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人権に関するデータベース

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研修講義資料

神戸会場 講義8 平成23年11月17日(木)

「震災と人権」

著者
森川 すいめい
寄稿日(掲載日)
2012/03/28



 よろしくお願いいたします。
 今日は『震災と人権』ということをテーマでいただきました。私からは、『死にたいと』言った人と出会ったときに、私たちはどうしたらいいのかについてお話できればと思います。ただし、最初にお伝えしておきたいことは、正しい答えは存在しないだろうということです。
 今、私は毎週、今日も私服で申しわけないのですが、この後入るのですが、現在毎週岩手県に行かせていただいていて、精神科医療という、実際は医療ではないのですが、死にたいと思っている方々と出会っていくことをしています。
 そして今日は、人権に関して現場で働いていらっしゃる皆様への講座とのことでしたので、皆様が現場でそういう方々と出会ったときにどのようにしたらいいのかということについて、こんなことをしていくといいのではないかと言われている中身についてご紹介できたらと思います。
 まず何をするか、についてであります。死にたいと言われたときどうするのか。最初に重要視すべきことは、「主人公がだれか」の確認であります。 当然のことではありますが、主人公は援助側ではなく、その言葉を発したその人であります。その人が世界をどのように見ているのか、その人はどういった世界の中で生きているのかを感じていきます。援助をする人がつい忘れてしまうこと、または、主人公がだれかと思いながらやっているけれども、主人公がだれなのかをいつの間にかつい忘れてしまうことのようです。 主人公がだれで、どういう世界に生きていて何を感じているのかがわかった途端に大きな変化を実感できることがあります。さまざまな事例を通してお伝えできたらと思います。本日は、震災がテーマでしたが、震災と少し違う話も交えながらお話しできたらと思います。
 それは、70を超えたご高齢の方のことでした。ある施設に入っておられて、その施設の中で問題行動を起こすので病院で引き取ってほしいという相談を受けました。よくある話かと思います。
 問題行動はというと、部屋の中でたばこを吸うということ、たばこを吸う場所が決められているのに、そのたばこを決められた場所で吸わない、それを注意すると怒る、怒ると杖を振り回す。問題行動で施設では到底見られない。見られないので病院で預かってほしい、入院させてほしいということでした。各施設が禁煙の方向で動言いますので、このようなご相談はたくさんあります。地域にいらっしゃる皆様方にとっては、このような人は病院かなって思う方もいるかもしれませんが、そのご高齢の方に対しては、現実的にはなかなか入院になりませんでした。といいますのは、病院は禁煙でありますし、スタッフも同様にバタバタと走り回っています。そんな中で、この方の場合は、病院施設内で暴力行為を行うことが目に見えていますので、そういう人を『収容』するというは避けたいと病院のスタッフも考えるものです。スタッフの言葉から出てくる理由はたいていいつも同じでして、「他にも患者さんがいるから」であります。病院と施設の違いは、薬と隔離室が使える点であります。タバコを吸えないことで暴力行為が出てきた時に、「イライラ」という症状を、やや専門的に「易怒的」として、お薬を飲ませることができます。どうにも暴れるようでしたら、隔離室に収容ということになります。結果的に、ご本人は足腰を弱らせてしまって、施設に戻れなくなるということもあるかもしれません。それは酷いと思う方もおられるかもしれませんが、施設や地域から病院に本人を移すという理屈は、まったく同じではないでしょうか?
 ご施設は、認知症という病気で困っていたのではなく、タバコをあちらこちらで吸ってしまうので火事になることの恐れに困っていました。病院はというと、病気を診るところだという理屈ですので、病気を治すことに主眼が置かれますが、果たしてこの方は病気なのかどうか、特に治療可能な病気なのかどうかということに興味を持ちます。そこで、『易怒的』という症状名を付けることになり、お薬が出されるわけです。 さて、ここで本日の重要なポイントがあります。この議論が、良く考えてみると本人不在のまま話が進んでいることでした。人権というテーマにおいて、導入としてはよい事例でしたでしょうか。あまりにもよくある話です。
 私たちは常に主人公がだれかについて考えていきます。そのときにまず行うこととしては、「その人が見えている世界は何か」を知るという作業をしていきます。「主人公はだれか」の次にレジュメに書いてあります「その人が見えている世界は何か」であります。
 私は、そのご高齢の方とお会いしました。診察室では本人は「もたもたしていらいらする」と言っていました。診察室では5分とじっとしていられませんでした。そして、いらいらすると仰いました。今にも杖を振り上げる勢いでした。診察室でお会いしたこの方は、事前の情報と併せて、確かに施設で見ていくことは大変なことだなと思いました。かといって病院という施設に入るとどういう現実が起こるかというと、恐らく閉鎖病棟に入って、閉鎖病棟で看護師さんたちとバトルをして、結果的に隔離室に移されて、そしてどんどん社会と遠くなって、退院もできなくなって元気がなくなって、あるとき暴力を振るうという行動によって拘束されて亡くなっていく。そんなストーリーが見えてきました。私たちは、入院すればこうなるかもしれないと施設の人と、お話しました。同時に、その人が見ていると思われる世界を、診察室の中で書き表していきました。
 その人は個室にいました。かつては、玄関の近くにはたばこを吸う場所がありました。その方はいつもそこで吸っていたそうです。今はありません。
 施設には大きな庭がありました。そして、その庭の先に、細い歩行者が通れる通路があって、ここが喫煙場所になっていました。
 本人に「たばこを部屋で吸って大変らしいですね」と聞いたところ、「吸うわけないだろう」と怒りました。それはどういうことかというと、本人の性格上、自分がそんなことするとは思ってないわけです。何かの理由があってその時は部屋で吸ったのかもしれませんが、認知症なので、診察室の中にいる頃には吸った行動は覚えてないわけです。吸うことが妥当だと思うようなよほどの理由があるのかもしれませんが、ご本人は覚えていませんので、部屋で吸うなどと言うことは想像もできないことのようでした。
 ここでぜひ注意していただきたいのは、それをさらに第三者が見ると、「またうそをついている」と思われるということです。本人は認知症であるという客観的な事実があって、覚えてないという客観的な事実がある。けれども、本人は診察室でそんなことするわけはないだろうと言ったときに、周りはまたうそを言っているとその人を嫌いになるわけです。不思議なことですが、現実は、このようであります。
 さらに、本人が言っていたことは、たばこは1日10本しか吸わないと言っていました。10本と決めているのだと。周りから聞くところによると、10本どころではなく20本、30本も吸っているようでした。本人は「健康のためにタバコを減らしたんだ」と言っていました。健康のために減らしたことを本人は確信しているようなのですが、実際は何本吸っているか本人は覚えていませんので、15本目だったとしても、まだ2本目くらいに思っているというわけです。話をよく聞いていくと、火事の危険を考えて、ついにたばこは本人に渡さないようにしたということでした。玄関の外に出て吸うということで、通行人から苦情も来ていたそうです。
 施設の人に「何で本人はここでたばこを吸うんですかね」と聞いたところ、通行人とよく話をするということも見えてきました。通行人と話をし、その通行人からたばこをもらっていることがわかりました。出会う通行人、通行人全員にたばこをもらうそうです。それはいつから始まったかというと、スタッフが本人にたばこを渡さなくなってからだということでした。
 実は、これ以前に敷地内でたばこを吸っていい場所は、ほかにもあったのです。その別の場所では、本人はきちんとそこで吸っていたそうです。ところが、喫煙管理がしっかりとされるようになってからはそこで吸えなくなって、もちろん別の場所でも吸えなくなって、現在の喫煙場所のみで吸えるようになったのですね。本人の手元にはたばこはありません。しかし、本人に聞いてみると「スタッフが預かってくれているからいつももらいに行けばいいんだ」と言っていました。ですが、そんなルールはもうとっくにないのです。ですので、本人はスタッフにたばこをもらいに行き、スタッフはわたさない。または、スタッフと一緒にたばこを吸いに行くときだけはあげようと決めていたそうです。そして決められた喫煙場所まで誘導して吸う。本人にとっては、なぜ預かっているタバコをスタッフが渡さないのかがまったくわからないということが想像できます。本人は、いらいらするということでしたが、いらいらの原因を聞くと、「とにかく周りがもたもたする。もたもたしたらいらいらするでしょう」と言っていました。自分はいらいらする体質じゃない、周りがもたもたするんだと。本人が見ている世界からすると、スタッフは、たばこをすぐにくれなくてもたもたする。もたもたするから外に出る。この庭にいると通路を歩くいろんな人と話ができる。そして本人はコミュニケーションする力がしっかりとしていたため、いろんな人からたばこをもらう。結果的に苦情が来る。そんな流れがどうもここにあったようです。
 「主人公はだれか」という作業と、「本人が見えている世界は何か」という作業をここで簡単にやってみました。
 最初の前提であります。施設の人からの情報は、とにかくスタッフに暴力を振るうし、部屋でたばこを吸うし、その人はもうスタッフも辟易して疲れ果てたと言っていました。だから、もう病院にあずかってほしいと。これは、本人不在のスタッフが主人公となっている援助の形でした。しかし、本人が主人公となって、本人が見えている世界を検証してみるとどうでしょうか。何かちょっとアイディアが生まれるかもしれません。
 たった「主人公を確認する」、これだけで本人が最終的に入院して弱っていくのか、この場所でどう生きられるかが大きくかわります。本人に話を聞いたところ、「今の施設はなかなかいいよ、ずっといられたらいたいな」と言っていたのです。でも、その人は入院させられるためにこの施設に来た方でした。私は「スタッフがどうも仕事でくたくたらしいんですよ」と言いました。「だからちょっと休みたいためにあなたが少しの間入院してくれると助かるそうです」と続けて言うと、本人は「それなら入院してもいいかな」と言っていました。内緒で病院に来て、何で自分がここにいるのかも分からずイライラしていたわけですが、そこまでわかると、なんと優しい方でしょうか。世界を見間違えれば、易怒的で暴力的な部分にのみ注目して、無理矢理の入院のなっていたに違いありません。この方は、予定通り2週間ほど入院をします。恐らく、何の問題も起こさないでしょう。イライラの原因がわかったからです。
 これに加えて、もう少し積極的に物を見ると、彼は診察室では5分しか間が持たなかったのですが、診察室から出ると、病院なのですけどね、病院の敷地内でほかの患者さんたちにたばこをもらいまくっていました。ほんの20分の間に5人ゲットし、5本持っているのですね。すごい力だなと。一見これは問題行動です。ところが、すごい力だなと視点をかえてみると、どうでしょうか。周りの人がさらに観察してくれたところ、その人は病院の自動ドアから出て、たばこの吸えそうな屋外に出て、そこでたばこを吸い、吸って、2回ぐらい吸うと、タバコを消してしまいました。大事にしているのでした。そして敷地内をぐるぐる回ってまた吸って、しまうという行動をずっと繰り返していました。こんな状態を見ていると、入院したとしても、穏やかに過ごす方法を見つけることができます。主人公は誰か、本人が見えている世界はどんなふうか、これを続けるということです。
 こんなときに、本来の私たちがすべき仕事は何かというのを考えたりします。診察室でここまで想像ができました。スタッフの人もなるほどと思ってくれました。そして、今度、ここの施設に私が行くことになっています。実際どうなのかを見ます。本人が見えている世界をどれだけ明らかにできるかによって、もしかしたら入院しなくても済むかもしれないと願うわけです。そうそう、言い忘れましたが、さらにちょっとすごいことを聞きました。何とご本人は、たばこが全くゲットできないことがわかると、門から出て商店街に行って、商店街の人々にたばこをもらっていました。これを問題行動と見るのか、「やるねえ」と見るのかによって人々の生きづらさがかわるのかもしれないなと思ったりもしました。人権ということを、本気で考えるというのは、こういう行動をいうのかなと思います。
 さて、被災地でやっていることもこんなようなことであります。何が言いたいかと言いますと、私は38歳なわけです。70代後半のこの人が見てきた世界や、この人が住んでいる世界は全くわかりません。医学の勉強をしても、全然わかりません。もし診察室だけで「症状」だけを聞いて課題を解決させようと思いましたら、情報だけ受けて、安定剤を大量に投与したりしていたかもしれません。こんな現実が、今日お伝えする方法によって思いっ切り変わることができるというお話を続けてしたいと思います。
 まず最初に、主人公はだれか。その主人公はだれかというのを、今のご高齢の方を例にしました。そして「その人が見えている世界は何か」でありました。
 加えて、今の方について、守ったことは、その人が生きていくペースがあるということでした。「主人公はだれか」だけでいいんだと思います。ただそれをもう少し別の言い方をしてみると、その人には生きていくペースがあるということであります。
 その人が生きていく、たばこを吸うためにその人がやっている、その吸い方さえも支持、認めていく、それがもしもできたときに援助はとても楽しいことにかわります。 「浦河べてるの家」というのをご存じの方もいるかもしれませんが、北海道で浦河という場所で「べてるの家」というところで障がいを持った当事者主体に物事が動く町があります。そのべてるの家も当事者主体であり、当事者たちが、自分たちが生きやすいために、べてるの家の理念をつくりました。自分たちが生きていくためにつくった理念も幾つもあるのですが、その中でこの根幹となるものが「そのまんまがいいみたい」という表現でした。
 援助の基本原則である「ありのままでいい、あなたのままでいい」という言葉がありますが、それはもしかしたら私たち援助者側が決めた言葉かもしれません。当事者はこう言ってほしいと言っていました、「そのまんまがいいみたい」。「そのまんまがいい」ではないのですね、「いいみたい」なのです。この微妙なニュアンスの違いを知ってほしいのです。援助者が言葉を決めたのか、人生の主人公たる本人が言葉を決めたのかという違いです。先ほどのご高齢の方が「そのまんまがいいみたい」と思える、周りも思えることによって全く人生が変わるということがあるかもしれません。直感的にどうでしょうかね。あの方が隔離されてしまう社会と、自由に迷子になれる社会と、どちらがいいでしょうか。
 被災地でも同じようなことをしています。
 数十年引きこもっていた人がいました。これは被災地の話です。震災があった途端に引きこもっていた人たちが外に出るという、そんなことが可能になった人たちもぱらぱらといます。
 最初にぜひ知っていただきたい言葉として、「暗黙のメタルール」を覚えておいてください。「暗黙のメタルール」、これはひきこもり支援をしている四戸智昭さんという方が、ツイッターでつぶやいていた言葉をそのまま引用しています。「メタ」というのは高次(次元が高い)のという意味です。「暗黙のメタルール」とは、すなわち見えないルールが高次の次元にあるということです。
 その「暗黙のメタルール」が変わることでさまざまなことが変わることがあります。事例を通しながら(いくつかの事例を交えて話しています。実在の人物ではありません)、この言葉をかみ砕いていければと思います。 震災といえば、悲しい出来事がたくさんありましたが、一部の長期に引きこもっていた方にとっては暗黙のメタルールが変わったそうであります。
 ある統合失調症の方は、一人暮らしをしていて生活保護を受給していました。何年も引きこもっていたわけですけれども、震災を機に避難所に移りました。避難所に移ったときに、たくさん人がいて、本人は嫌だったそうなのですが、隣の人から「ありがとう」と言われた出来事があったそうです。その瞬間に彼は自分の中のメタルール、統合失調症となってしまった自分は世の中から役立たない存在だと社会に思われていたと思い込んでいたメタルールが、がらっと変わったようでした。それから避難所でみんなの人気者になっていてですね、人気者といっても目立ったものではなく、みんなの助けを得たり、場合によって助けたりする存在になっていました。
 そうこうしていくうちに、彼は薬の量も変わらずに、どんどん自転車で外に出るようになって、現在仮設住宅に移っていますが、人々の役に立ちながら、ボランティア活動をしながら生きておられます。そんな統合失調症の方がおられます。暗黙のメタルールが変わるとこのように変わるという例でした。 それが、「どうして生きなきゃならないのかと言われたら」という今日のテーマの中で、ある方を紹介したいと思います。
 震災スペシャル、NHKスペシャルを見た方がおられるかもしれません。あれは、明らかに周りが本当に悲惨だと思う人たち以外の、「家がなくなっただけなのに」とか、「○○だけなのに」ぐらいの人たちが非常にしんどい思いをしながら生きているという人たちに注目した番組でした。目立たない環境の中の人たちで死にたいと思っている人がいて、そういう人が実際に行動を起こして万が一生き残ったときに今出会える、そんな状況がありました。
 数十年年近く引きこもっていた方でした。引きこもっていて、震災が過ぎて、少し経ったときに自殺未遂をしたのですね。その方は、家族も、住んでいた家屋も無事でした。自殺未遂後、病院から出て、また同じ場所に住むわけにはいかないということで、ほかの親戚の家に預けられることになりました。この親戚の家で晩にはご飯をつくってもらうなど、そんな引きこもった生活をしていました。また、本人は、数年前に統合失調症ではないかと疑われたということでした。 夏に入る頃、その本人が何か変なことを言う、ご飯を食べないということで、また自殺未遂もしたから心配だということで、ご家族相談を受けて、本人のところに伺いました。行くまでの間、統合失調症で病院に掛かっていない、いかに入院して治療を受ける援助ができるかが勝負かなどと思いながら家に到着しました。
 本人とお会いすると、どうも現実的な検討ができていないんですね。どうやって生きたいかということを聞くと、「働く」とか、数十年引きこもっていて自分でご飯もつくらないのに、「一人暮らしできる」なんてことを言っていました。それがちょっと妄想なんじゃないかというふうに親戚は疑ってご相談でした。話を聴いていくと、実際は統合失調症の一症状であるような妄想ではありませんでした。現実味のない願望といいますでしょうか。ただ、数年前に統合失調症と病院で診断されているというので、診断をすることにも注意を向けながら話を聴きました。
 ところで、皆様にお聞きします。自殺未遂をした人が親戚の宅に入れられて、親戚と住むことになって、ご飯もつくらないその人に対して、ご家族が「入院させてほしい」という相談を私たちにしたわけです。精神科病院に入れたい、その願いのために私は行きました。そして、家に着く。本人に、皆さんでしたらどういうふうに話を聞くでしょうか。
 この人は、状態としては危ないですよね、ずっと引きこもっていて、ご飯もあまり食べていない。入院することで何か守れるかもしれないという思う前提でこの人の家に行ったとしたら、まず診断をすることを中心にしながら、どうやって病院に入るかの説得をすることに集中すると思います。医師であるが言うことに逆らったり、「現実」がわからないようなことを言ったりしたら、もしかしたら「やっぱり妄想だ」と思って統合失調症の診断をしてしまうかもしれません。現実が全然わかっていないということで。
 今日、いくつか覚えていただきたい言葉があります。「ストレングスモデル」というのを聞いたことございますでしょうか。「ストレングス」、ストレングスですね、強みとか長所という言葉であります。私たちは、「ストレングスモデル」というものをベースにその方とお会いしました。これは精神科医療の観点からの話ではなく、その人がどう生きたいかを見るための、聞くための考え方の一つであります。この人に、ストレングスモデルをもって話を聞きました。「どうしたいのか」「どう生きたいのか」と聞いていくわけです。 本人は、「いや、もう退屈でしょうがないよ、山奥だし、どうやって生きたらいいかわかんないし」と言いました。 「この前も大きく腕を切ってしまったけども、まだ死にたいとかいうことある?」と聞きます。この質問は病院に連れていくための前提です。希望を聞くとしても、死んでしまいたいという希望だけは聴いたとしても叶えたくはありません。「まあ、こんな生活してればね」と本人が言いました。まだ死ぬ可能性あるなって周りが緊張しました。
 そこで通常は、医療につなぐための説得に入るわけですが、ここではストレングスモデルを考えていくことにしました。本人の強みは何かを聞いていきます。本人の強みというと、どうも長所とか得意なところであり、ダメなところは見ないという考えになりがちですが、ストレングスで言う強みというのは、大分意味は違います。先ほどのご高齢者の強みとは何かを例にしますと、彼は『通行人からたばこをもらいまくって苦情を受ける』という問題行動があったわけですが、この問題行動を、強みとして見直します。それは、『通行人からたばこをもらえること』となります。すごいですよね。これ。長所や短所という言葉を使ってストレングスというものを考えると、よくわかんないことになります。長所は習字が得意なこと、よしそれを伸ばそうとか、そういうことを考えがちですが、そうではなく、本人の本当の特徴そのものをみていくこと、これが強みをみていくということになります。少し難しい部分かもしれませんが、つまり、本人の良し悪し関係なく、本人のそのまんまの力を欠点としての視点でみるのではなく、本人の強みは何だろうかという視点で見ていくということです。 さて、引きこもっている本人は、こんな現実検討力がなく、人に頼って生きているにもかかわらず、「こんな生活だからね」と言えたわけです。これがつまり、「こんな生活を変わりたい」と思えているストレングスのにおいがしてきます。変わりたいと思っていることがストレングスです。ストレングスを視点にして話を聴くと、なるほどと、わくわくしながら聞けるようになります。「この生活がちょっとつらいんですね」と。つらいと思っているストレングスがあります。「どういう生活をしたいのですか?」と聞くと、「いやね、人の目が気になるのよ」。 そんなことを言われて、一瞬統合失調症かなと思いましたが、よく聞いていくと、「隣に住んでいる親戚の人がうるさくて、いちいち干渉してくる。一緒に住んでいる親戚もいちいち干渉してくる。私は私のペースでやりたいのにご飯も勝手に出してくれる」というんですね。何て勝手な人だろうかと思いながらも、そういうことを言うわけです。
 じゃあ、「自分でご飯つくったらどうでしょう」なんていう話が出るわけですけど、「ご飯作ってもね、面倒で」と言うんですね。なんて、勝手な人だと心の中でも一瞬でも思ったら、話は終わってしまいます。あくまで、人生の主人公は本人であり、本人の見ている世界を大事にしていきます。「どういう生活したいのですか?」と聞くと、「仮設住宅に移りたい」と言うのです。親戚の家で、みんなでいて、ご飯も出てくる、安心した家なのに、本人は仮設住宅に移りたいと言うのです。引きこもっていたのに。「なぜですか?」と聞くと、「とにかく人の目が嫌なんだと、自分のペースで生きたいんだ」と言うわけです。さて、ここで、皆さんが支援者でしたら、どうしますでしょうか。
 以前に自殺未遂をし、精神科病院に無理にでも入れてほしいと家族から言われ、精神科医として入院させるという家族からの期待を受けてその人を訪問したわけです。それが、私が聞いた話はひとり暮らしをしたいという希望でした。多くの場合、この場合、ひとり暮らしをするためにはご飯もつくれなきゃいけないし、あなたはいろいろ人の目が気になってしんどいんだったら精神科に行ってちょっと考えたらいいんじゃないかとか、自殺未遂をした死にたいという気持ちもあるんだったら精神科で相談したらどうかなんていう話になるかもしれません。実際にそういわれた時もあって、本人は「精神科は絶対行かない」とかたくなに言われました。
 しかし、そのときに私たちは本人にこうして言ったわけであります。じゃあ、ひとり暮らしをするのならば、「ひとり暮らしはしたことはあるのか」と聞いたのですね。これがストレングスの質問の仕方です。本人がどのように生きてきたのか、これがストレングスであります。ストレングスはいいところを言うのではありません。『その人ができることは何か』であります。本人に「ひとり暮らししたことはあるのか」と聞いたら、「数十年年前にしたことある」と言っていました。数か月間だけでしたけれども、仕事にもついたそうです。数か月間仕事について、じゃあ、そのときにひとり暮らしをして「ご飯どうしていたのか」と聞くと、「買っていた」と言うのですね、コンビニで。仕事がうまく行かなかったのは、「会社で人間関係がうまくいかなくてだめだったんだ」と言っていました。そのときちょっと落ち込んで、それで地元に帰ってきたら仕事もなくて、家にいて、いる間にだんだん疲れてずっと引きこもるような生活になっていたということでした。もう一つのポイントは、この話を、誰も聞いたことがなかったということです。ストレングスの視点はとても大事です。
 ストレングスの視点で見ると、どうも人間関係がつらいと思う力もある、どうもひとり暮らしをした力もある、買い物に行くこともこの人はできるんだということがわかります。ストレングスだけを聞いても具体的ではありません。より具体的に言葉を掘り下げていく作業が必要です。そうして生き抜く戦略を考えていく。「仮設住宅に移ったらどういう生活をイメージしているのか」と聞くと、「ひとり暮らしもしたことがあるので近くにスーパーがあれば自分で買いに行ける、そこで食べる」と言ったのです。ここで人生の主人公は本人であることを決定的に守る態度をできるかどうかによって人生が変わる瞬間が生まれます。
 そこまで言ったその人に対し、精神科医森川は「ひとり暮らしできそうですね」と言いました。自殺未遂もし、引きこもる生活をしていた方との会話であったのですが、その場の会話は余りにも楽しい雰囲気で流れ、親戚の方もにこにことしておりました。自殺未遂をした統合失調症かもしれない数十年引きこもっていたその人が、ひとり暮らしを始める。
 条件として、こちらは何も手伝いをしない、自分で調べて仮設住宅に移る方法を見つけて、どこだったら住めるか選んで、それで行くのだったらいいんじゃないかと提案しました。「やってくれないんですか?」などと言っていましたが、絶対に、それはやってはダメです。自分の苦労は自分でするのです。苦労を奪ってはいけない。苦労は、人生の経験値となって、同じような困難にあったときに、自分でもう一度その方法で自分を助けることができる道標になります。そして、その人がやったことは『親戚の力を自らで借りて』ですね、自分でいろんな場所を見学して、ここなら住めるだろうと思って申し込みをしたんですね。親戚にやってもらったのではなく、親戚に手伝ってもらったのです。この言葉の違いを、ぜひ、今日は、理解してほしいのです。
 そのひとり暮らしが始まった20日後でした。すごくないですか!
 数十年、引きこもっていたんですよ!
 ここで、「人権」ということがきょうテーマでありますので、ひとつ考えていけるといいのかなと思うことがあります。
 家族の中で、親戚の中でその人がいて、自殺未遂もして、生きるのがしんどいと言っていた、そしてひとり暮らしをしたいと言っていたこの人に対して「ノー」と言ったのはなぜだったのか。「いいよ」と言って仮設住宅でひとり暮らしになったとき、地域の支援員さんや保健師さんたちが見守るわけです。家族の中で自殺をするのか、ひとり暮らしをして自殺をするのかの違いかもしれませんが、その決定権を奪う力がある私たちは、家族に押しつけたいという思いがもしかしたらあるかもしれません。
 東北でこれができたのは、支援員さんとこの話を事前にできたからでした。直感や感情だけで動くのではなく、正しい援助論、知識が必要で、その準備も丁寧に行わなければなりません。人一人を助けるということは、大変なことなのだと言うことでありますし、真摯に取り組むからこそ初めて、見えてくることがあるわけです。もちろん、事前に保健師さんたちとも話していました。そして、支援員人たちが今たくさん頑張ってくださっていたこともあって、地域で見守りましょうと決めることができたのです。感覚だけでなく戦略も必要だということです。家族に押しつけるのではなく、仮設住宅に行って、うまく行かなかったら地域で見守りましょう。今だったらいろんな人の目があるから、その目のあるところで人生の練習をしてもいいのではないかと周りが決めたということであります。国も、行政も、援助者も、できない理由を先に並べてしまう癖があります。予算が、人員がと。結局、できない理由を並べるのにたくさんの時間と労力を使います。それが無駄です。まずは、できるにはどうしたらいいのか、そこから話を始めると、予算も人員も、こころも楽になります。なにより、本人が、幸せになります。生き始めます。
 さて、その人がどうなったかというと、数日後、親戚からご連絡がありました。なんと、「ずっとご飯を食べていません」と言うんですね。なんといいますか、このときはさすがに焦りました。死んじゃったかなって思いました。私が、大丈夫と決定したのであります。あまりにも恐ろしくありましたが、私は平静さを装いながら、「ああ、そうですか」と言うしかありませんでした。「じゃあ、ちょっと行ってみます」と言って、その人が仮設住宅へ行きました。いや、これ新聞に変な形で載るかななんて、ドキドキしながらですね、その仮設住宅に行ってドアをトントンと強く。でも絶対出てこないのですね、真っ暗になっていて、あれ部屋にいるって聞いているのだけどいないなと。電気のメーターを見るとですね、余り動いてないのです、ほとんど動いていません。隣の人との差なんて確認しながら、動いてないな、どうしようかなと思いました。文字通りぐるぐる回りました。それで、裏側に回って窓をこっそりあけると、あいたんですよね。いやあ、もはや突入ということをしました。もう死んでしまうより、住居不法侵入のほうがいいやと思ったわけです。
 そして、開けて、そしたらそこにいたんですね、窓のそこに。白い毛布をかぶって、くの字で寝て、頭までかぶって寝ていました。死んでいるのかと思いましたが、「すいません」って話をして、何回か声かけると、ばっとあけて顔を見せてくれました。もう数日前よりさらにやせていて、ああと思って、そのときはしまったかなと思ったんですね。
 本人とここで話をしたところ、「いや、大丈夫です、いや全然大丈夫です」と、余り話をしてくれませんでした。とりあえず大丈夫だということではあったんですけれども、ご飯を食べてないその状況に対して、ここで私はまずそのとき本人を信じることを一瞬やめてしまったんです。やめたことによってどういう質問をしたかというと、「ちょっとしんどそうですね、病院行ったほうがいいんじゃないですか」って言ってしまいました。「ご飯食べられてないんですか」って言う問いには「はい」と言う。そしたら、「点滴とか受けに病院行きましょうか、付き添いましょうか」と言いました。本人は「いいです、そんなことはいいです」と言います。この一言が、本人が主人公ではないという援助者の誤りであります。ちょっと難しいかもしれませんが、この大きな違いを理解してもらえると、ものすごく変わります。
 それに気づくまでに少し時間がかかりましたが、少し時間がたって本人と、ああ、そうだ本人が主人公だというのを忘れていたと思い、本人にこういう質問をしました。「ところでこの間、どうやって生き延びたのですか」と。この質問の意味の深さをぜひ知っていただきたいと思います。この瞬間に本人は爆笑するんですね。本人が人生の主人公になった途端の質問でした。本人は大爆笑です。
 「そうなんですよ」って、何だろうとどきどきしながら聞きました。「いやね、最初、買い物に行ったんですけどね、歩いて20分たって、今まで外に出てなかったでしょう、だからふらふらしちゃったんですよね、買い物できなかったんです。そんなフラフラしているのを人に見られるのも嫌だし。気分もね」、いや、それは体力的に無理だと事前にわかっていたのでしたが、20分かけて歩く場所は、本人は引っ越す前はできると思っていたようでした。でも、絶対に、事前に「それは無理じゃない?」とは言いませんでした。大事なことは、やってみたいという動機と、実験と、失敗と、フィードバックと、新しい自分の助け方の発見です。で、どうしたのかと聞くと、本人は初日に水分だけは買っていたというわけです。ものすごく大事なポイントです。できないことを聞くのではなく、できていることを聞くのです。これがストレングスです。
 「どうやって生き延びていたんですか」と聞いて、「とりあえず水分とっていました」と言った。もう笑いながらです。こういう笑いながら言えるのが本当にすばらしいことかもしれません。「何とか水をとっていたんです、ちょっとオレンジジュースとかカロリーあるかな」と。「ああ、そうでしたか」と言って、「でも、おなかすかなかったですか」と聞くと、「いや、おなかすくと、すき過ぎると食べなくて済むんですよね」と言うのですね。そして再び大爆笑。この本人主人公性を持った質問です。「いや、大変ですね、身動きとれないんじゃないですか」って、「そうなんですよ」って。「電気とかつけないんですか、テレビとかは」って聞くと、「いや、実は私、人の、何かいろんな人にいろいろとやかく言われるのが嫌なのでひとり暮らしを始めようと思ったんですけれども、仮設住宅に行くと1日4回人が訪れてくるんですね」と言っていたのですね。4回訪れてくれるから、電気のメーターを回さない努力を本人はしたと言うのです。自分が不在であること、ここにだれも引っ越していませんよというのを、とにかく会いたくないからそうやったと言うのです。食べてないし、しんどいし、人と会うのも嫌ですし、1日4回もおせっかいで人がくるし、と。そのまま放っといたらそのまま死んでしまいますので、そんな話を聞く援助者が要るということではあります。地域で見守るというのは、本人ができると思ったことを実験する、想定される失敗のうち、どうにもならなそうなことを予め考えておいて、支える準備をしておく。
 そして親戚が後から来てくださって、その本人と「どうする、これから」と話をしていました。ここで点滴の話はしない、というのはご理解いただけましたでしょうか。どうしたらいいかねえと一緒に悩む。助言などは絶対にしない。そしたら、「いや、このふらふらするのが困っているんですよ」と本人は言いました。本人の世界を本人が見始めることを始めたら、援助者が、本人の苦労を奪わないことを始めたら、私たちが本人の世界T実感するわけであります。「ああ、そうですか」、まあ、確かに「水分だけだとカロリー足りないですよね」と聞いてみると、「カロリーどのくらいあれば何とかなりますか」という質問が来ました。専門家があれこれ言うのではなく、本人が専門家に意見を求めたわけです。主体がどちらにあるかということです。
 「そうですね、今の体重だと600ぐらいですかね、このヴィターインゼリー3本ですね」と、言いました。援助の時には絶対に『助言しない』と言うことがあります。それは、この形が必要だからです。カロリーの話をしたのだから助言じゃないのか?とは思わないでいてほしいのです。本人が、自分が生き抜くために必要な情報がほしいと思って、私に聞いてきたのです。主人公は、今も本人です。助言は、主人公が、援助者に変わったことを意味してしまいます。「1日3個ですね。ああ、それならいけるかなと、でも、ちょっと今固形物食べられる気がしないけれども水分だったらいけるな、ご飯だったらちょっとかんでみようかな」と。さらに、「でも、このふらつくのはタンパクが足りないためだと思うんですよね」と、本人が言いました。摂食障がいかなと専門家として思ったりもしましたが、本人が「タンパクが足らないからですかね」と言ったんですよね。摂食障がいの人は、タンパク質を嫌います。こういう最低限の医療知識は必要ではありますね。人を助けるのであるならば、気持ちだけではだめです。気持ちと知識。知識はなかなか難しいかもしれないから、チームを組んでいくのはいいですよね。こうして本人がどうしたかというと、「じゃあタンパクというとどういうのがあるんですかね」とか思うんですね。
 このときにまた一つ重要なお話があります。「答えは現場にしかない」ということであります。
 「現場」とは、「中央」とあえてここで書きます。私と本人がいる現場、しかし、この両者間には、グラデーションがあります。ちょっと遠いのですね。確かに現場に入るけれども、本当の現場は本人のこころの中であります。そこに届くのかどうか。「すべての答えは現場にしかない」のは当然であります。その現場で見えたもの、見たものを中央にする。
 この「現場」とは、場所ではなく、「人」であります。そして援助の話であるならば、この現場とはまさに「本人」であります。援助の基本原則、基本原則は極めて簡単ですし、だれでも知っていることであります。それを現実の中で使うのは難しい。その使い方の例です。
 最初にお話ししたご高齢者例で、その現場はどこかというと、診察室の中にも現場はもちろんありましたが、診察室では本人の一部しか見えていませんでした。「本人がいる場所」、そして「本人が困っている場所」が、それが本人の現場であります。そこに出かけていって本人と出会い、本人が見えている困りごとを一緒に聞き、考え、悩むこと、これが最近話題となっている『アウトリーチ』の本質であります。現場はどこか、その現場を徹底的に定義する、その定義した現場にたどりつくために考えること、これがアウトリーチです。
 「その現場にはグラデーションがある」という話をしました。本人、「タンパク質が足らないかもね」と言ったわけです。私は、本人が抱えている現場からはまだまだ遠いんですね。「そのタンパク質というとあれですかね、レトルトとか買って持ってきたほうがいいですかね、そうすると電子レンジ使いますか」なんて質問を私はします。しかし、本人は納得がいかないそうで、こちらが心配する焦りを我慢しなかったら、「レトルトぐらいやったらいいのにな、電子レンジは使い方わからないんですか」とか聞いちゃうんですけど、これをしたら終了です。で、「教えましょうか」などと言ってしまう。本人の自尊心は、ボロボロになるでしょう。すごい難しいことを言っているようですが、すごく本質的なことでもあります。何とか、この微妙なようで、大きすぎる違いを、今日はお伝えしたいのです。
 それでですね、そんな話になる前に本人に最も近かった親戚が言うのですよね。「あんたどうせソーセージでしょ」って。ウィンナーソーセージです、むいてそのまま食べられる。「ソーセージでしょ」と言ったのですね。そうすると本人は、「そう!」と満面の笑顔で言うんですよね。私なんかよりも圧倒的に親戚のほうが本人の現場に近かった。当然です。私と本人しか会ってなければ、レトルトの使い方を教え、本人はやっぱりできないなと思い、やっぱりひとり暮らし無理なんじゃないかって私が勝手に思っちゃったかもしれませんが、親戚が言ったおかげで、「あんたどうせそのまま食べられるやつでしょ」と言ったわけで、それがドンピシャ。
 こうしてそれから1週間ですね、お姉さんはヴィターインゼリーとウィンナーを何日間に1回届けるということをしました。 私が行っている場所は精神科病院のない場所でした。精神科病院がないし、ないその場所で死にたいと言った統合失調症の人がいて、統合失調症の人は3時間かけて病院に通い、隣の市の精神科病院は通いたくないという人がいて、もうとにかく遠くまで行く人たちがいる場所でした。
 初めて現地に入ったときは、精神科病院がないので、精神科病院をつくることが仕事かなと思っていました。しかし、現場でしばらく、3月末からずっと見させていただいて思ったことは、精神科病院がないことのすばらしさでした。保健師さんたちが自分で考え、勉強し、継続学習をし、一人一人とコミュニケーションをとって、本人が主人公であることを一生懸命守っていたのですね。その人に対して、足らない知識を──足らない知識なんてないかもしれませんが、私が持ってきたのは、「主人公はだれか」という話と、「ストレングスモデル」という話でした。この話をもって、その引きこもっていた人、本当にその日でした、その話をみんなで共有したその日に、「数日間食べてない」という情報が出て、そして動いたのです。
 そして、保健師さんが、「見守りましょう」って言ってくれたのですね。先ほど、「暗黙メタルール」という話をしました。家族の中で管理するのではなく、地域で本人がどう生きたいかを見守りましょうと、保健師さんがメタルールを変えてくれたのです。
 その4日後、連絡がありました。「本人、固形物を食べました」と。その10日後、連絡がありました。「いや、最近窓をふいているんですよ」と言うのですね!
 いかがでしょうか。ずっとこうやって縮こまっていた人が、電気をつけ、窓をつけ、テレビを見始め、買い物をし始めました。近くにローソンができたのも大きかったかもしれません。
 そして、それから1か月、2か月がたち、今ではあまり目立たない存在になっています。保健師さんにとっては、「いや元気なんですよね、最近あの人」というふうにですね。波は時々あるようですが、それも見守っていました。
 さて、お気づきのことかもしれませんが、この話はだれもができることであります。ここに精神科医療は何一つ入っていませんでした。ただ本人が主人公であるということを守ったという例です。このときに基本原則が重要だというお話をしていました。「主人公はだれか」、「その人が見えている世界は何か」、その人が見えている世界を見るためには、「現場は何か」を定義するということであります。そして、私たちの「暗黙のメタルールを変える」、暗黙のメタルールを変えていくとこんな奇跡が起こったということであります。
 実際、2例でありましたけれども、こんな奇跡がいくつも生まれています。すごいことが起こっているという実感を持ってくださった方は本当にありがとうございます。しかしながら、やったことはだれでもできることであります。ただ必要なことは、基本原則を徹底的に守る覚悟。ただし、実際動いたときに、ここでもう一つ必要な考えは、「すべての決定は未来のことである」ということであります。未来のことを現在決めるという恐ろしさであります。今絶対大丈夫だろうと思って、決定のための必要条件をいっぱい挙げて、ご飯が食べられることだろうと思って、自分で探せて自分が大丈夫だろうと思ったら行けるだろうと思って、その必要条件をいくつも設定しました。しかし、20分歩くことがなかなかしんどかったということや、一日4回も訪問者が来ることによって外に出られなくなるということは、もっと想定すればできたかもしれませんが、そのときはしていませんでした。未来に関する決定は現在行うことであります。その現在行うときに、戦略を立てることになります。そして、だいたい上手くいかないものだと思っておく準備が必要です。
 その戦略を立てるには経験値が必要かもしれません。私が38歳でしかないためにうまく戦略が立てられなかったかもしれません。人生の経験がより生きるかもしれません。それでも「未来のことを現在決める」という作業をするという覚悟が真摯であればある程、これだけのことが変わったわけです。引きこもっている方々の支援の中で、この形によって、かなり多くの人たちが大きく変わったりします。
 援助の基本原則に加え、自身の基本原則というのもあります。最近「憂欝でなければ、仕事じゃない」という本が出たりしています。未来のことを今決めるのであるし、だから失敗することが多いし、すごく難しいことを決めるのであるので憂鬱であるはずです。命にかかわるかもしれません。私という精神科医という権力のある人間が、患者の人生を決めるために管理、隔離するのは簡単です。そうではなく、本人に人生を返す、本人が苦労することを返す、本人の苦労を奪わない、本人が失敗することをオーケーだとする覚悟を決めたときに、仕事は極めて憂うつになります。隔離室に入れて、薬を大量に投薬すれば本人は問題を起こすこともできなくなります。そして弱っていく。そのまま亡くなった時には、援助者は「しょうがなかったよね」と言えばいいわけであります。
 ところが、今日この話をみなさまは知りました。しんどい作業をする方法があって、大きく人が助かる方法がある。人権を、しっかりと守る方法がある。そして、人はこんなに変わる。そのしんどさを少し楽にする方法が、支援の基本原則であります。
 まず私たち援助側は、心にブレない芯を持つということであります。芯があれば、さまざまなことに対して応用がきく、そんな「安心してぶれる」なんていうふうにレジュメには書きましたが、芯があるゆえに、安心してブレることができます。この芯が基本原則を守るということであります。基本原則を守る、あとはでも応用だ、その応用に対しては、今下手くそだから右往左往するかもしれない、しかしきっと上手になることがある。
 加えて、その行動や心についてです。自分が決定した行動、意思決定はすべて未来のことであります。決定とは、すなわち行動が必ず伴うことであります。何か起こる、未来が動くことです。未来が動く、その意思決定、行動や心とは。先ほどの例の引きこもっていた方が、家族の中で死ぬのを黙認するのか、私たちの責任で考え始めるのか。施設のご高齢者を隔離室に入れるのか、少し大変かもしれないけど、本人が住んでいるグループホームに出かけて本人の現実を見に行くのか。この2つの違いを今、選ぶわけであります。厳しい仕事かもしれませんが、人権とはそういうことなのかもしれません。本人に主人公を返すのであって、本人のせいにするということではありません。その決定や心は、自身に真摯かを問う、この2つの作業をする。そして、決定に責任を持つということであります。
 こんな人たちが被災地にいます。津波の時に、おばあちゃんとずっと逃げていました。逃げている途中で津波におばあちゃんがさらわれました。おばちゃんが転んだそうです。そして、「手を放した」というのですね。「離れた」んだと思います。しかし、「放した」と本人は言っていました。私は何で生きていたらいいのかと言った人たちがいました。個人情報を隠した形でご紹介していきます。
 「私を探しに行ったって聞きました。私が生きていたからあの人たちは死んだんです」と言っていました。「家族を全部失ったんです」と言っていたご高齢の方もいました。「家族を全部失って、たった一人ぼっちになった」と言っています。親戚とは余あまり仲がよくはなかったそうです。しかし、家族とは強い絆で結ばれていて、孫たちと囲まれて、日々、この年になっても働いていました。
 その人が一人ぼっちになったときに、こうおっしゃいました。「先生、ねえ、もう3か月経つんです。3か月経つからね、忘れなきゃいけないんだと思うんですよ。子供たち、孫たちが死んで、忘れなきゃいけないし頑張らなきゃいけないと思うんですよ。思うんですけど、涙が出るんですよ。先生、私だめですね」と言うのです。一人ぼっちになって3か月たって、周りは頑張れ頑張れと言う。「しんどい」とは、周りの人もしんどいわけだから言えない。その人の中にあるからこそ、外から入っていく支援者はその人の声を聞くことができると言う場合がありました。隠さないでよい時間になりました。その人が3か月、本当はもっと前からしんどかったようですが、その人が相談に来てくださったのです。そしてこういうふうにおっしゃいました。
 「グリーフケア」という話ではありますが、援助の基本原則を守ることは変りません。本人が主人公であるということであります。「先生、私どうして生きなきゃないの」と聞かれました。専門家にその質問をしたその人の気持ち、さまざまな想像ができるかもしれません。
 その「どうして生きなきゃないの」と聞いたのは、その人が1時間を話し続けた後でした。私がしている作業は「傾聴」という作業でありましたが、「傾聴」とは「その人が見えている世界は何か」を真摯に聞くことであります。どのように現実が見えているのか、その人の話していた中で、本人と横座りになって、私は専門家ですと伝えた上で、紙の上で本人の言葉を図にしていきます。本人と話を聞きながら本人が見えている世界を描いているのですね。
 そうすると、どういうことが起こるかというと、本人が頭の中にイメージしていることが「言葉」になる。空間にあるものが「言葉」という次元に下りる、その次元を私は自分の空間に送るわけです。その空間に来たものを繰り返すことで、私はあなたの言ったことを正しく理解していますかという確認作業をします。それが、お互いが見える形で、話していることを紙の上で描くということです。だからもしかしたら私は新聞記者のように話を聞きます。たくさん質問はもちろん聞きません。10分ぐらい主人公が話をしていて言葉が少し途切れそうになったときに、「こういうことですか」と言葉を繰り返すだけです。こうして話を、本人の言っていることが紙に描かれ、私が理解したことが本人の考え、私が理解した中身は、あなたの話した気持ちと同じかと紙に描いて確認していくわけであります。新聞記者のようにと言ったのは、よい取材をする人の例があったので、それを思い出して言ってみました。たくさんの記者さんと話しましたが、いくらかの記者さんに話をすると、こころがほっとすることがあるのです。その人は、私に興味を本気で持っていてくれて、私が話したいことを聞いてくれていました。まるで傾聴という作業だとその時感じたのです。
 こうしてでき上がったその紙を本人が見て、私が見たときに、その人に何が言えるかであります。70歳代のその人に。家族すべて失ったその人が見えている現実がすべて紙になった途端、3か月たったのに悲しみがとまらないと言っていて、どうして生きなきゃならないのかと言っているその人の世界が紙にあらわれてそれを少しは正しく理解した時に、言葉は何も必要ありませんでした。
 そして本当に何て言ったのかは覚えていませんが、たしか「本当に大事な方だったのですね」と、たしか言ったのかなと思います。そのときの思った感情のままに、ぽろっと出た言葉でした。
 本人も一緒にその世界を時を重ねて見ています。頭の中でくしゃくしゃしたのが紙となって、その世界を見ていました。私の一言によって、本人は止まっていた涙がどっと出て、「そうよね、先生、まだ思っていていいのよね」って言ったのですね。私は、一言も、まだ3か月ですとは言ったのではありません。しかし、ご本人には、そう聞こえた。「3か月で忘れられるわけないのよね」と泣いていました。毎日毎日同じ場所で花を添えている方であります。今日も添えてきます。3か月たったから回復する、6か月たったから回復する、家があるから回復するのではなく、その人が見えている世界で悲しんでいてもいいのだと思う。「そのまんまがいいみたい」という言葉があります。
 「主人公がだれか」は、援助者がもちろん思うことでありますが、同時に、本人がそれを思い、本人が自分のペースで生きていくと感じ、本人が自分の見えている世界を感じていくことは、何かになります。家族の亡くなった人々のことを悲しみ続けてもいいんだろうねと思う。その悲しみ続けていた中で、自分が主人公だと分かった途端に、この悲しみ続けると決めて、そして、明日を生きるのはしんどいからと、明日を生きるために先生お薬ちょうだいと言いました。
 「しんどい」「死にたい」「眠れない」、「食欲がない」、「ああ、うつですね」と言うのはただの診察です。「いろいろ思い出したんです」、「ああ、フラッシュバックですね」「PTSDですね、このお薬効きますよ」、「いや、お薬飲みたくないんですよ」、「いや、この薬、ちょっと楽になるから、だまされたと思って飲んでみてください」。「そうですか」と本人は言って、本人は飲むか、隠すか、二度と目の前に来ないか、飲んでも楽にならないか、そして余計に自分はダメだと思うかがあるかもしれません。生きる理由がわからなくなっていった人が、「薬を飲むと楽になるよ」というふうに言われる、悲しみではなく「病気のせい」にされていく。薬を飲んだとしても、果たしてその人は回復するでしょうか。
 難治性うつ病なんて言葉が言われたりしますが、そんなものは薬で効かないうつ病の本質を薬のせいにしただけであるかもしれません。ある人はお薬ちょうだいとは言っても、抗うつ薬は飲まないと選択しました。とにかく毎日生きている世界の中で頑張っている時間があって、そのときに頑張ってももうどうにもならないときに、ふと楽になるという安定剤があるという情報が話の中で出てきます。安定剤をただ出すのではなく、どんな時に飲むとどうなるのかを期待して、安定剤を飲む。不安なんですと言われて、じゃあ、不安の時に安定剤を飲んでくださいという形は間違いです。不安なんですと言っていたら、不安なことで何が困るのかを聞く。言葉をどんどん掘り下げていきます。不安になると身動きが取れなくなる。家にいる時はいいのです。仕事をしているときは困るのです。みんなに迷惑をかけるから。そう言ったら、仕事の時の、どういうときに不安になるのですかとさらに具体的に掘り下げていく。いつ、どこで、どういうタイミングで、どのような効果を期待して、安定剤を使うのかが分かった時に、安定剤は本当に助けになります。これも、本人が主人公だということを守ることで初めて、見えてくることであります。
 80歳代の女性がいました。「私が生きていることが申しわけない」と言いながら生きていました。この人は、ずっと手をグッパ、グッパとやる運動をやっていました。「えらいですね、すごいですね、健康志向ですね」なんて笑いながら言っていたら、「いや、ねえ、息子たちに迷惑かけたくないのよ」なんて笑いながら言うんですね。そんな人が自死を選択してしまうかもしれません。
 さて、この「ストレングス」というテーマを、今度は社会全体で見たいと思います。個別の現象としてのお話を、今度は社会全体にし、ぜひ皆様の現場に、この言葉を落とし込めることができたならばいいなと思います。
 「私たちの国はどういう国であるか」ということであります。13年連続3万2,000人から4,000人の極めて狭い範囲で自死者がいるこの国において(現在14年連続)、さまざまな問題点が話し合われています。この問題点、何とかしなければならないのですが。社会は引き続き不安になっています。その私たちの国で今考えられているのは、この図のもう少し先のコミュニティーの再生というのが言われていると思います。さて、「コミュニティー」とはでは何でしょうか。コミュニティーとは、実はしっかりとした本質があります。何のためにコミュニティーをつくるのか、多くの場合直観的に、あったらいいだろうなと知っているからコミュニティーをつくったりしています。しかし、そのコミュニティーの本質を知っていると、コミュニティーのつくり方が上手になるそうであります。
 コミュニティーの本質とは何でしょうか。それは、変化をとめるものであります。不安でしょうがない、震災になった、落ちていく不安、孤立する不安、死んでいく不安、その人たちを見守る場所がほしい、それが死んでいくというマイナスに落ちていく変化であります。それをとめるためにコミュニティーが必要だと直感的に考えられています。だから、見守り型のコミュニティーがつくられています。自治会がつくられ、自治会長が生まれ、その人たちに監視してくださいという形のコミュニティーであります。そのコミュニティーは、その落ちていく変化をとめるためのものだというふうに知っているかどうかで未来がかわります。すべてのコミュニティーはいずれ陳腐化するということであります。いつか陳腐になっていく、そうしてどうにもならなくなっていく。コミュニティーそのものが安心をつくったけれども、実際はその先に、そのコミュニティーそのものが陳腐化して、かえって身動きを止めるように苦しみを生む出すということであります。
 それは歴史でもそのようでありました。私たちの国日本もそうであります。フランス、イギリスなどで何度も革命が起こったのも、コミュニティーができて、それが苦しくなって市民が立ち上がって、壊して、またコミュニティーができて、その繰り返しでありました。それを知ってコミュニティーをつくるかどうかが重要です。必ず陳腐化することを前提に、柔軟に変化できる形のコミュニティーを作ることができるのか。
 今、落ちていく変化をとめるためにつくったコミュニティーと、もう一つのコミュニティー、「復興」というコミュニティーがあります。「復興しましょう」「頑張ろう、岩手」「頑張ろう、東北」「頑張ろう」とみんなで言うコミュニティーです。「みんな」。 ストレングスという話をちょっと交えながら「みんな」という話をこれからしたいと思います。私たちの国はみんなの目が気になる国だというふうに言われています。確かにそうです。だから、失敗するのが怖いし、コミュニティーからはじかれると怖くて、生きられなくなって、そこの線との路線から外れることが怖くて、人の目を気にしながらこっそりと死んでいく。それは問題かもしれません。その良心からいくと、コミュニティーって何だろうかという問題が生まれてくるかもしれません。
 しかし、私たちは今日バツをマルに見るという方法を1時間半考えていくことができました。最初の老人ホームの方は、たばこをもらい、苦情をもらう×に注目するのではなく、人々のコミュニケーションをとって、たばこをゲットする力があるという、バツがマルになりました。数日間ご飯食べなかった人は人にご飯つくってもらわなきゃだめなんじゃなくて、数日間どうやって生き延びたんですかという、ご飯がない中でも生き延びる力があるという○でした。
 では、日本はどうでしょうか。まず悲しいことを先にお伝えすると、復興という力の中で、先ほどお伝えしたいくつかの、70歳代の方や中年の方が、みんなという枠の中から、みんな頑張っている中から、頑張れないという思いでみんなからぽろぽろと落ちていきます。孤立して、頑張っていない自分は迷惑になると思うわけであります。80歳代女性がそうやって頑張っていたのは、このみんなのコミュニティーの中で、真ん中じゃなくていいけれども、このぎりぎりの場所で迷惑にならないように生きていたいという思いでありました。これがどれだけ疲れることか。それがみんなからぽつんと外れた途端に、そのもとの場所に戻るのは苦しいことであります。
 みんなとつながる私たちの国、右を向けって言えばみんな向く、そんな国だと言われています。それはバツかもしれません。そして、だからコミュニティーつくろうと、落ちた人がコミュニティーと言っているかもしれません。そのバツをきょうマルにするとどうなるでしょうか。
 これは各場所で、皆様が活躍されている場所で、実はもう言われているかもしれません。「死にたい」と言ったらはじかれる、「死にたい」と言ったら精神科医につながって、社会から隔離される。しかし、×ではなく○としてみると、どうなるでしょうか。「死にたい」と言ったら人とつながれるという見え方が生まれます、私たちの国は「みんな」という思考がストレングスであります。みんなというのが×ではなく、それそのものは○なのであると考えていくわけです。一人一人を大事にする。おせっかい過ぎるかもしれませんが、大事にする国、おせっかい過ぎて、どっかに監視しちゃうのかもしれないし、世界で一番多い精神科病院をつくっているかもしれませんが、しかし、「みんな」というものをストレングスと思うかとしたら、私たちの仕事とは、人権を守る仕事とは、まずは本人が主人公であるということを大事にしつつ、「死にたい」と言ったら弾かれるのではなくて、弾かれたとしても他のみんなにつながって、人と出会えて、「死にたい」と安心して言える場所が生まれていくこと。そのつながった場所では他者から隔離されない。全員とじゃなくてもいいかもしれません、アルコール依存症の人は、断酒会などとつながることで酒をやめ続けられてきたという現実があるのと同じです。日本のストレングスという話でありました。
 最後になります。さて、では人権を守る、今日は厳しいお話でありますので、厳しい答えで、最後もやもやとした中で、しかしぜひ希望を持っていただくお話が最後にできたら幸いです。
 仕事をするのであれば、徹底した成果主義であってほしいというのは、かねてから言われているということであります。さまざまな著名な人々が、何かを達成した人々が大事にしているものは成果であります。成果主義よりもプロセスが大事だといわれたりしていますが、本当はどうでしょうか。
 プロセスとは何でしょうか。プロセスとは下手くそでいいのだと思いますであります。無様になってしまうものであると言いかえたいと思います。プロセスが大事だというのは、いかに上手にできるかとか、結果はいいんだよと言われることかもしれませんが、本当にそうでしょうか。ひとり暮らしできた、あの数十年引きこもっていた人のプロセスはどうでしたでしょうか。何をしたかというと、あの人に対して10年後、この人がどこでどのように生きているのかが私たちの成果とします。どう生きていくかを一緒に考えるのですね。だから、ひとり暮らしがオーケーになったのです。10年後家族の中で死んでしまうのか、外で生きているのか、外で死んでしまうか、それは明確にはなりません。すべては未来のことだからです。しかし、自分の希望をかなえていくのか、自分の人生を歩いているのかは大きな違いであります。言葉の定義の話をいくつか今日しました。言葉一つ一つを大事にしていく作業であります。成果主義であってほしいことについて。
 ある場所でですね報道がありました。マクドナルド──ヤフーニュースで載っていたのをそのまま借ります。「店員に成果主義を導入、失敗」と書いてありました。この「成果主義」という言葉が、使い方が、間違っていると今日は言いたいのです。言葉を正しく定義して使えているのかどうかであります。
 企業とは何でしたでしょうか。仕事とは何でしたでしょうか。それは人々が、地域の人々が求めたものであります。みんなが生きやすいために存在したものであります。その企業の最大の成果をここの記者さんは、またはこのプロジェクトを立てた人かはわかりませんが、少なくとも記者さんは、売上評価という点で失敗と書いていました。マクドナルドに行って、店員さんが一人のお客に対して1個でも多く売ることに集中してしまいます。売り上げが成果になる部分ですね。これもいかがですか、あれもいかがですか、それもいかがですかと言われれば、顧客としてはうっとうしいと思いますよね。マクドナルドそのものを嫌いになってしまうかもしれません。しかし、売り上げが成果だと思い込んでいましたので、そういう作業が多数ありました。これが成果主義の言葉の定義の間違ったものであります。
 マクドナルドはどうしたかったのか。その本当のところはわかりませんが、昔の本を読んだりすると、地域の人々一人一人がこれを食べておいしいと思ってほしい。だから子供たちが食べやすいものをつくったと書いてありました。それの賛否は別にして、しかし、マクドナルドは一人一人のおいしい、幸せだと思うことを成果にしたかったのだというのです。もしもそれが成果であると守り続けたならば、商品の数を売ることに集中するのではなく、座りやすい席をつくったりとか、そこにいると楽しい記憶がよみがえる席をつくったりとか、このマクドナルドはこれと一緒に飲むとよりおいしくなるよと書くか、そういうことに集中したかもしれません。この組み合わせは幸せ気分になれるんだと客が思えば買うのです。成果は幸せづくり、結果は売上です。成果の読み間違いであります。
 最初の老人ホームの人の成果は何でしょうか。70歳代でありました。その人が病院で問題行動が起こらないことが成果なのか、その人が人生を全うすることが成果なのか、成果とは何かを考えて、その成果とは何かを考えるためには、本当のニーズは何かを真剣に、真摯に探すことであります。この本当のニーズはどこで明らかにできるかというと現場でしかありません。その現場はどこかというと、本人であり、本人の中でも現場はさまざまであるということでありました。
 「震災」、「人権」、「精神医療」という3つの柱でお話をさせていただきました。すべてのものは基本原則に基づいてあるということであります。長い時間ありがとうございました。

(補足説明)
 こんな話を、「仕事の3つの価値」なんていうP・F・ドラッカーを読んでいる方はご存じかもしれません。仕事の3つの価値を考えていくと仕事がより明確になるとドラッカーは言っています。「直接の成果は何か」、「価値の創造は何か」、「継続学習は何か」であります。すべての仕事にこれを考えながら、私はやろうと決めています。
 今日のプレゼンであれば、直接の成果は90分、できるだけ一人でも寝ないで話を聞いてくれる話をしよう、これが直接の成果ですね。それなので、皆さんが興味のあることを話そうと思います。それなので、この直接の成果を得るために、最初にいつも聞きます。主催者の方に。皆さまは今日はどういう話を聞きたいのでしょうかねという質問をしました。これだけスライドがありましたが、今日使った枚数は数枚というのは、こういう意味でした。皆様が現場で知りたいと思うことを話すというのが、私の仕事です。
 2つ目、価値の創造であります。私が今日話したことによって、一人一人の中にすとんと落ち、そのものが現場で使えること、現場で使うことによって、今日出会った皆様が日本を幸せな国に変えてくれることをイメージしながら、今日の話を考えました。全然私は話が上手じゃないかもしれません。だから、ここまでできないかもしれませんが、私が今日のプレゼンで考えたのは、価値の創造は、すぐにでも誰でも使える方法を、事例を通しながら、そして基本原則だけを伝えて、その応用はぜひ皆さまの現場でしてくださいという思いで、私は話したということであります。
 5週間後、同じテーマで話したとしたら、私はきっと違う話をすると思います。これが継続学習であります。この3つを直接の成果、価値の創造、継続学習を常に仕事の中でできているといいのではないかということをドラッカーが言っているという話でした。
 継続学習は皆様にお伝えするために、ピーター・F・ドラッカー、「もしドラ」ですね、精神科医学の本を読もうかなって、もし今日迷った方がおられましたら、ぜひ読まないでください。あれは力のある権力者が、権威のある人が見た世界からのものであります。だから、分析をしたり、物をそこからの視点で見るにはとても役に立ちますが、あえてもし何か本を読まなきゃいけないのならば、対等の立場以上の相手、顧客がどう満足するかを徹底的に考え抜いたビジネス書ほどすばらしいものはないかもしれません。そして、それをさらに当事者視点で書いたのをご紹介します。それは「浦河べてるの家」であります。これはたくさん本があります。両方ともたくさんの本があります。この継続学習を皆さまにお伝えして、今日の話を終わりに致します。ありがとうございました。