンにしたり、靴にしたりする。そういった2次加工があります。
 この1次加工に当たるなめし業ですが、例えば牛皮、牛の皮のなめし業ですね。現在、日本でどの地域で行われているかと言いますと、兵庫県の姫路市、それから隣に龍野というところがあります、薄口醤油で有名な龍野ですが。姫路市と龍野市で全国生産の8割以上を占めます。それ以外は、和歌山県の和歌山市、この三つの市でほぼ100%になるのです。ですから、それ以外のところでは牛皮のなめし業は一切行われていません。豚皮になりますとほとんどが東京になります。ですので、なめし業というのはごく限られたところでした行われていないのです。部落に行くと革屋さんが多いだろうと思って行っても、大半の部落には革屋さんは1軒もありません。2次加工のカバン屋さん、靴屋さんもそうです。非常に地域的に特化していて、どこの部落に行っても靴屋さんが何軒もある、カバン屋さん何軒もある、というわけでもありません。皮関係の仕事と一切関係がないという部落のほうがずっと多いのです。
 肉屋さんについてもそうです。地区内にと畜場がある部落の場合は、食品関連の卸売業や小売業がたくさん見られるのですが、でも、部落というとどこにでもと畜場があるかというと、と畜場が地区内にある部落のほうがずっと珍しいです。愛知県はよく知らないのですが、例えば大阪府には48の同和地区があるのですが、地区内にと畜場があるところは3カ所です。そのうちの1カ所というのも非常に小さなと畜場なのです。ですので、大きなと畜場を持つ2カ所、これは松原市と羽曳野市なのですが、そこに行けば確かに食肉関連の業者、多く見られますけれども、それ以外の部落というのはほとんど特に多いというわけでもありません。
 このように、部落というと何か違っているのだろう。要するに周りから差別されているから何か違ったところを持っているのだろう、違うはずだというような考えから部落を異質視する。違いというところを強調して見がちになる、という傾向が見られます。そういった一面的な理解あるいは誤解、事実と基づかないような誤解というものが、これが部落問題については少なくないのです。
 これはどうしてかというと、ひとつは部落問題について語り合う、例えば家庭で話し合う、あるいは職場で話し合う、地域で話し合うという機会がほとんどありません。特に自分の言葉で部落問題について語り合うという機会というのは現在ほとんどないかと思います。会話が成り立たないというのか、成立しない。
 例えば、私が初対面の方に大学で教員をしていると言うと、初対面ですから話題のとっかかりというのか、話のネタですね。「何を教えているのですか」って聞かれます。私の答えによって、いろんな質問をし、話題が展開していくということになるかと思うのですが。「何を教えているのですか」と聞かれて、「部落問題です」と言うと、聞いたほうはまずいことを聞いてしまったなという顔をします。その後、どうなるかというと話題を変えるのです。部落問題の話はしないです。という風潮がやはりあります。自分の言葉で語り合わない。
 ですから、部落に対して誤解をしている、間違った理解をしているという場合でも、自分の言葉で部落問題を語るという機会がありませんので、人からそれをただされるということもないのです。ですから、一旦持ってしまった誤解、なかなか解けないまま持ち続けるということが少なくありません。
 その中の一つとして、「部落では血族結婚が多い」という考え方、これも今の学生に聞いても6割ぐらいの学生がそうだと思うと答えます。どうしてかと聞くと、部落差別の例として結婚差別のことを習った。部落の人というのは部落外の人と結婚する場合、さまざまな反対を受けやすい、困難に直面するということを習ったので、部落の人たちは部落外の人と結婚するのが非常に難しいために部落の中で結婚を繰り返しているのだろう、そのようなイメージを持ってしまっているのです。その結果、血の濃い結婚、血族結婚が繰り返されて障害者が多く生まれているのだろう。そのような全く事実とかけ離れた理解をしている。そういう学生が現にいます。
 この血族結婚が多いという誤解なのですが、それはどうして出てきたのか。例えば、農村地域を例にとって考えてみたいと思います。部落があります。農村地域です。特に、今から30年、40年前の純農村地域を考えてください。そうすると、この部落に隣接する部落ではない集落があります。真ん中が部落で、部落ではない集落が周囲にあります。部落ではない集落に入って聞き取りをすると、うちの親戚は隣の大字にいる、あるいは向こうの大字にもうちの親戚がいる。そういうことはよく聞くのですね。親戚が周りにあちこちいる。というのは、ずっと以前から割と距離的に近い範囲で結婚が繰り返されている。今でいえば、小学校区、あるいは中学校区の範囲で伝統的に結婚の行き来が続いてきた。だから、周りに親戚が多い。そういったことはよく聞きます。
 部落に入って話を聞くと、部落と隣り合う部落ではない集落との間で結婚の行き来があったという話、全く聞かないです。農村では、特定の名字が多いという地域があります。例えばこの地域の部落ではない集落では、山本さんが何軒もある。こちらの集落に行っても山本姓が多い。こちらも山本さんが多いという地域があったとします。そうすると、部落に入ると山本姓というのはないのです。部落で山田さんが何軒もあるとすると、周りに行っても山田姓はありません。共通した名字がないのです。これはどこの農村地域に行ってもそうです。どうして、共通した名字がないかというと、これは結婚の行き来がないからなのです。法律婚になったらどちらかの姓になりますので、そこで共通した名字が生まれますけれども、それがない。
 ですから、この部落ではない集落に住んでいる人から見れば、自分の親戚あるいは友人、知り合い、だれも部落の人と結婚していない。だから、部落の人たちは部落の中で結婚を繰り返しているのだろうと、そういうふうに思い込んでしまうのですね。つまり、部落ではない集落に住んでいる人は、特に部落の人たちと密なつながりもつきあいもありませんので、部落のだれだれが結婚した、相手はどこから来たのかという情報をほとんど持っていません。だから、自分の周りで部落の人と結婚した人、だれもいないから部落の中で結婚を繰り返しているのだろう。そういうふうに思ってしまうのです。
 ところが、実際は部落の通婚圏というのは、非常に広いです。これは江戸時代からなのですが、江戸時代の古文書で調べると、百姓村というのは割と通婚圏は狭いのです。距離的に近い範囲で結婚の行き来があります。先ほど言いました、今でいう小学校区、中学校区で大体完結するのですね。
 ところが、穢多村を見ますと、穢多村の通婚圏というのは非常に広いのです。当然、身分制社会ですから、江戸時代は同じ身分間で結婚します。ですから、穢多身分の人は穢多身分の人と結婚するわけですが、その穢多村のネットワークというのがありまして、非常に遠隔地の穢多村との結婚が多く見られます。
 一つ例を挙げますと、大阪府に和泉市というところがあるのですが。この和泉市に南王子村という江戸時代の穢多村がありました。そこの文書を見ますと、結婚でだれがどこから来たのかということが詳しく書かれています。それを見ると紀州が多いのですね。和歌山県。それから山城、京都府です。それから兵庫県も見られます。それから、大阪になると河内、摂津です。こういうさまざまなところから来ている。
 一旦結婚の行き来があると、当然親戚関係等できますので、そういう親戚つながりで、またその同じ村の別の人が結婚でやって来たり、あるいは結婚でその村に行ったりという形で、穢多身分の通婚圏は非常に広いのです。これは百姓身分では全く見られないほどの広さだということがわかっています。
 ですから、江戸時代では、同じ身分同士の結婚だったのですが、ひとつの村の中だけで結婚を繰り返していたというわけではありません。非常に広い通婚圏を持っていた。ですから、血族結婚が多いというのは過去に遡っても全く事実ではないのです。
 今はどうかというと、部落外との結婚は非常に増えてきています。今現在、同和地区に住んでいる部落出身者で最近の結婚でいえば、部落民同士の結婚というのは1割もいかないぐらいの数になっています。
 今から50年以上前、1960年以前というのは部落の仕事というのは非常に不安定でした。被雇用者、企業に雇われるということが滅多になかったのです。その当時は部落に住んでいるということだけで企業の採用試験には通らない。そういった時代でしたので、どういった仕事が多かったのかというと、行商、日雇い仕事、そして女性の場合は内職、こういうものを雑業というのですが、こういった仕事につかざるを得なかった。これは部落の若い人も中高年層も同じように雑業についていた。そうすると、行商だとか、日雇い仕事、それから内職、どうしても仕事の上で人と知り合う範囲というのは狭いのです。同じ部落の人たちの関係が密になる。そういうことで部落民同士の結婚が多かったということなのです。
 後でちょっと詳しく言いますが。60年代以降、仕事が変化してきます。企業に勤める人も増えてきます。そうすると、従業員規模が大きな企業に勤めるほど、やはり職場で出会う人の範囲というのも広がっていくのです。遠隔地の人と知り合うということも出てきます。あるいは大学進学率が高まってくると、高校までとは違って、大学では人と知り合う範囲、格段に広がっていきます。そういった中で、部落外との結婚というのがどんどんと増えていく。
 それに加えて、やはり戦後60年以上たちまして、結婚というのは当事者2人の問題だというふうな見方が定着してきました。周りがいろいろと口を出すというのはよくないというふうに考える人も増えてきましたし、また、親戚関係も昔と比べるとそんなに密にはなっていませんので、年賀状のやりとり程度の親戚関係というのも増えてきています。ですから、結婚の際に親戚がいろいろと口を出すということも少なくなってきました。こういったことの中で部落外との結婚というのはどんどんと増えてきています。
 その中で強い反対が出るということもあるのですが、祝福されて結婚するというケースもたくさん出てきています。ですから、部落外との結婚は常に強い反対にあうというわけでもありません。とんでもない事態になるというケースもないわけではありませんが、周りから祝福されて結婚するということも増えています。
 私も20年ぐらい前に聞いた話なのですが、ある部落の青年が女性と付き合っていまして、結婚しようということになったのです。それまでは自分が部落の出身だということは、その女性には言っていませんでした。取り立てて言う必要もないとは思って言っていなかったのですが。でも、結婚するということになったので、やはり言っておこうと思ったのですね、伝えようと。その彼女の反応は変わらないだろうとは思っていたのですが、やはり言うときは少々緊張したそうです。どういう反応をされるかということで少し緊張したそうなのです。そうすると女性のほうもわかるのですね。男性が何か聞いてほしい話があると切り出したのですが、普段と様子が違うので、何の話をされるのだろうと身構えてしまいました。そこで男性が自分は部落の出身だと言ったら、女性の反応というのは拍子抜けしたように、「なんやそんなことか」と言ったそうなのです。女性は男性が非常に緊張した面持ちで聞いてほしい話があると言い出したので、実はおれは結婚しているのだとか、おれには子どもがいるのだとか、そんなことを言われるのかなと思ったら部落の出身だと。そんなことは人間の価値を左右するものでもなんでもない。その女性の親もそんなことは全然関係がないと言って、親戚も来ての祝福された結婚式を挙げたそうです。こういう事例というのはたくさん、最近では聞きます。でも、その一方で、非常に強い反対にあうというケースもなくなったわけではない。そういうのが現状だと、そう言っていいかと思います。
 仕事のことを少し言いましたけれども、1960年ぐらいまでは公共職業安定所にやってくる求人票にも具体的に部落の地区名を書いて、この地区は除くと、そんな求人票が職安に出回っていた、そういった時代でした。部落の若い人たちは中学、高校、優秀な成績を修めても、住んでいるところが部落であるということだけで採用されない。こういったことがごく当たり前にありました。その結果が先ほど言いました雑業、日雇い仕事、行商、内職、そういう不安定な仕事にしか就けない、そのような時代があったのです。
 でも1960年代に入りまして高度経済成長が本格化します。製造業を中心に生産規模がどんどんと拡大される。また、サービス業を初めとしてさまざまな新しい産業分野が登場してくる。そういった中で起こったことが若年労働力不足なのです。若い労働力が不足してきた。企業はこぞって新規学卒者、学校を出たての人をどんどんととっていきましたので、若い労働力が不足してくる、こういう事態が起こります。
 このテキスト141ページに表を上げておきましたが、これが全国の全体の有効求人倍率です。これは別に同和地区の数字ということでなくて、全国全体の有効求人倍率なのですが、これを見ますと高度経済成長が始まりかけたと言われる1955年では、高校卒業者の有効求人倍率は0.72でした。0.72といいますのは、来年3月に卒業予定でかつ就職を希望している高校3年生が100人いれば、その100人に対して求人は72人分しか来なかったという数字なのです。これが0.72の意味です。それが1962年になりますと、高校卒業者で2.73、中学卒業者で2.92になります。中学卒業者の2.92という数字は、来年3月卒業予定でかつ就職を希望する中学3年生が100人いれば、その100人に対して292人分の求人が来る。こういう事態になってきたのです。
 なぜ、ここで1962年という中途半端な年を上げているかというと、中学卒業生が金の卵だと言われ始めたのがこの1962年のことなのです。
 これ以降、有効求人倍率はさらに上がります。1970年になりますと、高校卒業者で7にまでなるのです。こういった今ではちょっと考えられないような、そういう事態になります。ですから、企業は地方の中学校を回って、ぜひうちの会社に来てください。頭を下げて人探しをする、そういう時代になってきたのです。こういった非常に深刻な若年労働力不足の中にあって、部落では若い人を中心に比較的安定した企業に就職するという変化が訪れます。これが1960年代のことです。
 例えば、大阪の当時、布施市と言いましたけれども、今の東大阪市ですが、そこの部落の中学生が卒業後、どういったところに就職したのかということを調べた調査があります。1965年3月に中学校を卒業した人たちですが。それを見ますと、そのときの高校進学率が50%台でした。中学を出て就職した人、ですから50%弱の人たちですが。具体的な企業名が書いてあるのです。それを見ますと、大企業の名前が並んでいます。こういったことは1960年以前では考えられなかったことなのです。つまり、日本経済の高度成長期に起こった非常に深刻な若年労働力不足の中にあって、部落の若い人たちも安定した仕事を獲得していく、こういう変化が訪れます。こういった変化に拍車をかけたのが1969年以降の同和対策事業の本格化です。これによって部落が非常に大きく変わります。
 それが1970年代、80年代通して見られました。1970年代、80年代の同和地区を対象とした調査を見ますと、部落では若い人ほど仕事は安定的という傾向がどの部落でも見られました。中高年層に比べて若い人はみんな安定的です。要するに若い人ほど安定的というのは、最近就職した人ほど安定的な状態、これを獲得しているという傾向、これが大体どの部落でも見られました。
 ところが、1993年、平成5年に国が最後の調査をします。これは国が行った最後の調査になるのですが、この1993年の調査を見ますと、それまでは年齢が若くなるほど就労状態というのは安定的だという傾向がどの地域でも見られてきたのですが、1993年の総務庁の調査では40代ぐらいまでは安定的なのだけれども、30代、20代では不安定になっている、そういう傾向が出てきました。これは全くそれまで見られなかった傾向なのです。
 この20代、30代で不安定化しているという傾向は、その後の2000年の大阪府の調査、それから2001年の京都市の調査でも同様に見られました。さらに不安定化の度合いが進んでいるということが見られたわけです。どうして20代、30代で不安定化しているのかというと、これはもう明らかです。何かというと安定層の流出なのです。同和地区から経済的な安定層が大量に出ていっている。これは以前から見られたのですが、1990年代に入ってそれが非常に激しくなったということなのです。
 なぜ、1990年代に入って大量の経済的安定層が部落から出ていったのかというと、一つは仕事の変化ということもあります。例えば、国勢調査を見ますと、5年前の居住地等の変化というのが読み取れるのですが、5年ごとに国勢調査やっていますので、5年前と現在と同じところに住んでいるかどうかということを見ますと、最終学歴が高い人ほど移動の頻度が高いのです。仕事の面でいうとホワイトカラー層とブルーカラー層を比べると、ホワイトカラー層の方が移動の頻度が高いのです。要するにこれは転勤等の問題、あるいは国勢調査では勤め先の規模を聞いていませんが、多分想像するに従業員規模の大きな企業ほど移動の頻度が多い、そういったことが言えるかと思います。ですから、仕事の変化によって移動するということが起こってくるということが1点です。
 それよりも大きな要因として挙げられるのは、住環境の問題です。農村地域の部落の場合は、住宅の改良というのは主に持ち家の改善というような形で住環境整備が図られてきました。ところが、都市部の部落の場合は、これは持ち家率が低いということもあったのと、それから不良住宅が密集しているという問題もありましたので、住宅地区改良事業によって不良住宅を除去して、その後に改良住宅を建てるという手法がとられました。
 この改良住宅というのは、住宅地区改良事業で建てられた住宅なので改良住宅と言いますが、要するに公営住宅です。市営住宅、町営住宅です。公営住宅を建てるというような形で住環境整備が図られてきました。大体1960年ぐらいから早いところで、京都市では国のモデル事業で1960年から改良住宅、公営住宅の建設ということが始められました。その結果、80年代に入りますとその部落に住んでいる世帯はお寺を除いてすべてが公営住宅に入居している。そういう部落が幾つも出てきました。つまり公営住宅の建設によって部落の住環境整備を進めてきたのです。
 そこで問題なのは、公営住宅の性格という問題です。公営住宅はどういった性格の住宅かというと、住宅に困っている世帯に低家賃住宅を供給する。そこに住んだ世帯は住んでいる間にお金をためて、より広いところへ移るという、より広いところへ移るステップとして位置づけられているのが公営住宅なのです。ですから、公営住宅は広くなくていいのです。公営住宅が非常に広くて家族が増えても、子どもが増えても、あるいは親を呼び寄せても、ずーっと住むことができるということになれば、次に入りたいという人は入れませんので、公営住宅は狭くていいのです。
 大阪大学にいた上田篤さんという建築学の先生が、住宅すごろくというのをつくっているのです。これは何かというと、人の一生と住宅の関係をすごろくにしているのです。最初、振り出しは何かというと学卒です。学校を卒業して働くところから始まるのです。まず、最初に来るのが独身寮やアパートのひとり暮らし、ここから始まります。その次に来るのが結婚して公営住宅なのです。ですから、公営住宅というのは人間の一生の中で早い段階に位置付く住宅なのです。上がりは持ち家になっているのですが。
 だから、公営住宅は狭くていいわけです。1960年に建てられた公営住宅の広さというのが28平米です。これは部落だけ28平米だったかというとそうではなくて、そのときの標準が28平米です。
 つまり公営住宅というのは、寝食分離というのが最初の理念だったのです。要するに寝るところと、それから御飯を食べるところは別だと、だから2部屋ということです。それより前は1部屋なので寝るところも御飯を食べるところも同じ、ちゃぶ台を片づけてそこに布団を敷いて寝るという状態から、寝ているところと食べるところは別となりました。28平米と言いますと4畳半が2部屋と2畳程度の台所と、トイレがあって風呂なしと、これが28平米です。テキストには33平米と50平米の間取りを上げておきました。大体、こんなふうです。
 それ以降、だんだんと広い公営住宅も建つようになりました。同和対策事業終了間際は70平米台の公営住宅も建ったのですが、でも、住宅地区改良事業に早く取り組んだ所ほど30平米台が多いということが現状です。
 当初30平米台の公営住宅、不満も出ませんでした。と言いますのは、それ以前の部落の住環境が非常に劣悪だったからなのです。例えば、1957年に大阪市が行った調査報告書があります。そこには部落の写真がたくさん載せられているのですが、それを見ますと、バラックが非常に多いのです。棟割長屋もあるのですが、それ以上にバラックが多い。そのバラックなのですが、畳4枚分の広さのバラックに家族5人で生活している。そういった様子が紹介されています。こういう状態から見れば、28平米の公営住宅でも新しくて快適、広く感じたわけです。
 ところが、先ほども言いましたが、若い人を中心にだんだんと仕事が安定化してくる。仕事が安定化してくれば当然収入が増えます。収入が増えると家具も増えていきます。また、住宅に対する要望も多様化します。例えば子ども部屋が欲しいだとか、リビングがあったほうがいい。こういった要望に公営住宅はこたえることができないのです。そのために公営住宅の狭さに不満を持つ世帯が今、大量に出ていっています。特に、子どもが小学校に上がった、あるいは小学校の高学年になってきた、子ども部屋ぐらい持たせたい、と考えている30代の夫婦とその子どもからなる核家族世帯が大量に部落から出ていっているということなのです。
 要するに、部落の外により広い住宅を持つができるほどの経済的に余裕のある世帯が大量に出ていっている。その余裕がない世帯が残るということなのです。そのために20代、30代の就労の不安定化が目立ってきたということです。要するに安定層が出ていって、不安定層が残る。
 さらに言えば、不安定層が外から入ってくるという問題も以前から続いています。どうして不安定就労者が部落に入ってくるのかというと、公営住宅がその受け皿になっているわけです。公営住宅は所得制限がありますので、豊かな人は入ってきません。不安定層を招き入れている。その結果、大阪でも京都でもそうなのですが、非常に不安定就労者が滞留する町になりつつある。
 それともう一つ言えるのは、高齢化が急速に進展している。高齢化率が高まっているという問題があります。これは実は公営住宅一般の特徴でもあるのです。公営住宅、最初建ったときは若い夫婦世帯が多いので、全体に年齢層も若い人が多いです。でも、だんだんと時代がたつにつれ、高齢者夫婦世帯だけになったり、高齢者の単独世帯、ひとり暮らし世帯が多くなっていきます。これは例えば大阪の千里ニュータウンでもそうですし、3年前でしたか、東京で新宿区に限界集落が出現したという新聞記事がありました。それはどこかというと、都営戸山団地なのです。都営団地が高齢化率50%超えた。このように公営住宅というのは、時間がたつと高齢化がどんどんと進む。それが部落で非常に顕著な形であらわれている。
 ですから、今後の問題としては、部落では建てかえの時期に来ている公営住宅が多いので、一般施策としてどういう形で建てかえを行っていくのか、特にどういう町づくりにしていくのか。つまり多様な世帯が一緒に暮らせる町という発想で町づくりをしないと、一律にまた公営住宅の建設ということであれば、また、時間がたてば高齢化が進んでということの繰り返しになってしまいかねないという点があります。
 特に、部落の場合、永住志向がやはり他の地域に比べて高いです。従来から住んでいたし、これからも住みたい、愛着があるという人が少なくないのです。こういった永住志向が比較的高い町に仮の住まいである公営住宅ばかりを建てていった。そういったことが今の安定層の流出に私はつながっているのではないかなと、そういうふうに考えます。
 ざっと1960年から現在までの部落の変化ということを見てきました。残りの時間で部落とは何か、という話をします。
 これは今まで40分ほど部落の話をしてきて、今になって部落とは何かと言うこともおかしいのですが、でも、部落を厳密に定義できないという点、これは部落問題の非常に大きな特徴なのです。それともう一点は、部落差別というのは血筋に基づく差別だというふうに考えられていますが、それは大きな誤解だという点、この2点をお話ししたいと思います。
 まず、テキストには部落の定義として原田伴彦先生の定義を上げておきました。原田先生は部落史研究、部落の歴史研究の第一人者であった方で、もうお亡くなりになりましたが、大阪に部落解放・人権研究所という研究機関があり、そこの初代の理事長をされた先生です。大阪市立大学の名誉教授でもありました。
 その原田先生が部落を次のように定義しています。読みますと、「社会通念によって長い間、いわゆる部落とみなされてきたところ、そして、現にそうみなされているところが部落である」と、これが部落の定義なのです。部落とは社会通念によって長い間、部落だとみなされてきたところが部落で、そして現に部落だとみなされているところが部落であると。これは定義になっていません。
 例えば、犬を定義しなさいと言われて、犬とはみんなが長い間、犬だと思っていたものが犬で、現に犬だと思っているものが犬ですと言っているのと同じことです。でも、部落はこのようにしか言えないのです。みんなが部落だと思っているものが部落だというふうにしか言えません。
 みなさん、御存知のように、同和対策審議会が1965年に答申を出します。同和問題の解決は国の責務であり、国民的課題であるとうたった答申ですが。その答申を出すに当たって、全国の部落を調査しました。これは当然のことなのですが、部落の現状、実態を把握した上で答申をまとめる、ということで全国の部落を調査したのです。調査する以上、何が部落であるのか、調査対象の定義をしないといけません。
 そこで同和対策審議会が行った定義というのが、その下に上げたものです。調査対象、当該地方において一般に同和地区であると考えられている地区、その地方、地方であそこが部落だと言われているところが部落なのだと。そして、調査対象の範囲は、当該地方において一般に同和地区であると認められている広がり、これもその地域、地域でここまでが部落だと、ここからは部落だと、言っているのが部落の範囲だと。ですから、原田先生の定義と全く同じなのです。部落だと思われているところが部落なのだと。
 1969年に制定されました同和対策事業特別措置法の1条には、同和地区の定義が行われています。どういう定義かと言いますと、「歴史的・社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」、これも結局は部落差別を受けているところが部落だと言っているに過ぎないのですね。どうしてこのように厳密な定義ができないのか、ということをごく簡単に説明します。
 多くの方は部落というと、江戸時代の賤民身分であった、いわゆる穢多非人、この人たちが住んでいたところが部落だと考えている人が多いと思うのですが、確かにこういった部落があります。あるのですが、これ以外の部落もたくさんあるのです。その話をします。
 穢多非人と並べて書きましたけれども、別に一緒に住んでいたわけではありません。穢多身分の人たちというのは大体何をしていたのかと言うと、ほとんど穢多村で行われていた仕事というのは農業です。百姓なのです。農業なのですが、周りの百姓たちとは決定的に違う役目をしていたのです。それは何かと言いますと、「警刑吏」という役をしていました。
 警刑吏というのは何かという、最初の警というのは警察の警です。警察の下働きです。捕り物があれば動員される。ですから、職業ではないのです。必要に応じて動員される、そういう役目です。ですから納税のようなものです。もう一つの刑というのは処刑の刑です。処刑を実行する。これも処刑があれば、市中引き回し等です。高札を持って練り歩く。で、処刑を実行する。必要に応じて動員されるわけで、これ年中あった仕事ではありません。
 特に、先ほど言いましたように穢多身分の人たちというのは農業をしていましたので、当然農村に住んでいます。江戸時代の農村ですから、そんなにしょっちゅう犯罪は起こらないので、処刑というのもそんなに頻繁にあるわけではなくて、年に1度あるかどうかという程度のことです。ですから、普段は農業をしていて、必要に応じて警刑吏の役をしたということです。
 穢多身分は、警刑吏の役負担をする反対給付として屋敷年貢が免除されていました。屋敷年貢というのは今でいう固定資産税だと思いますが、それが免除されていたわけです。
 一方、非人はどういう人たちかというと、非人は町中にいる乞食を組織化したものです。ですから、生業は乞食なのです。この非人も警刑吏の役負担をしました。要するに農村の警刑吏は穢多が行って、町中の警刑吏は非人が行うという、そういう関係です。さすがに町中は犯罪が農村と違って多かったので、だんだんとこの警刑吏が専業になっていくという非人も見られたりもしました。
 非人身分の人たちは、この警刑吏の役負担をする反対給付として「勧進場」というのですが、要するに乞食をする縄張りですね、それが保証されていたのです。ですから、例えば地震だとか、大火事だとか、台風で家を失ったという人たちが乞食をしようと思っても、この非人が持っている勧進場では乞食はできなかったわけです。
 で、先ほど言いましたように、非人は町中に住んでいました。大阪でいえば四垣外と言って、4カ所非人の集団があったのです。どこかというと、一つは道頓堀です。それから天満、天王寺、今宮です。この4カ所です。今宮は少し外れですが、大体町中なのですね。
 明治になると、穢多村は農業をやっていますので、そのほかの百姓村が明治以降も村として存続したのと同じように、穢多村も村として存続します。要するに土地を持っていて、その土地を耕し続けるということで、明治以降も村として存続したのです。そのために部落になっているケースが多いです。
 非人はどうかというと、非人は乞食でしたので土地を所有していません。かつ町中に住んでいましたので、明治以降の都市開発でいわゆるスラムクリアランスという、スラムを除去する、そういう政策の中で消えてしまうということが多いです。ですから、非人の系譜を引く部落というのは割と少ないです。大阪の場合は一切ありません。これは地域によってさまざまで、岡山県では割と多いように聞きます。東京でも幾つかある。京都でも見られます。地域によってさまざまです。部落になっていたり、なっていなかったりする。
 これだけではないのです。この穢多身分、非人身分というのは、全国どの藩にも共通して見られた賤民身分です。どの藩にも穢多身分、非人身分というのは置かれました。でも、藩によっては穢多身分、非人身分に加えて藩独自の賤民身分を置いたところがあるのです。
 例えば、広島県の福山藩、広島県の東部ですが、広島県の福山藩では「茶筅」という賤民身分が置かれました。この茶筅、竹細工をしていて、お茶を点てる茶筅をつくっていたので、この名前になったそうです。この茶筅とは、人通りのある街道、その街道筋の村の入り口に茶筅の家が1軒置かれて、人の出入りをチェックする。そういう役目をした賤民身分です。私、冒頭に広島県に行くと1軒だけの部落があると言いましたけれども、この茶筅の家なのです。この茶筅の家がそのまま代々続いて、この1軒の家が部落だとされて、典型的には結婚忌避です。茶筅の人たちとは結婚はしないという形で1軒の家がずっと続いているという、そういうところがあります。
 山陰地方、松江藩ですが、「鉢屋」(はちや)という賤民身分が穢多非人に加えて置かれました。この鉢屋なのですが、これは下級警察、警察の下働きをしたのですが、穢多非人以外に鉢屋という賤民身分が置かれました。
 それから、加賀藩にまいりますと、藤内(とうない)という賤民身分、これも穢多非人に加えて置かれました。この藤内の人たちというのは都市部での乞食の統率だとか、それから都市部の清掃。それから藤内は藤内医者といって医者もしました。それから、藤内の女性は当時でいう取り上げ婆さんですね。産婆をしました。ですから、北陸では産婆の仕事というのは藤内の女性の仕事だったそうです。そのために北陸地方では1960年ぐらいまでは高校を卒業した女性が助産婦になりたいと言うと、周りが反対することがまだあったそうです。
 まだ、藩独自の賤民身分というのはあるのですが、こういった村で部落になっているというケースがあります。なっていないケースもあるのですが、なっていたり、なっていなかったりする。
 これだけかというと、まだあるのです。「夙」(しゅく)、宿という字もあてたりはしますが、「夙」と呼ばれる人たちがいました。この夙という人たちはどういう人たちかというと、記録の上では10世紀ぐらいに夙非人という形で文書に出てきます。 この人たちっていうのは14世紀ぐらいになりますと、神社の隷属民になるのですね。神社の支配下に入っていきます。この神社の隷属民といっても別に神社の境内に住んでいたわけではありません。当時の神社というのはお寺もそうですが、非常に広大な荘園、農地を持っていました。その神社が支配している荘園内にいる夙の村があって、その夙の人たちを神社が支配下に置いたということなのです。
 この夙の人たちなのですが、何かをしたのかというと清めなのです。この清めというのは、お祭りがあったりしたときに神輿が出たり、あるいは山車が出る。そういう際に夙の人たちが先頭を歩くのですね。先頭を歩くことによって道についたさまざまな穢れというのを取り去ってしまう、吸収してしまう、取り払ってしまう、そういう特殊な能力を持っているのだと当時の人たちは考えました。この夙の人たちは穢れを扱う特殊な能力を持っている。それがゆえに汚れた存在だと、みなされたのです。ですから、周りの人たちは夙とは結婚はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を取り続けました。
 テキストをごらんください。これは祇園祭の山鉾巡行の絵なのですが、左から右に鉾が移動しています。背の高いのが長刀鉾ですね、いつも先頭の長刀鉾。その後ろはカマキリが乗っている蟷螂山です。その後ろが傘鉾、というふうに移動しているのですが。この長刀鉾の前、つまり右側にちょっと黒っぽいような、そこに、実は鎧を着ている人たちが歩いています。
 この人たちは夙ではなく、八坂神社の隷属民は夙とは言わずに、「犬神人」と呼ばれました。この犬神人の人たちが清めをしているのです。祇園祭りの先頭を歩いて、そして道についた穢れというものを取り払っている。
 この犬神人は記録もよく出てくるのですが、例えば八坂神社の境内で犬が死んでいたとしますね。犬が死ぬと死穢、死の穢れが発生します。この死体を片づけるのも犬神人です。こういう穢れをすべて処理するという役目をしていました。この夙の人たちもお祭りがあると動員される。そういう支配、被支配の関係にあったわけです。
 中世も後半、終わり頃になりますと、だんだんと戦国大名が台頭してきます。神社もお寺も広大な荘園を持っていたのですが、戦国大名との戦いによって失っていくのです。要するに神社、お寺の勢力がだんだんと弱まっていきます。そして、夙も神社との関係が切れてしまいます。完全な百姓村になってしまうのです。周りの百姓と何ら変わらない。祭りがあっても特別なことは一切しないという百姓村になってしまいます。
 江戸時代になりまして身分制度が整えられたときに、この夙の人たちは百姓身分になるのです。賤民身分にはなりませんでした。百姓身分になるのですが、周りの百姓たちは自分たちとは違う、夙だと。従来どおり結婚の行き来はしない、普段のつき合いも制限する、そういう態度を変えなかったのです。その結果、現在、夙村であったところで部落になっているというところがたくさんあります。
 特に、京都府、奈良県、和歌山県は夙系の部落というのが非常にたくさんあって、やはり穢多系の部落と全く同様の結婚差別事件というのが起こったりしています。大阪にも夙村があったという記録があるのですが、大阪の場合はどうも部落になっていないようです。理由はよくわかりません。調べようもないですし、どうも余り聞かないのですね。明治以降の経済状況だとか、力関係だとか、さまざまなものが影響するのでしょうけれども、部落になっていたり、なっていなかったりする。
 同様に、江戸時代は百姓身分なのだけれども、周りからは賤民扱いされたという人に「しょうもじ」、「しょうもんじ」とも言うのですが、「声聞師」と呼ばれる人たちがいます。この声聞師と呼ばれる人たちも記録の上では14世紀に登場します。「散所非人」とも呼ばれましたし、「陰陽師」とも呼ばれました。
 陰陽師なのですが、陰陽師は朝廷に仕えている高級な陰陽師、安倍晴明のような陰陽師から、全く朝廷とは関係のない在野の陰陽師までさまざまあって、いわゆる在野の陰陽師です。占いをしたり、暦を売ったり、あるときは医療行為のようなことをしたりという、要するにシャーマン的な「野巫」(やぶ)ですね。だから藪医者というのはここから出たわけです。
 この声聞師は、それ以外に何をしたかというと芸能なのです。芸能と言っても今私たちが考える芸能とは大きく違って、いわゆる門付け芸ですね、代表的なものは萬歳です。先ほど資料の犬神人の隣の絵が千秋萬歳、男性2人が門口に立って、めでたいことを掛け合いで言い合うのですね。それによって家についた穢れというのがはらわれる。要するに正月の芸能ですので、正月に家についた穢れというのがはらわれて、そこにその家に住む人は1年間、丈夫に過ごすことができる、無病息災を祈願する、そういう芸能なのです。
 ですから、この芸能というのは上手い、下手は問題ではないのです。誰がするかが問題なのです。だから、隣の小父さんと向かいの小父さんが漫才しても意味がないのです。幾ら面白くてもだめなのです。そうではなく、声聞師と呼ばれる特殊な人たちがやってきて、萬歳をしてくれる、それによって家の穢れというのがはらわれるのだと、そう考えられていました。
 「春駒」という芸能も同じものです。
 「猿引き」、これは猿まわしですが、猿引き、猿まわしは主として家畜小屋の前でやったのです。猿は家畜の神様の使いだというふうに言われていましたので、家畜小屋で猿が芸をする。そのことによって家畜小屋の穢れがはらわれて、当時は非常に貴重な生産手段であった牛や馬が丈夫に働くことができる。田を起こしたり、働くことができるように、ということを祈願する。そういう芸能でした。
 こういった人たちは、正月には村々回りますけれども、普段は農業をしているということなのです。
 
 この声聞師の村で部落になっているところもあります。なっていないところもあります。なっていたり、なっていなかったり、さまざまです。
 上げたらもう、切りがないのですが、もう一つだけ。「鉢叩き」。鉢叩きというのは念仏宗の宗教者です。念仏宗は、宗教でいうと非常に格が下だというふうに見なされたのです。
 例えば、中世も安土桃山時代以降、城下町というのが築かれますけれども、そうすると寺町というのをつくるのです。お寺を集めて。その寺町を見ますと、浄土宗は寺町の中に入っていますけど、真宗になると入っていないことが多いです。やはり格下というふうに見られていて。この念仏宗、時宗、低く見られていた宗教で、鉢叩きの人たちというのはお寺に属さなくて、放浪するお坊さんです。
 ですから、乞食かお坊さんか区別がつかないという「三昧聖」とか、「毛坊主」といって、非常に低く見られた人たちです。この人たちも中世も終わり頃になりますと放浪をするのをやめて定住する。農業を始めます。江戸時代は百姓身分として扱われます。ところが、周りの百姓たちは鉢叩きだと言って結婚の行き来はしない、普段のつき合いも制限する。そういうことを続けて、今、鉢叩きの村で部落になっているというケースがあります。なっていないケースもあるのですが。
 さらにさまざまありますけれども、時間がありませんので省略しますが、さまざまなものが部落になっていたり、なっていなかったりする。
 鉢叩きなのですが、資料の右下の絵をご覧下さい。鹿の角のついた杖を持って、鹿革の上着を着て、胸のところに鉦を下げている、これが鉢叩きです。二人男性がいます。これがちょうど空也上人像というのがあるのですが、六波羅蜜寺の。空也像と一緒の格好なのです。そういう旅をしながら行をするという、念仏宗のお坊さんはこういう格好をしていたということです。
 それともう一つ、この同じ絵の中の左下、棒状のものを二つ持っている男性が右上に向かって歩いていますが、この人は「簓」(ささら)です。簓というのは、中華鍋などを洗う、あの簓ですが。棒に簓を擦って音を出す。楽器でもあるのですね。何をしていたのかというと、説教節です。小栗判官だとか、山椒太夫なんかの説教節を語る芸をしていた散所非人です。ですから、声聞師です。この左の笠の下で簓説教をやっているのも声聞師です。
 このように、部落といってもさまざまなものが部落になっていたり、部落になっていなかったりするということなので、原田先生が言うように部落だと思われているところが部落だと、そういうふうにしか言えないのです。
 そうすると、誰が部落民かというと、もうますますややこしくなります。例えば、大正時代以降、都市部の部落では人の出入りというのが非常に頻繁になります。出る人もいれば入ってくる人もいる。部落でも特に都市部落の場合、スラム化していきますので、どんどんと人口が増えていくというケースもあります。
 例えば、神戸のある部落では一時期4,000世帯ぐらい超える大規模な部落があるのですが、そこはもともと穢多村で、幕末の世帯数は18世帯なのです。18世帯がどうして4,000世帯を超えたのかというと、実は分家を繰り返してふえたのではありません、いわゆる木賃宿という、いわゆる簡易宿泊所がありました。江戸時代の旅行というのは、料理が出るような旅館に泊まるというのはごく一部の人たちで、大体お米を持って旅をしたわけです。お米と味噌と塩を持って、野菜とかを現地で買う。薪を持って旅できませんので、薪は旅館で買うのです。ですから、薪を売ってくれる旅館が木賃宿というのですが、この木賃宿というのは近代以降、スラム化していきます。木賃宿街というのはだんだんスラムになっていくのです。
 神戸はもともと漁村で、そんなに人がいなかったところですが、近代の都市開発の中で、やはりたくさんの労働力が入ってくるので、木賃宿があちこちできたのです。その結果、神戸の街中、小さなスラムが点々とできるようになりました。それを防ぐために木賃宿条例という条例をつくって木賃宿を新しく建設するところを制限したのです。それが先ほど言った部落なのです。
 そこにだけにつくるようにと制限されたので、その部落の周り、どんどん木賃宿ができて、そこに住む人が増えて、大きなスラムになって、周りの人たちは全部ひっくるめて部落と見ましたので、4,000世帯の部落ができたのです。ですので、部落民だと見なされた人が部落民だとしか言えないのですね。
 大阪府が行った調査によりますと、大阪府には48の同和地区あるのですが、今、同和地区に住んでいるのだけれども、最近入ってきた、あるいは親の代に入ってきたので、自分は部落の出身ではないという世帯が9,885世帯ありました。この9,885世帯に部落差別を受けた家族がいるかと聞いたら、13.6%がいると答えているのですね。つまり、自分は部落民ではないと思っていても部落民だと思われれば差別を受ける。
 ですから、決して血筋が差別の根拠になっているわけではありません。例えば学生に、ひいおじいさん、ひいおばあさんの名前を知っているかと聞くのですが、だれも知りません。この間、ひいおばあさんの名前知っているという学生がいて驚いたのですが。よく聞いてみると、まだ、そのひいおばあさん健在で同居していると言うのです。知っていて当たり前です。おじいさん、おばあさん4人名前を、4人全部正確に言えないという学生もいます。そういう時代なのですね、今。要するに自分の2代前がよくわからない。
 ですから、例えば、Aさんという人がBさんを部落民だと見なして、差別的な、言動を行ったとします。では、AさんはどうしてBさんを部落民と見なしたのか、Bさんの祖先をたどっていって、Bさんが若ければ5代、6代さかのぼらないと江戸時代に行きませんが、Bさんの5代前まで調べあげて、確かにBさんの5代前は茶筅であった、夙であったと。そういうことを確認してからBさんを部落民と見なすのか。こういうことは不可能です。自分の2代前がよくわからないのに、赤の他人の5代前がわかるはずがありませんから。結局はBさんは部落だと言われているところに住んでいる、あるいは住んでいた、あるい住んでいたかも知れない、ということで部落民に見なすわけです。ですから、要するに部落民だと思われたら部落民であって、血筋が根拠になっていないということです。
 テキストの145、146ページ、詳しく説明していると時間がありませんので、簡単に何のことかということだけ説明しておきます。これは血筋が根拠でないということを数字でもって裏付けたものなのですが、先ほども言いましたようにだんだんと最近になるほど部落外の結婚も増えてきています。
 例えば、ある部落の男性が部落外の出身の女性と結婚して、男の子ができたとします。すると、その男の子から見れば両親のうち父親は部落出身だけれども、母親は部落の出身ではないということになります。その男性がまた、部落外の出身者と結婚したとします。そうすると、その夫婦の間に生まれた子どもから見れば、自分のおじいさん、おばあさんを見ると、父方のおじいさんは部落出身だけれども、それ以外は部落外の出身だということになります。要するに部落外の結婚が増えていくと、こういったケースどんどん出てくるのです。
 昔だったら、おじいさん、おばあさん4人とも部落の出身だと、あるいはひいおじいさん、ひいおばあさん、8人とも部落の出身だというケースが多かったのですが、部落外との結婚が進むに従って、例えばひいおじいさん、ひいおばあさん、8人のうち、部落の出身者は3人だというような人も出てきます。そのことを数字で裏付けたものなのです。
 この145ページの一番下の細長い表を見てほしいのですが、これは25歳未満の子と書いていますけれども、1993年調査で25歳未満だった人たちの子にあたる人たちなのです。ですから、今、中学生、高校生という人になるのですが、この人たちから見て、自分の高祖父母、高祖父母というのは祖父母のまた、その祖父母です。要するにひいおじいさん、ひいおばあさんの父母なのですが、16人います。この高祖父母16人のうち、16人ともが部落の出身だという人は0.4%ということになるのです。計算上、このようになるのです。
 反対に高祖父母16人のうち、部落出身者は1人だけだというのは2.1%、この16分の8の欄外に88.6%と上げておきましたけれども、これは高祖父母16人のうち、部落出身者は8人以下であるという人を加えると88.6%になる。こういった人たちが今、部落で生まれています。
 そうすると、この人たちのうちどこまでが部落民というのかという問題になります。もし、仮に高祖父母16人の中に1人でも部落出身者がいれば、その人は部落出身者であるとするならば、今の世の中、自分は部落民でないと言い切れる人はいなくなると思うのです。皆さんも自分の高祖父母16人の名前すべて言える。どこで生まれて、何をした人かすべて知っているという人は多分はいないと思います。ですから、結局は血筋で線は引けないということです。
 高祖父母16人、1代、2代、3代、4代さかのぼれば16人です。5代さかのぼれば32人です。20代さかのぼると100万人超えるのです。皆さんがそうなのです。ですから、どんな人であっても数えきれないほどの血が混じって今の自分があるのです。これはみんな共通しています。そう考えると穢れた血筋だとか、尊い血筋というのは意味をなさないということがわかります。要するに血筋というのは幻想に過ぎないのです。
 テキストの146ページは、計算の仕方を図示したものですので説明を省略します。
 また、テキストの142ページに戻ってください。
 ですから、私は啓発の課題としては部落差別は、こういう非常に根拠のない、定義もできない、あやふやな差別なのだという実態をまず知るということが大事だと思います。血筋が違う、そういう見方というのは根拠がないのだということを伝えていく。
 それと、もう一つは非常に誤解されている点が多い。冒頭に言いましたあの血族結婚もそうです。血の濃い結婚が繰り返されているのだという間違った情報を持ってしまっている。そういったところ、事実を示しながら具体的に部落の今の様子がつかめるようなそういう啓発が必要ではないか。学生たちが部落というと暗い、貧しい、閉鎖的というようなイメージを持ってしまっていたり、あるいは血族結婚が多いというイメージを持っている。結局これは、具体的な部落の様子というのは全然習っていないからです。非常に抽象的な形で現在でも差別が強いという。そうすると、それだけ差別されているのだったら、よっぽど部落というところは変わったところなのだろう。そういうふうに思ってしまうのですね。結婚が難しいと聞くと、「ああ、血族結婚が多いのだろう」と、そういうふうに考えてします。ですから、新しい手法の啓発、教育というものが必要ではないか。
 そういう場合に、テキストの5というところで書きましたけれども、人権教育啓発の入り口に部落問題を置くことの問題。これどういうことかと言いますと、多くの場合、これまで部落問題、同和問題が重要な問題だと言われてきました。重要な問題だから、まずは部落問題から入る、同和問題から始める、そういう手法がこれまで取られてきたように思うのです。これは本当に効果的なのかということです。重要だから最初にやるというのが本当に効果的なのか。
 と言いますのは、部落問題といっても多くの人にとってみれば、特に若い人が顕著だと思いますけれども、あまりリアリティーがないのですね。ピンと来ない。どこに部落があるのかも知らないし、だれが部落民であるのかも知らない。そういう人たちに人権教育として最初に部落問題から始めると、結局人権問題というのは自分には直接関係のない、どこか知らないところで、困難を抱えている人たちのことを考えてあげる問題なのだと、そういうふうに人権問題を他人事にしか思えない。
 人権問題というのは自分にかかわる問題である、自分の生き方にかかわる問題だというところになかなか気づけない。部落問題から入ると、どうしても、他人事の問題、そういうふうになる。人権問題というのは、自分とは関係のない問題なのだ。そういうふうに感じてしまうのではないか。
 私は部落問題をやるなと言っているわけではありません。部落問題は入門編としてするのではなくて、応用問題としてしたほうがずっと効果があるのではないか。つまり、入門編、入り口はもっと身近な問題、自分とのかかわりというのが非常によく見える問題から入っていって、それで人権に対していろいろ考えを巡らせる。そういったことをした後で、応用問題として部落問題をやる。それのほうが私は効果が高いのではないかと思います。
 そうすると何を入り口に置けばいいのか。これはいろんな問題があるかと思います。高齢者問題、あるいは障害者問題。障害者問題も他人事ではない。要するに障害者手帳を持っている人では、生まれながらの障害者よりも後天的に障害を持ったという人のほうが桁違いに多いわけです。
 障害者と健常者というふうに言われますけれども、これは正しい言い方ではなくて、今、この世の中にいる人は障害者と障害者になる可能性のある人なのです。この2種類です。ですから、皆さんもいつ事故で、あるいは病気で障害者になるかもわかりませんから、そういうふうに考えれば、障害者問題というのは非常に身近な問題なのですね。そういったところから入っていく。
 さまざまな入り口があるかと思うのですが、ミソジニー(misogyny)の説明をして終わりたいと思います。ミソジニーというのは、英語なのですが、英和辞典を引くと女嫌いと書いてあります。女嫌いという意味なのですが、この女嫌いというミソジニーに、新しい意味をつけ加えて社会学では使っています。
 というのは皆さん御存知のジェンダー(gender)という言葉があります。ジェンダーという言葉も、今は社会的、文化的につくられた性差という意味で使っています。男らしさ、女らしさというような意味でも使ったりもします。でも、もともとはそんな意味はなかったのです。ジェンダーというのは文法上の性、特にフランス語、ドイツ語は男性名詞、女性名詞がありますが、文法上の性という意味しかなかったです。そのジェンダーに新しい意味をつけ加えて使っているわけなのですが、ミソジニーも同じことです。
 このミソジニーにどんな意味がつけ加わっているのかというと、ミソジニーというのは、男性の中にある女性は自分よりも下だと考えている潜在的な意識です。どういうことかと言いますと、例を上げたほうがわかりやすいのですが。私の授業の女子学生がこんなことを言ったのです。付き合っている同年代の彼と話をしていたときに、彼が何か知らないことがあったので、「ああ、なんやこんなことも知らんの」と言って詳しく教えてあげていたら、彼がだんだん不機嫌になってくるって言うのです。逆に自分が知っていることでも知らないふりして「教えて、教えて」って言うと、彼は非常に満足げに詳しく教えてくれるんだ。そういう関係です。要するに女性に対する見下し意識なのです。
 例えば、男女間の会話を分析すると、女性は男性がしゃべっていることに対して頷いたり、相槌を打ったりする。これは会話の支持作業。相手がしゃべりやすい環境を無意識につくっている。女性が、頷いたり、相槌を打ったりする。皆さんの地域はどうですか。関西は特に若い女性、「ああ、そうなんや」というのが口ぐせの女性がいるのです。しゃべっていることに対して「ああ、そうなんや」。これは「ああ、そうなんや」って言われるとしゃべりやすいです。そんなことない、そんなやつおらんわ、それはうそやろうって言われたら、先を言えんようになりますけれども、「ああ、そうなんや」というのは会話の支持作業です。無意識にやっているのですね。
 逆に男性はどうかというと、女性がしゃべっていることに特に関心がない場合に沈黙。変な間があくのですね。女性がしゃべったことに対する反応、「ああ、そうなんや」は返ってこないのです。沈黙、変な間があいたり、あるいは時間差で何か反応が返ってきたりして、非常にしゃべりづらい環境をつくられる。それから割り込み、違う話をされる。それが頻繁に見られるのです。こんな話を学生にすると、ほとんどの学生は自分の家がそうだと言います。要するに、父親は母親の言うことを聞いていない。こういうふうに家庭で妻の言うことをまともに聞かないような夫も職場に行けば上司に対して、ごもっとも、なるほど、そのとおりというふうに会話の支持作業をしているのですね。ですから、結局相手に対する見下し意識です。
 こういった男性の中に潜在的に存在する女性に対する見下し意識、これをまず点検してみること。要するに対等の関係ではないということですから。そういった自分の中にあるミソジニー、これを点検し、かついろんな人と話し合ってみる。例えば男女間の口論で女性のほうが優勢であったため、男性がついつい大きな声を出してしまったとか、あるいは女性に絶対負けを認めたくないのでむきになってしまったことがないかというような、そういうミソジニーです。こういったことを点検してみるということです。
 これは男性だけの課題かというとそうではありません。女性もミソジニーを内面化しているという面があります。というのは、これはゴールドフィリップバーグという心理学者が非常に興味深い実験をしているのです。それは心理学を専攻している女子学生だけを集めて宿題を出しました。1週間後にやってきなさいという宿題です。
 どういう宿題かというと、心理学の論文を渡して、この論文を読んで評価しなさい。この論文の出来を評価して、その評価したものを出しなさいという宿題を出しました。その論文を渡すときに、ある女子学生にはその著者名を男性名にして渡したのです。別の女子学生には女性名にして渡しました。内容は全く同じ。ですから、その宿題を受け取った女子学生は、男性名でもらったグループと女性名でもらったグループ、二つに別れました。1週間後に評価を回収したところ、男性名でもらったグループの評価が高かったのです。女性名でもらったグループのほうが低かったのです。すごく大きな差ができました。どうしてかというと、結局もらった時点でこれは男が書いているから読む価値があるのだろう、男が書いているから質が高いのだろう、そう思って読んだのです。女性名でもらったグループは、これは女が書いているから質が低いのだろう。女が書いているからいまいちなんだろうというふうに考えて読んだ。そういう気持ちが評価にあらわれるのです。このように女性の中にもミソジニーを内面化している部分がある。
 ですから、まずは男女の共生、お互い対等で尊重しあえる立場をつくろうと思ったら、まず、このミソジニーの克服ということが非常に大きな課題になるかと思うのです。ですから、啓発でもミソジニーをどう克服していくのか。それも自分の経験としてわかることですので、決して人権問題が他人事ではなくて、自分が生活していく中でのさまざまな人との関係の問題だろうということに私らも気づけるのではないか。
 ですから、入り口としてこのミソジニーから入っていく。自分の問題として人権問題にさまざま考えを巡らせていく、ということ。そこから入っていって、部落問題はその応用問題としてやっていく。それが効果的ではないかなと、そういうふうに思います。
 御静聴ありがとうございました。(拍手)