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人権に関するデータベース

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研修講義資料

広島会場 講義8 平成24年10月19日(金)

「路上生活者への眼差しを考える―ひとさじの会の活動を通じて―」

著者
吉水岳彦
寄稿日(掲載日)
2013/02/18



 皆様、どうもこんにちは。今日は朝から一緒に授業を受けさせてもらっています。こうした場があることもこの場で初めて知りまして、本当にありがたい機会だなと思っております。今日はよろしくお願いいたします。
 今朝早くに初めて原爆ドームをお参りしてまいりました。ここで”いのち”を落とした多くの方々、東日本大震災で亡くなった方々、それから、これからお話しします路上で亡くなった方々のことを思って、まず一緒に1分間黙禱をしたいと思います。もしよろしければ一緒に目をつぶってお祈りしたいと思います。
 それでは、黙禱。
( 黙禱 )
 どうぞお直りください。ありがとうございます。
 それでは、早速、お話をさせていただきます。今、ご紹介にあずかりました社会慈業委員会ひとさじの会の事務局長を務めております吉水岳彦と申します。
 浅草というと皆さんご存じだと思うのですが、日ごろはそのすぐそばの「山谷」というところで活動しております。サンヤとは、「山」に「谷」と書きます。日本には3大寄せ場といいまして、日雇い労働の方々を寄せておく、労働力をプールする場所があり、実際にはもっと多く寄せ場はあるのですが、その大きなものとしてまず関西圏だと大阪の釜ケ崎、それから横浜の寿、そして、東京の山谷と言われます。私が生まれ育ったのはその山谷です。今、私どもの活動の拠点にもなっているお寺は、私が育った山谷のお寺です。今日お話ししますのは主に東京での活動を中心にお話を申し上げたいと思っております。
 まず、流れはこんなぐあいですね。路上生活の方々と私たちが何でかかわったのか。生活困窮者の支援団体の人たちとの出会い、お坊さんの炊き出し、施米支援について、共通する貧困と震災、“いのち”に向き合う際の大切な心、このようなことをお話ししていきたいなと思っています。
 私が生まれたところも育ったところも山谷です。よく子どものころはいろんな人にからわれました。ただそこで生まれたというだけのことです。子どもにとってはどうにもできないことなのですが、そこで育ったということで笑われることもあるのです。私は、中学・高校は別の地域に行きました。そうしましたら、ある古典の先生が「おまえ、台東区の清川なんだって」、「あそこはな、車を置いとくと5分でタイヤがなくなるところなんだ」というのを、私の友人たちがいる前で言われるということがありました。(清川というのは今の山谷のことです)何でそんなことを言うのだろうと思いましたし、子ども心に嫌な思いをしたなというのを記憶しています。大げさに言いたかったのだろうと大人になればわかるのですが、育ったところにはいろんな友達がいます。社会もあります。何でそんなことを言われなければいけないのだろうと思うのですね。別に僕を育ててくれた者がどんな者であれ育つのです。それが、私が非常に悪く育っていって誰かに危害を加えてということがあって、その原因育った環境に求める人はあるかもしれません。ですが、事件を起こすことも何もなく、ただそこで育ったということで、こんなことを言われるのは本当に嫌な話だなと思ったものです。
 それから、山谷という地域には、浅草寺があります。浅草寺では、日本3大祭りの1つである三社祭というお祭りが毎年にぎやかに行われています。その浅草寺の脇に何があるかといえば風俗街として有名な吉原があります。大人になりますと、今度は「おまえんち吉原の近くでいいな」と言われます。
 子どものときから本当にすぐ近くだったので友達の家が吉原の中にもありました。夕方4時、5時になって暗くなるころまで遊んでいて帰るころになると、たくさんのポン引きと言われるおじさんたちがいっぱいいました。彼らも今思うと大変な時代の中でその仕事につかざるを得なかったのかなとも思います。私たちが夕方遅くに前を通ると、そういうおじさんたちが「おい、坊主、風呂入っていくか」と言うのですが、とても恐ろしくて近寄れないと思ってみんなきゃあきゃあ言いながら逃げていったのを思い出します。
 また、子どものころのことでよく覚えているのは、小学校に行く途中たくさんのおじさんたちに会います。路上生活のおじさんたちです。もちろん日雇い労働の仕事があるときにはきちっと仕事をしているのだと思うのですが、仕事がないときにはお酒を飲んで路上で寝ているのです。何でこの人たちは働かないのだろう、どうしてお風呂に入らないのだろう、そんなふうに思いました。小学校に行く登校班で冬に学校まで行く途中、いろは商店街という商店街があります。この商店街の中にはアーケードがあるので、たくさんのおじさんたちが今も寝ています。最近もいろは商店街だけで九十数名の方が寝ていました。私が子どもの時はもっともっと多くいたと思います。朝早く彼らは仕事に行くのですが、残っている人たちもいるのです。小学校に行く途中に、そこを通るとよく冬は救急車がきていました。「また救急車がいるな」と思って見ていると、おじさんが担架で運ばれていくのです。「あれは何だったのだろう」と子どもですからよくわかりませんでした。いつも見ている私の日常の風景でした。日常だったのであまり気にせずに通り過ぎていたのです。ですが、今思い返すと、あれは凍死したおじさんたちを救急車で運んでいたですね。
 そして、私の通った小学校は、吉原大門のすぐ近くにありました。本当に小さな小さな学校です。ですから、校庭も区の公園を間借りしてました。ですので、半分は学校が終わった後に遊びにいく公園で、フェンスを隔てて半分は学校の校庭なのです。体育の時間とか休憩時間になりますとみんなで校庭で遊びます。そうすると、公園側からおじさんたちが金網のフェンスにしがみついてこっちをじっと見ているのです。何だか気持ち悪いなって子どものころは思っていました。でも、大人になって思ったのです。あれはおじさんたちにもどこか家族がいて、そうした自分の大切な子どもが今どうしているのだろうか、そんなことを懐かしんでいたのではなかろうか。はたまた、自分がまだ幸せに暮らしていた子ども時代のことを思い返していたのではなかろうかなということを、後々思うようになりました。
 このように、子どものころからいろいろ見ても特別なこととは感じず、通り過ぎてきたのです。加えて、学校の先生や地域の大人たちからも、あのおじさんたちは怠けているからああなったのですよ、ああはならないようにしっかり勉強しなさいね。臭い、ほら、お風呂も入らないだろう、あの人は臭くて汚くてもわからないぐらいおかしな人なのよ。危険。何考えているかわからない、危ないから近寄っちゃだめよ、こんなふうに言われて私は育ちました。子どもですから素直にそのとおりに思ったのです。あの人たちは自分が仕事をしないから日ごろからあんなふうなのだろうな、あの人たちはちょっとどこかおかしいから臭いまま汚いままでいるのだろうな、あの人たちはもしかしたら悪いことをしてきた人なんじゃないだろうかな、そんなことを思ってずっと来たのです。そして、仏教の勉強するために大正大学という学校に入りました。それでもいつもおじさんたちがいるのは当たり前の風景だったので、別に何も気にしたことはありませんでした。
 ただ、ほかの地方から来ている友人たちと話をすると「いや、うちの近所にはそんなおじさんたちなんていないよ」って笑われるのですね、なぜなのだろうと。僕の子どものころは、小学校から帰ってきますと、お寺の玄関ががらがらとあきまして、中から知らないおじさんが、お寺のお供え物を持って出ていこうとしているのです。本当にビックリです。お墓の入り口に背中に入れ墨の入った酔っぱらったおじさんが倒れていたりすることもあります。怖くて近くの人を呼んで助けてもらうなど、いろいろありました。でも、一体、何でこの人たちはこんなことになっているのだろうか、全然考えもしなかったのです。
 ところが、きっかけというのがあるのですね。路上生活者に対する見方が変わったきっかけという話ですが、東京の新宿中央公園というところではかなり昔から炊き出しが行われています。そして、山谷の日雇い労働の方々も山谷で日雇い労働の仕事が少なくなってくる時期に、徐々に新宿へと移行していきました。その新宿で支援活動を行っているNPOもやいの代表理事から相談があったのです。路上にいるおじさんたちのお墓が欲しいのだという相談でした。最初相談されたときは何のことかよくわかりませんでした。おじさんたちが果たしてそんなものを必要とするのかさえわからなかったのです。現状もよくわからなかったので、まずは現状を知ろうと思って、炊き出しや、慰霊祭というものに参加するようになったのです。
 炊き出しは、毎週、新宿の中央公園で日曜日の夜に行われています。相談があってから、毎週、そこへ通うようになりました。一体本当におじさんたちはどういう暮らしをしているのだろうか、また、お墓は必要なのだろうか、毎週、毎週、通いました。いろんなおじさんたちに出会いました。ありがたいことに、私、この、衣ではありませんが、作務衣といって動きやすい格好があるのですが、作務衣で炊き出しに行くものですから、おじさんたちからすぐに覚えてもらいまして、おじさんたちから「おい、あんた坊さんなんだろう、おれさ、子どものころよく近所にあったお寺に行ってお菓子をもらったんだよね、あれが楽しみだったんだ」とか、「子どものころにお寺に行くときだけはじいさんばあさんが手を引いて連れてってくれて、帰りにいつもと違うおいしいところに連れてってくれたんだ」という話をしてくれるのです。ああ、なるほど、そういう思い出があるのだなと。当たり前なのです。当たり前なのですが、私たち同様、子ども時代にそういう思い出がある人たちなのだな、そんなことを素朴に感じた炊き出しでした。
 そして、何よりも私にとって強烈だったのは、この新宿夏祭りの慰霊祭でした。毎年8月15日、新宿の中央公園では前の年の夏から次の年の夏まで1年間に新宿区で亡くなった方々、身元のわからない方々全ての慰霊をするのです。新宿中央公園の夏祭りにはいろんな催しがあるのですが、その全ての始まる前に前夜祭として慰霊祭を行うのです。私が最初に行った年は、非常にお参りするのはつらかったです。新宿区からもらった資料をNPOさんたちから受け取って、おじさんたちの名前を読み上げようとすると、ほとんどの方の名前がないのです。新宿区榎町路上にて死亡とか、どこどこ病院に搬送され死亡、年齢がわかる人もあれば、わからなくても同じ路上の方で知っている人が「こいつは何やんだ」とか、何とかという名前をあだ名で覚えている方の場合はあだ名で書かれている。そうしたあだ名や、名前がわからなければ年齢や性別だけの方々のご回向をするのは、私は初めてでした。これだけたくさんの方が路上で亡くなっていっているのだなというのをすごく強く実感したのです。
 そして、これがその法要の写真なのですが、手前右側で黙祷としているのはNPOもやいの代表理事の稲葉剛さんです。奥にいらっしゃるのは、これは元路上生活者で今アパートに住んでいる方で、彼らの支援で路上からアパートに行かれた方です。それから、新宿区の福祉関係の方、それから、新宿区の保健師の方、その他たくさんの方がずらっと並んでいるのです。路上生活者の方ももちろんたくさん来ています。この年は仲間が5人来てくれまして、正面にある祭壇は全部そうした支援者たちの手づくりです。「無念追悼」と書いてあります。生前、ほとんどの方が写真や映像撮影を嫌がります。人それぞれさまざまな背景があります。そうした中で自分が見つかるとまた追っかけられるのではないか、自分が生きているのがわかると家族が迷惑するのではないか、そんな思いもあってみんな顔を出したがらないのです。しかし、それでも支援者の気心が知れてきて気を許して写真を撮らせてもらって、そんな写真がそこに張られているのです。本当にこのとおりずらっとおじさんたちが並んでいます。
 法要を始めましてお焼香をいたします。この年は400人近くの方が、ちょうどリーマンショックの後だったこともあって、たくさんの方々が法要に集まっていました。年齢もさまざまです。私、大変ショックだったのは、このおじさんたちが一人一人お焼香していくのですが、ある人は、何とかよ、何とかよ、と名前を呼びながら「おまえ、あれほど気をつけろって言ったじゃないか、どうして先に死んだんだ」って泣き崩れるのです。ある人は涙を流して肩を震わせながら言葉にならない言葉で何かをつぶやいているという方もおりました。そうした参列がずっと続くのです。私は葬式など誰かが亡くなるころに立ち会う仕事です。でも、その中さまざまな人に会いましたが、当たり前のことですが、ここで初めて、人の死を悼む気持ちにお金のあるなしだったりとか、屋根のあるなしだったりとか、そんなことは関係ないのではないかと実感したのです。まして、ここに集う人たちの人生の背景は私たちにわかりません。路上で生活しようとも、それぞれに自分たちのコミュニティもありますし、自分の親しい人もいて、その人を失うことのつらさに何の違いもありません。当然のことなのです。そんな当たり前のことを実感させられたのがこの追悼法要だったのです。
 しかし彼らの葬送の現実は厳しいものです。ご存じの方もいるかもしれませんが、「無縁社会」というNHKの番組ができてから一時期クローズアップされました。どんな最期を迎えるのかというのは、本当に地域によっても違いますし、たまたまご縁があって支援にかかわる人に会わない限りは、手厚く葬られることはないのだと思います。生活困窮の方々の葬送の現状です。まず等級にもよるのですが、生活保護を受けている方と同じように路上で亡くなった場合、行旅死亡人と扱われ、東京の場合だと19万9,000円という葬祭補助というお金が出ます。その中で葬送が営まれるようになるのですが、これに関して福祉葬祭さんなどか力を貸してくれ葬送が行われます。そんなことは私が言うよりももっと皆様のほうがご存じのことかもしれません。ですが、その葬祭補助費の中にどんなものが含まれているかというと、本来は位牌のお金や読経のお金、それから、火葬、遺体の搬送、ドライアイスのお金、ひつぎのお金などが計算されて19万9,000円という金額になっています。ところが、実際には位牌のお金もありません。読経も行われません。火葬というのは炉があいているときに機械的に焼却されるといったら正しいような気がします。そのようなぐあいです。
 ご遺体の保管も、、これはもちろん心ある葬祭関係の方に当たればちゃんとしていただけるのだろうと思いますが、業者によってお棺の扱いもさまざまです。私にこの話をもやいの方々がなぜ持ってきたのかというと、実はこの辺からなのですね。もちろんお墓が欲しいというのは大事なことなのですが、その前の段階からこんなことがあっていいのかという、そういう事例に出会って相談に来たのです。 路上生活をしていた方でアパート暮らしに戻った男性がおりました。その方はアパート暮らしに戻った後も、NPOもやいのやっているサロンに来て、週に一遍は顔を出してほかの仲間とにこやかに話をされる方だったそうです。体に不自由があったので、福祉の方に定期的に往診に来てもらっていたのですが、ある日亡くなって、誰にも知らされずに火葬に回されるということになりました。
 ところが、その方のケアに入っていた福祉関係の方が、この人は生前にNPOもやいさんのサロンに通っていたから、もやいさんにもこれはぜひ知らせたほうがいいだろうと思ってもやいさんに知らせたのです。それで「よかった、どうにかお参りができる」といってみんな花束を持って言われた火葬場に行ったのです。ところが、言われた火葬場に行っても彼の遺体がないのです。亡くなったと言われていた方の遺体がないのです。どこを探してもないのです。探して、探して、探して、探してようやく見つかったのですが、火葬場の中でもペット斎場の中の倉庫の中にぽんと置いてあったそうなのですね。要は炉が空くまでの間、置く場所がないということでそこにぽんと置いてあったそうで、みんな支援者の方は泣きましたよ。路上からアパートに移って、それでほかの仲間とも親しく過ごしてきた彼が、ただお金がないというだけで、彼の場合はもう路上でもないのです。その彼が、お金がないというだけでどうしてこんな扱いを受けなければいけないのか、悲しくて悲しくて、悔しくて悔しくて涙が出てとまらなかったと言っていました。
 その後も結局みんなで火葬に行ったのですが、これは火葬場の事情というのもわからないことはないですが、「はい、空いたから来て」というので棺が運ばれていって、「はい、もうほとんど時間ありませんからね、早くお願いしますね」と業務的に声をかけられて、それでさっと炉の中に入れられて、それでもう終わりだったわけです。果たしてこれが人を送るということでいいのだろうか。人間の尊厳というのは一体どこにあるのだろうか、そんなことを彼らは考えたのです。1人の人間が亡くなるということは、それはそれだけで大きなことです。高齢の生活保護受給者のなかには「どうせ自分なんか見てくれる人がいないから」、「どうせ無縁さんになるだけだから」とおっしゃる方もおられます。路上の方の中には、「自分が死んだって野たれ死にで、誰も来やしねえんだから、どうしたって構わないだろう」とおっしゃる人もおります。みんな言葉とは裏腹に、自分が死ぬときに誰にも手を合わせてもらえず、自分という存在が全く消えてしまうということに対する不安を漠然とみんな抱えているのです。
 私たち僧侶が本当はもっとしっかりしなきゃいけないと思っているのは、1人の死者を基軸として集まり、強いご縁やつながりを実感する場というのは、葬送や法事などの慰霊行為などの場なのではないかなということを理解して行うことです。自分が死を迎えたときに誰も来ないということは、自分自身の存在意義にかかわることなのです。彼らが言う「どうせ」という言葉の裏には本当は誰かに最後を見てほしい。別に見てもらわなくても、最後会えなかったとしても、死んだ後、誰かがつながっていてほしい、そんな思いがあるのです。自分の存在意義が見出せなくなることというのはすごく怖いことで、それによって人生の諦めもあるのです。どうせ自分なんか誰ともつながっていない、俺なんか何をしたって平気だ、万引きをしたって、悪いことをしたって何をしたって平気なんだ。これは問題だと思うのですが、生活困窮状態になってあらゆる縁を切っていく中で、犯罪に手を染めていくような人たちもあります。彼らは悪いことをしたいのではなく、自暴自棄なのです。社会的な自殺なのではないかと思うぐらいに、「どうせ自分なんか誰も見てやしない」という、そんな気持ちから自分の残りの人生を投げ出してしまう人もいます。このような現実を知るにつれ、人の死を悼む場所における人間の尊厳というのは、非常に重要なことだと改めて考えさせられるのです。
 お手元の資料をごらんください。以前「東京ホームレス」という映画を新宿の支縁者たちがかかわってつくりました。そのパンフレットに私もコラムを書かせてもらいました。そのときの文章です。全部は読みません。このお墓のこともたくさんの人を路上からアパートにといって活動している団体の依頼だったため、どれだけ巨大なものをつくればいいかわからず、さんざん考えることになりました。結局、どんな形であれ、まずつくることから始めることになりました。その会議の中の一コマがこのコラムに書いてある内容です。
 最初の会議のときに、元路上生活だった男性が語ったことが忘れられません。彼は幼くして父を失い、母や妹たちも5才の時から離れて暮らし、若い頃からいろんなところを転々としながら働きました。彼は真面目に定年まで働きました。定年まで働いて、さあ、第二の人生と思っていたときに、信じていた友人たちに裏切られて、お金も失い、もうどうしていいかわからなくなった彼は、気がついたら路上をふらふら歩いていたそうです。しばらくの間、路上生活をしていく中で出会ったのがこのNPOの方々、路上生活から脱却してアパート生活に戻って、そして今はもうサロンに通って普通の男性です。
 その彼がこう言うのです。私が路上で生活するようになったときにありとあらゆる、縁を切ってしまった。本当は誰かとつながっていたいと願っているのに。NPOの人と出会うことで路上を脱し、多くの仲間たちと知り合うことが出来た。そして今、改めて親しい人たちを得ることができた。確かに死んだらどうだっていいという人もいっぱいいる。本当はそんなことをみんな望んでないんだ。口では強がりを言ってそういうふうに言うけれども、でも、本当は自分の死んだ後、誰かにお参りしてほしいと思うし、何よりもここで出会った仲間たちと死んだ後も会えるならば、僕たちはもっと残りの人生を一生懸命生きていけると思うんだって話してくださったのです。
 ああ、そういうことなのだなと、大切なことを教わったのです。たかがお墓かもしれません。しかし最期はお墓なのです。亡くなってしまうと、大事な人とこの世で会うことはもうできないのです。ですが、それでも会いにいって語れる場所があるとするならば、やはりそれはお墓なのです。そういった意味で、すごく重要なつながりの場所なのだということを私も知らされて、それで初めてつくったのが「結の墓」です。これは私のお寺の中にあいていた墓地、さらに墓石もたまたま古い墓石があったので、それを削り直してみんなで会議をして、何て名前をつけようかという話をした中で、人生の「終結」、最期ですね、それから、いろんな方々との縁を結ぶ、「結縁」の意味で結いという名前をつけて「結の墓」と名づけました。
 お墓ができた年の11月、既に亡くなっていて他のさまざまなお寺にばらばらに預けられていた遺骨を全て引き取りに歩いて、そして、その遺骨をこのお墓に改葬するとともに、私がおりますお寺で開眼法要を営みました。たくさんの方々、NPO関係者や、それから、元路上のおじさんたち、それから、今、路上で生活されている人も一緒にお参りに来ました。それからは毎年、こもれび荘というもやいのサロンでも必ずお盆のお経をあげていくことになりました。参列した人は親しかった人のことをうれしそうに話してくれます。ここにもたくさんの写真が写っていますが、彼らは一人一人のことを覚えていて大事そうに話をしてくれます。人が働くというのは数字で見ると「あ、これだけの人なのだな」と思うかもしれません。でも、一人一人ってすごく大きな存在です。言葉を発して毎日顔を合わせるというのはそれだけで重大なことなのです。その方々のことを送るということはどれだけ大事なことなのか。今日は人権を考えるということですが、1つの人権の起点になるものはそうした人間の尊厳ではないかなと思っています。
 人はそれぞれいろんな人生の背景を持っています。いろんなご縁があります。私の尊敬する中国の善導大師というお坊さんはこんなこと言いました。私たち人間の違いは、遇縁の相違にすぎないと。遇縁の相違、出会う縁の相違にすぎないのだと。どんな場所で生まれ、どんなものにかかわりを持っているか。それによってその人の人生は大きく変わってくる。当人が選ぶと選ばざるとにかかわらずいろいろな場面に会うことになります。親が早くして亡くならねばならないのはその人のせいではありません。先ほどの方は、父親を早くに亡くし、早いうちから仕事をしなければいけなかったのですが、これは全部が全部その人の責任とは言えません。また若くして大きな病気にかかって仕事ができなくなることもあります。これは果たしてその人の本当の責任なのでしょうか。自己責任ということが当たり前のように言われておりますが、生活が成り立たなくなることは、その人の人格が悪いとか、生き様に問題があるばかりではありません。
 多くの人がいろんな人生の背景がある中で選ばざるを得なくて路上に来ているのです。
 子どものころに、臭い、汚い、怖いって思っていたおじさんたちですが、ですが、こうしていろんな方々に出会って改めて気づいたのです。誰だって好き好んでお風呂に入らないわけじゃないのです。臭いのは嫌だしきれいにしたいのです。しかし、それができないからそうしているのです。夏場に炊き出しをするときに、たまにお風呂の券を配ったりします。そうするとみんなうれしそうに公衆浴場に行きます。お風呂入りたいのですよ、当たり前なのです。それから、仕事をなぜしないのか、怠けているわけではないのです。彼らは彼らのできる仕事をしているのです。彼らだって仕事はしたいのです。でも、彼らが就ける仕事で現金収入の仕事なんてほとんどないのです。段ボールを集めて換金するか、空き缶を集めて換金するぐらいしかできないのです。今、東京の墨田区では、条例で空き缶は私物ということで持ち出してはいけないと取り締まっています。彼らはどうやって食べていったらいいのでしょう。そもそも住所を失った時点で、どこの誰が彼らを雇ってくれるのでしょうか。年齢が若かろうと何であろうと住所がなければ誰も雇ってくれません。そんな彼らが現金収入得るためには必死になって段ボールを集めたり空き缶を集めたりするしかないのです。彼らのなかには朝の3時ぐらいから起きて、夜中のうちから走り回って缶や段ボールを集めて一生懸命仕事をしている人もいます。そんな中でやりくりしているのです。
 葬送の問題を通じて思ったのは、路上生活の方、生活困窮の方、生活保護を受けている方のなかで、一度全ての人間関係を失ってしまった方々が、新たに大切な仲間に手厚く葬られ死後も一緒にいられるという安心感は得るということは非常に重要なことだということです。私は坊さんなので極楽と書きましたが、キリスト者の方からすれば天国かもしれません。でも、実に機縁とかつながりというのは現生だけではないのです。亡くなった方も死んだからいなくなってしまうわけではないのです。死んだら全てなくなってしまうわけではないのです。大切な方を失ったことがある人はおわかりだと思いますが、死してもなお親しい人というのはいるのです。死んでもなお全くいなくなってしまったわけではなくてそばにいるのです。人はそうやって大切な人を感じて生きていくのです。そういうつながりはすごく重要でしょうし、自分自身が死を迎えることになったとしても、この人とずっとつながっていけるのだと思えることが、大きな心の支えにもなり得るのだということを、私は彼らの葬送支援の中で学ばせてもらったのです。
 今日配った資料の中で週刊誌の冊子の1ページをつけてあります。この写真にありますのは東京スカイツリーのところに重なって花火が打ち上がっている様子と、正月にデモ行進をしているところの様子、テントに住んでいる方のところにフェンスができている様子、そして、左下、墨田公園の桜橋というところでお経をあげている様子です。わかりづらいかもしれませんが、路上のおじさんたちの生活は大変なことになっています。
 渋谷区は最近、渋谷駅前を再開発しました。ヒカリエという新しい建物ができて、区もたくさんの人に来て欲しくて街を賑やかにしようとやっているのですが、その一方で渋谷区の路上生活者が全て排除されるということが今年6月起きました。新聞でも大々的に報じられましたが、渋谷区には路上生活者がいないと示したいのでしょう。路上生活者の為の炊き出しの場所から、彼らがご飯を食べる場所、唯一雨をしのいで寝ることができていた渋谷区役所の地下駐車場など、全面的に排除を行ったのですね。地下駐車場には施錠を行い、炊き出しをする場所の公園は封鎖されました。全部それは街の景観をよくするためだという名目です。しかし、何と渋谷区の区議会議員にも知らされていない工事がいきなり渋谷区役所主導で始められて追い出されたのです。これにはさすがにびっくりしました。行政がこんな強行的なことをするのかと驚きました。新しい建物が建ち賑やかになることは大事なことかもしれません。区の財政のためや地域財政のためにはもちろん景観が美しいことはいいことかもしれません。しかしそこから排除され生きる場所を失う人たちもいるのです。そして、それは渋谷区だけではありません。数年前になりますが、東京スカイツリーが、開業する7年も8年も前から、予定地になっていた墨田区では強制的な排除が行政によって行われていました。そして、スカイツリーが見える荒川区や江東区の公園などでも排除が行われています。これも強制排除です。もう出ていかなければ出ていかすぞということなのですね、力づくで出されるのです。
 隅田公園に、チュウさんというあだ名のおじさんがいました。とても気のやさしいおじさんで、路上で初めて来たような方、新しく路上生活になった方がいると面倒を見るような、そんなおじさんがいました。そのチュウさんが1回病気をしまして病院に入ったのです。病院に入った後、そうしたことで生活保護の受給というのはそういう医療にかかった時点で始まります。そのことで親族から見つかるというか、お兄さんが生きていて、そのお兄さんから声をかけられてちょっとうち寄らないかと言われて、お兄さんのところへちょっと顔を出したのです。でも、お兄さんのところにずっといるわけにもいかないから、またもとの自分の小屋がある場所へ戻ってきたのです。
 ところが、小屋があった場所にもとどおり小屋を建てようと思ったら、墨田区の職員さんからこう言われるのです、「あんた、1回ここ出たろう、1回出たんだからもう二度とここには寝てはならない」と。これは墨田区の側から彼ら路上生活者の方々に対して出されている一方的なルールです。一度ここを離れたらもう二度とここには寝させませんよというルールなのです。これを墨田区側から言われていたのです。ですが、倒れて病院に入れば仕方がないじゃないかとチュウさんは一生懸命弁明をしたのです。頭を地面にすりつけてお願いをしたそうです。でも、この職員さんはがんとして受けつけてくれなくて、「いいから出るんだ、出るんだ」という一点張りで結局彼は出されてしまったのです。
 その後、チュウさんはふらふらと公園を歩いていたのをその日に見たという人がおりましたが、行方知れずとなったのです。ちょうど山谷の夏祭りが行われた翌々日、チュウさんが隅田川で、水死体であがったという連絡がありました。この記事はそのときのものです。彼が飛び込んだのかどうか、自死だったかどうかはその場所を見ていないのでわかりません。しかしほかに理由がないのでおそらくそうなのかもしれない。また事故の可能性もないとは言えませんが、非常に疑問の残る死だったのです。
 世の中には住む場所もない、行く当てもない、本当はもちろん屋根があって普通に生活ができればいいのだけれども、そのようになれない、なかなかなることが難しい状態の方が多くおられます。行政が立ち退きさせたい思いや意図もわからなくはありません。東京スカイツリーができて街が賑やかになるのは地域に住んでいる私どももそれはいいことだなとは思いますが、一方その建設のために人の”いのち”が軽んじられていることは大きな問題であるとも思うのです。
 後日、仲間たちがわっと集まってみんなで葬儀をしました。隅田公園のチュウさんが小屋を建てていた場所にみんなで祭壇をつくって、ビニールシートを引いて、そこでお経をあげてくれって頼まれて、お経をここであげたのです。みんな朝から晩まで空き缶とか段ボール拾いで集めたお金で仲間の供養のためにお花を買い、仲間の供養のために来た人たちに振る舞うためのお酒や、食事なんかも全部用意していました。仏像までどこからか買ってきていたことにはびっくりしました。、そうしてみんなで集まって念仏回向したのがこの左下の写真です。
 きれいなものや新しいものができていくことは喜ばしいことです。ですが、そのことでこうした方々が”いのち”を失っていくこともあるのだということを、もしご存じでなければ知ってほしいと思います。そして、今日ここにいらっしゃっている方々は、これは東京のことなのだろうと思ってらっしゃるかもしれません。しかし、ここの路上で生活する方々のほとんどが東京出身の方ではありません。ほとんどはほかの地方から出てきている方々です。九州からも北海道からも岩手からもいろんなところから来ています。ほとんどがその地域の中で生活が難しくなって仕事を求めて東京へ来て、その後に路上に来ているということは対岸の火事ではありません。本当に大事なことはこうして路上に出てくる前の予防の段階なのです。本来はその地域の中で長く仕事を得て暮らしていくことが可能であるならば、それに越したことはないのです。また、彼らは戻ることができないということをよく口にします。東京での生活が困難になった時に、戻って生活を再建することが可能なのか、そのことを一緒に考えていくことができたらまた違う展開が生まれるのではないかなと思うのです。
 一応申し上げますが、本日私は、行政の悪口を言いいにきたわけではないのです、ただ現状を知ってほしいだけなのです。B4の大きな紙の何枚かのつづりをお渡しさせてもらいました。これも後でぜひ目を通してください。大人たちがそうやって路上のおじさんたちを排除しているのを見ているのは誰かといえば、その地域に住んでいる子どもたちなのです。恐ろしいことだと思いました。都市部でこうした行政による排除が進むと、路上のおじさんたちに対する子どもの襲撃事件が増えるのです。これは比例していて、私の関係する支援団体の方々の調べによると、行政の排除が進むことと子どもたちの襲撃事件は同時期に行われてくるとのことです。そして、東京スカイツリーが完成し、東京のスカイツリーが見える各地で追い出しが行われているところの近場で、子どもたちが路上生活者を襲うといった事件が多発しているのです。ひどい場合は、隅田公園というのは堤防がありまして、堤防の下の低いところに公園があるのですが、そこにテントを張っているおじさんたちめがけて堤防の上から自転車を放り投げて落としてみたり、寝ているおじさんの小屋にすごい勢いで、自転車でぶつかってみたり、蹴飛ばしたり、爆竹を投げ込んだり、火をつけようとしてみたりいろいろな事件が起こりました。下手をすれば中に住む人は死にますよ。
 毎週同じ時間に子どもたちが来ておじさんたちに石を投げている事件がありました。それで、山谷の支援者たちは子どもたちを見つけて写真を撮りました。それはしたくはなかったのですが、以前、どこの学生かがわかった時点で、学校にちゃんとした人権教育をするべきだと申し入れをした際、学校は、うちの学校にはそんな生徒はいません、どこかのほかの学生の間違いじゃないですか、といった対応をしました。写真を撮る前の出来事です。そこで、仕方なく写真を撮ったのです。そんな警察じみたことをしたくないのです。ところが、突っぱねて全然そういうことはしてはいませんし、うちの学生ではありませんと一点張り、生徒を信じたい気持ちがあるのは尊いことだと思うので、それはいいのです。しかしその後がよくないのです。こうしたことは警察の方に調べていただかなければ困るのです。学校側では調べかねますというのです。すぐ考えればわかることですが、学校の先生たちが先に人権教育をしていたならば未然に防げることかもしれないのに、それを警察に任せるというのはどういうことか。自分の教えている学生たちが路上生活者を襲撃しているのを警察によって発見された場合、事件の加害者として学生が捕まるということです。子どもたちを事件の加害者にする前にまずすることがあるだろうと、支援団体は学校側に話をしました。学生の写真を撮られた学校はようやく事実を認めて人権教育の授業、「ホームレス」問題に関する授業を受けてもらうことになったのです。他にも支援団体が人権教育―「ホームレス」問題に関する授業―の導入の申し入れをしている地域はほかにもあるのですが、皆さんなかなかしたがりません。
 これも皆さんにお伝えしておきたいと思うのですが、子どもたちは大人たちの姿をよく見ています。特に私が厄介だなと思ったのは、こうした襲撃を起こす子どもたちの背景もあるのです。学校の中でうまく行かないなど、子どもたち同士の人間関係があるのです。そうした中で疎外されやすい子どもたちや自分がなかなか受け入れられてないと感じている子どもたちが襲撃事件に向かうのです。要は大人たちに認められたい、そういう気持ちの中から子どもたちは大人の手伝いをするぐらいのつもりでそれをしている場合があるということです。どんな”いのち”であったとしても大事にしなければいけない、そんな当たり前のことを大人が身をもって示していないとどんなことになるのか。子どもに「生きていていい”いのち”」と「生きていてはいけない”いのち”」、そういうものを教えかねないということです。きれいなものや格好いいもの、すてきなもの、美しいものは生きていいものだけれども、しかし一旦けがをしたりとか、汚れたり汚いもの、美しくないものは存在してはいけないもの、なくてもいいもの、そんな恐ろしい二択を教えむことだけは避けなければならないと思うのです。
 そのB4の紙はぜひ後でお読みください。多くの支援団体が一番危惧しているのはそういったことです。子どもたちはまだまだ物を考えるには不十分なのかもしれません、いろいろな情報を得ながら大人になっていくのです。その中でやっぱり人権という軸はすごく重要なものだと思います。人というのは失敗することもあります、間違いを犯すこともあります。もちろん仕事がうまくいかなくなることもあります。リストラされることもあるでしょう、病気になることもあるでしょう。それで動けなくなったり、仕事ができなくて路上に放り出されたり、本人が選ぶ選ばないにかかわらずそうしてつらい思いをしている方に、さらに追い打ちをかけるようなことがあってはならないということです。いろんな背景があって路上に来ているのです。私たちは単純な思い込みでこの人は何か悪いことをしてきたのではないか、ろくでもない生き方をしてきたのではないかという先入観を持ちます。でも、そうではなくて、人権という、その人間の”いのち”そのものを尊重する心がなければなりません。思い込みはあります。それをできる限り少なくしていく教育が必要です。特にこの路上生活者の人権ということに関しては、人間の“いのち”そのものに対する尊重の心を育み、見た目の違和感からくる思い込みという偏見を減らすことが重要な課題なのではないかなと、私は路上の方々の葬送や、日ごろの炊き出しの中で感じます。
 私だって最初からそのようなことを考えていたわけではないのです。やっぱり出会ってみなければわからないのです。新宿でずーっと炊き出しに通っていたときに、あるおじさんに言われたのです。炊き出しをしれくれる人の中に、キリスト教の牧師さんはいるけれども、坊さんというのはいないんだよねって言われたのです。炊き出しをするお坊さんなんか見ないからなって言われて、じゃあ、やってみようかということで、私のお寺で炊き出しをしてみようと思い、それでいろいろな炊き出しを経験しました。池袋とか、新宿とか、釜ケ崎も見ましたし、いろんなところのものを見ました。山谷でもいろいろな団体を見ました。でも、その中で私たちにできることは何か、大事なことは何かと考えた結果始めたのがこの炊き出し夜回りです。1個1合、赤ちゃんの頭ぐらいある大きなお握りと医薬品を持って回ります。列をつくってもらって1か所で並んでもらってやる炊き出しというのではなくて、自分のほうからおじさんたちが寝ている寝床に行って配布して歩くという形式を考えたのです。炊き出しが地域の人々に反対されているような教会もありました。それはなぜかと聞いたら、そこに並んだときにごみが捨てられるとか、騒音に近いことが苦情でいっぱい上がってきてしまって続けづらくなっているというのです。近隣の住民には迷惑をかけない形式で、なおかつ私たちが重視したかったのは、列をなすいわゆる炊き出しに並べない体調の悪い人のもとへ自分たちのほうから歩いていこうと考えたのです。
 こんな小さなお寺です。小さなお寺の庭にテントを建てまして、炊飯器や何やら出してくるのですね。そうして、みんなでご飯を炊いて、手を消毒し、ビニールの手袋をちゃんと着けてサランラップにご飯を投入していく。その前にいろいろな味つけをするのですが、そしてサランラップを二重にして漏れないようにして成型をしてでき上がりです。できると写真左側のお坊さんが持っているみたいな大きい大きいおにぎりができます。これを200個ぐらいつくるのです。時期によっておじさんたちの人数も変わるので、それに合わせて量を考えています。一番多いときでも大体8釜だから24升ぐらいですかね、浅草の山谷地域を回るのです。いろんなボランティアさんがきています。お寺で、みんなでお茶を飲んだり、お菓子を食べたり、おにぎりをつくるところはとても楽しく和気あいあいとやっています。
 そして、ちょっとこの間に実は抜けているのですが、路上の亡くなった方々や、それから、東日本大震災で亡くなった方々のためにお寺でお経を上げ、念仏を申してから歩きます。おにぎりつくるのはものすごく楽しいのです。ですから、少し気持ちを静める意味でも手を合わせています。
 夜8時ごろから夜回りをするのですが、そこから参加の方々も合わさってたくさんの人でおにぎりを持って歩きます。浅草の商店街をこんなふうにたくさんのおにぎりが入っているかばんです。医薬品が入っているかばん、お茶や飴も持って歩きます。浅草というとにぎやかなイメージがあるかもしれませんが、夕方5時を過ぎますとちらほらと路上のおじさんたちも見えてきます。実は人混みの中を缶拾いをしながらずーっと日中歩いているのです。仕事をしているおじさんたちは屋台のお手伝いをするなどいろんなことで仕事をしています。私たちは気づかないうちにいろんなところでおじさんたちと会っているのです。
 そして、夜になると寝床をつくるのですが、人通りが少なくならないと彼らもおちおち寝られないのです。段ボールで部屋をつくります。彼らが一番怖いというのは雨の日に段ボールハウスに寝ていると、突然酔っぱらったサラリーマンなどに傘で突っつかれたりすることだそうです。本当に怖いことだと思います。狭くて痛い、そういう段ボールの中へ寝ている真っ暗の中で突然に襲われるのです。   おにぎりの配布の風景です。こうしておじさんたちと直接渡しながらいろんな会話をします。そして会話をしていく中でおじさんたちがいろんな話をしてくれるのです。先ほど言ったような懐かしい子ども時代の話から、自分の出身地の話、震災があったときには実は自分の実家は福島であるとか。ひどい差別を受けたという話もいっぱいあります。そういった意味でもやはり仕事を選べないという意味での人権問題も耳にします。おまえらはもうこれ以外の仕事には就けないんだからと、誰もが忌避するような仕事をさせられているというケースがあります。原発労働など、人権の問題として考えるべきことではないかなと思っています。
 これは施米支援といって、東日本大震災の起きる前からこれは進めていたプロジェクトです。お寺のお布施というのはお金ではなくてお米で持ってこられる地域も多く、そのお寺に備蓄しているお米などを集めて食に困っているところに行き渡るような支援があります。これを施米支援と私たちは言っているのですが、お寺が集めたお米をフードバンクというNPOさんたちに届けています。フードバンク関西やセカンドハーベスト・ジャパンなど、いろんな団体が今全国各地にできてきています。そうしたところに備蓄をお願いしています。これはお寺を通じた支援にもなります。備蓄したものが幸いにも使われなくて済んだ場合、予備を残して、それを、フードバンクさんを通じて食に困っているところに送る、そんなことをやっていたりもしています。
 こんな流れですね、災害用備蓄米購入、またはお寺にいただくお米、それがフードバンクさんを通じてDV被害者等のシェルターだったり、ひとさじの会を含む生活困窮者の支援団体や食に困るさまざまな団体、社会福祉関係施設、社会的養護の施設にも使用されます。なぜそんなことを施設に対してするのかというと、少し食費が浮けばほかのところにお金を回せるのです。社会的養護に関してはいろいろ問題があります。そこで生活する子ども達に少しでも必要な知識を得てもらい、生活の中で不自由がないことを願って、食を通じた支援を行っています。
 さて次は、共通する貧困と震災の問題ですね。私たちの団体は今もずーっと被災地の支援を続けています。経済的困窮と関係性の困窮と書きましたが、震災後すぐ早くから動いた団体の多くに貧困関係の支援をしている団体がたくさんあるのです。それはなぜかというと、先ほど講義を行われた北原先生もおっしゃっていましたが、もう突然ホームレス状態、ハウスレスの状態になるのです。家が流されて家族やいろんな方々とも死に別れ、いろんなところで支えとなるものを失っていく。そうしたときの支援方策というものを、元来、路上生活者の支援をしている団体というのは持っているのですね。それはなぜかというと、貧困問題というのは経済的な困窮と関係的な困窮の両方が相まったときに、本当の貧困に陥るのです。路上生活、屋根がない状態、ルーフレスの状態というのは本当に究極の路上生活なのです。
 ホームレスというとみんなそのルーフレスの状態しか思い浮かべてないかもしれませんが、本当はもうちょっと広義なものです。ルーフレスの状態が1つのホームレスの形かもしれません。でも、もう一つはハウスレスですね。自分の家でないところですね、安定的な住居ではなくて、リーマンショックのように何かが大きなことが起これば、派遣会社の寮や、日雇い労働者のための飯場など、屋根はあるけれども、いつ出されてもおかしくない、自分の家ではないのがハウスレスの状態です。そうした状態も広義のホームレスと言えるでしょう。さらにハウスレスの状態の典型がネットカフェ難民とか、そういったお金のあるときにはネットカフェに泊まるけれども、お金がなくなると路上で寝るという若い人たちもです。「ホームとは何か?」すごく親しい支援団体の方々は大体こう理解しています。心の置きどころとなるところ安心できる場所ですね。自分がここにいてもいいという居場所をホームと位置づけています。
 先ほど襲撃事件をしていた話をしましたが、その襲撃事件をしていた子どもたちも実は帰る家がなかったりします。家はあるのです。家はあるのですが、帰る家ではないのです。だから、本当は安心して家に帰りたいのだけれども、家には誰もいないし、いる場所ではないから彼らは家から外に出るのです。ある路上のおじさんは、子どもたちを心配してこう言います。「よっぽどあいつらのほうがつらいんじゃないか」と。つらい経験をしたからかもしれませんが、本当におじさんたちはやさしいなと思います。「ホームレス」というのは非常に広義なのだということを、本日お越しの皆様にはぜひご承知おきいただきたいなと思っています。
 そして、ここに書きましたが、貧困問題というのは本当に困ったときに受けとめてくれる人がいなかった、もしくはそういう人に頼れなかった、頼れる状態ではなかったということなのです。ホームレス状態に至るまでには人それぞれさまざまな経緯があります。しかしその共通性は経済的貧困ですね。もう物資、お金がない、仕事がない、どうしようっていったところに、「とりあえずうち帰ってこいよ」というところがあれば帰ったでしょう。でも、帰ったけれども「おまえ、いつまでいるんだよ」とプレッシャーがある時、本人だって仕事ができればいいのだけれども、仕事がなくてそこに居ざるを得ない。苦しくてまた家を出てしまう、場合によっては路上に行くということがあります。また、社会的養護の施設から出た後に仕事を見つけたけれども、それがうまくいかなかったりして、その後、次の仕事が見つからなければ路上に出る場合もあります。いろんな形で今、路上生活を余儀なくされる方が増えているのです。
 そして、今、生活困窮者支援団体がとても問題視しているのは、路上生活者が若年化してきているということです。ここに2冊本があります。今日お手元に配った「ビッグイシュー・ジャパン」という雑誌は海外でも有名な雑誌です。これは路上生活をしている人たちのための雑誌なのです。彼らしか販売してはいけない雑誌なのです。彼らが販売することで収入を得て、自立の基礎をつくるための雑誌なのです。でも、内容は普通の雑誌ですのでおもしろくなければいけません。ですから、非常に多岐にわたる内容が書かれています。この「ビッグイシュー・ジャパン」は、仕事づくりで路上生活の方々を応援する団体です。
 今日、会場の入口に置かせていただいているこれは、私たちの会が新宿区の高田馬場福祉作業所さんと提携して共同してつくったものです。「散華」といってお寺の法要でまく花なのですけれども、普通の人にもしおりとして使っていただけます。これは作業所の方々がつくる手すきの和紙に印刷をしてもらって、これをハスの花の花びらの形に切ってもらうのです。これが作業所の仕事づくりになるので、去年からひとさじの会で始めたものなのです。
 さらにこれはついこの間、10月6日に「ビッグイシュー・ジャパン」のサポートライブということで、彼らを応援するためのライブイベントを行った時の資料です。年配の方から、若い方までいっぱい来てもらって、「ホームレス」問題に関する座談会も開催しました。今年は「若者ホームレス」に注目し、「若者をホームレスにしないために」というテーマで、座談会を行いました。その時の資料です。
 これは今日お配りしませんでしたが、インターネットでダウンロードが可能なものなので、ぜひこれは帰ったらインターネットでダウンロードしください。プリントアウトして読んでください。これは「若者ホームレス白書」といいます。1号と2号が出ています。先ほどのホームレスの定義に関すること、それから、不安定な労働などによって安心できる生活環境を保持しにくい若者たちの現状、その他、若者がホームレス状態に陥る際の問題点などがわかり易く説明されています。貧困の問題というのは結構根深いものです。貧困家庭の中で非常に虐待のリスクが高いことなども、既に研究者によって指摘されています。虐待家庭から出たり、貧困で子どもが育てられないという理由で社会的養護の施設に入る。そうした子どもたちが社会的養護を出た後どうなるか。仕事にうまくつながらなかったりすれば、彼らもまた貧困の中に戻っていってしまう。そういう貧困の連鎖を断ち、彼らを守るために必要なことは何かを考えることも大事な私たちの課題でしょう。 この他にも青少年問題とかかわるのは、ニートや引きこもりと言われる青年たちが、親が亡くなると同時に路上に出てくるというケースです。私の知っているケースでは、父親と母親が離婚していて、子どもは引きこもりの状態だった。その子は、父親がリストラされたことによって、親子ともに生活保護を受けなければならなくなったのですが、父親との生活を拒否したことで、ばらばらに生活をしてもらうことになり、無理やり引きこもりじゃない状態になったということもありました。彼の場合幸運だったのは、生活困窮者支援の中の一環で仕事づくりの団体があって、そこに入ることができたので、いろんな苦い経験をしてきた路上のおじさんたちとともにゆるやかに仕事をする中で、徐々にコミュニケーションや仕事を覚えていっています。彼のようなケースばかりではなく、そのまま路上に一気に行くケースも今後増えるかもしれません。リストラされたサラリーマンに限らず、生活苦や人間関係の貧困が原因で自死に至るケースだってすごくたくさんあるのです。今、社会で取り沙汰されているさまざまな問題に関係し、いろんな問題が重層的に絡み合っているのがこの貧困や路上の問題なのです。
 
 この「若者ホームレス白書」に示されるような問題と、先ほどの襲撃事件の背景にある「生きていい”いのち”と生きていてはいけない”いのち”」という恐ろしい視点を大人が示してはいけないということ、そして、お金がない、身寄りがない方々の尊厳の問題、この3つだけでもぜひ忘れないでいただきたいなと思います。
 事は急を要するぐらいに一気に進んでいっています。本当に恐ろしいことです。若者ホームレスの問題に関して、最近、ひとさじの会にボランティアに来る、社会的養護の施設にいる子の話を聞いていて、私はぞっとしました。それは、、養護施設の出身の女の子のことです。どんな子かというと、養護施設を出て部屋を借りる。ところが、保証人の制度というのが曖昧なのです。養護施設を出た子の保証人には、地域によっては施設長もなることができるのですが、施設長の判断次第なのです。つまり、あの子はあんまり好きじゃないからって施設長が言ったら、施設長はその子の保証人にならなくてもいいのです。そうなると、その子は部屋を借りられません。仕事とともについている部屋を借りる、不安定就労を余儀なくされていく場合があるのです。
 そして、私が非常に嫌だったのは、保証人の提供は要らない、そのかわりに体を出せと、性的搾取を強要される女の子がいるということです。ぞっとしました。大家さんがそういうことをする。でも、その子はそれでも自分は大切にされていると感じることがあるというのです。そのように生活や心に不安を抱えているところにつけ込んだ行為をするのは本当に許せないと思うのですが、これが現実なのです。これも本当に大きな問題であろうと思います。お金や身寄りの有無によって、人間の価値は決まるのだろうか、本当に悲しくて仕方がありません。彼らが本当につらいって声を上げたときにどこが対応してくれるのか。複雑に絡み合った問題の中で1個1個の個別の問題の対応が必要なのかもしれません。そして、1つの問題に対応する際には、いろいろな問題が複雑に絡み合っているという認識が大切なのだと思います。これはうちの問題じゃないよって流してしまうのではなくて、まずそれを1回受け取るような、そういう対応と理解が社会的養護や貧困や路上の問題にかかわる人たちに必要なのではないかと思います。震災の問題に関しても同様に、本当につらい状態の人たちが、つらいという声を上げたくても上げられなかったりするのです。その声をまず一回聞く耳をつことや、声を上げやすいような環境や地域をつくるというのがこれからの課題だと思います。
 心の寄りどころ、安心できる家、ホームとなる場所、それは人間関係に求められることもあります。そういう大切なものを失って本当にホームレスになっていくのです。なかには路上生活を選ばず、自死される方もあります。それはその人が弱いからではありません。経済と関係性の2つの困窮は強い絶望を感じさせます。みずから死を選びたくて選んできた人なんていません。これも覚えておいてください。死にたくて死ぬ人なんていないのです、みんな死にたくないのです。ですが、それを選ばなければいけないぐらいつらいのです。それを選らばなければいけないぐらい、生きていく力がなくなるほどつらいのです。死ぬほうがよっぽど楽だと思うぐらいつらいのです。人間関係など、ホームとなるものはそれほどに重要なのです。路上生活や自死を選ばなくてはならなかったのは、その人が失敗をしたからかもしれない、その人の能力の及ばないことがあったからかもしれない。ですが、一生懸命に生きていることに変わりありません。そういう方々を追い詰めるような社会だけにはなってほしくないと思うのです。
 最後になります。「いのちに向き合う際に大切な心―恭敬の心―」と書きました。テキストの下のほうに「ひとさじの会の活動に参加した学生Aさんの感想」というのがあります。これは今読みませんので後でぜひ読んでください。そして、最後のページになりますが、いのちに向き合う際に大切な心、これで「クギョウ」と読みます。「恭」という字は身に敬うという字です。恭しいといいますね。恭しいというのは、礼をする、お礼の礼という字を2つ重ねた意味があります。すなわち、身で敬い、行動で敬うのが「恭」、そして、心で敬うのが「敬」です。身で敬い心で敬うことが「恭敬の心」です。
 路上生活の方の支援も引きこもりの青年たちの支援でも、被災地の子どもたちの支援でも何でもそうなのですが、私たちは、見た目で相手をすぐ判断します。この人はこういう人なんじゃないか、こういう性格の人なんじゃないか、こういう背景の人なんじゃないか、自分の今まで生きてきた人生の背景の中から一瞬にして計算をして、自分の中の経験値の中からこの人はこういう人だという判断をするのです。往々にしてこれは合っていることもあります。しかし全て正しいわけではないのです。これはあくまで臆測にすぎないのです。だからこそ大事なことは、自分はこの人のことをわかり切らないんだということです。
 私、さっきここに来てからずっと電話とかメールのやりとりをしていたのは、数日前に出会った路上の方です。その方の相談をこの4日間、ずっと話を聞いていたのですが、聞けば聞くほどわからなくなるくらいです。相手の想いに敏感であろうと思う一方で、真の共感なんかあり得ないだろうと私は思うのです。「共感」はきれいな言葉ですし、相手とできる限り同じような気持ちになろうとすることは大事なことです。しかし心底からこの人のことをわかり切るという意味では共感はできないと思っています。私は相手がわからないでいいと思うのです。わかり切ることなんてないのです。だからこそ、わからないからこそ相手の話をじっくりと聞かなければいけないのです。自分の臆測で判断するのではなくて、まずその本人がどんな思いなのか、どうして来ているのか、私たちに知り得ない背景があるのだということ、そういう心を持つということです。どんなに幼い人だとしても自分には知らない経験を、苦しみをもしかしたら持っているかもしれない。そう思って敬意をもって聞くのです。どのような人に対しても、人としての敬意を持ち、相手に接することが大切なのです。「この人に言ってもわからない」、「この人の話はわからない」と決めつけるのではなくて、この人はいろんな思いを抱えて今ここに来てくれているのだ、いらっしゃるのだと思って、そういう敬いの気持ちを持って接し、心からその人に向き合うということが非常に重要なことだろうと思うのです。この“いのち”への敬意をしっかりと持って接させていただくというような、そういう「恭敬の心」がこの路上の問題、人権の問題にかかわる上で重要なものなのではないかと思っております。
 すみません、ちょっと最後駆け足になりました。非常に雑駁なお話でしたが、何かあればご質問をお願いします。

【質問】  何のために路上生活者の支援をやっているのでしょうか。また、ボランティアの人も自分の時間を使って、お金も使って何のために活動へ参加するのでしょうか。
【吉水】  「何のためにやっているか」ですね、ありがとうございます。そうですね、一つには、私自身人としての学びを得るためただと思っています。また、私たちは最近、支援に援助の「援」という字を当てず、ご縁の「縁」を当てて「支縁」といっています。すなわち、問題をお互いっこのことだと考えているからです。相手のことを支えるようで、実はそれが、自分たちが生きていく社会を形づくることにもなります。自分が生きていたい社会をどのようにつくっていくことができるだろうか、そういう意味で活動しています。何のためにかと言われれば、一緒にこれから支え合えるご縁を紡いでいきたいためだと思います。