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人権に関するデータベース

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研修講義資料

京都会場 講義3 平成24年11月13日(火)

「加害者と被害者と傍観者と社会が問われているハンセン病問題」

著者
神 美知宏
寄稿日(掲載日)
2013/03/18

 皆さん、おはようございます。
 連日の勉強会が持たれておるようでありまして、法務省はじめ関係者の熱心なご努力に心から敬意を表したいと思います。
 今日はハンセン病問題を皆さん方の前でお話をする機会を与えられたことに大変感謝を申し上げたいと存じます。
 一口にハンセン病問題というふうに申し上げましても、既にご承知のことと思いますけども、日本でハンセン病対策が取り上げられましたのが1907(明治40)年、法律ができましたのが1909(明治42)年で、そのときから全国でハンセン病療養所が創設され始めまして、今では全国に13か所の国立ハンセン病療養所がございます。北は青森県の松丘、それから、宮城県、群馬県、東京、静岡、岡山、香川、そして、熊本、鹿児島、沖縄というふうに13か所に全国国立ハンセン病療養所がございます。
 一番患者が多く強制隔離されておりましたのが1960年代という記録がございます。この当時には全国の療養所に1万2,000人ぐらいのハンセン病患者が強制隔離されていたという記録が残されておりますが、療養所が歴史的な経過をたどっていきますと、これまで103年の日時を刻んでおるわけでありますけども、一番新しいデータを申し上げますと、厚生労働省の発表によりますと、今年7月30日現在で全国のハンセン病療養所に収容されております入所者数は2,096人に減少してしまいました。一時のことを思いますと、5分の1ぐらいに減ってしまったということになっております。しかも、ハンセン病にかかりました者たちは、強制隔離絶滅政策という国の政策が強行されたこともあって、病気が治るようになったのは1950年代の末からでありますが、病気が治った後も全く国の政策は変えられることがなくて、ハンセン病療養所の中でみんな年老いていき、そして、亡くなっていきました。化学療法の進歩によってこれまで療養所から、法律の改正等もありまして、社会復帰をしていった者が、自己退所ということも含めてでありますけれども、厚生労働省においてすら開設以来何名の者が療養所から出ていったか明らかではないということでありまして、今現在は病気が治って社会復帰をして苦労している者が1,400人ぐらいいると、これは厚生労働省の統計資料に残っております。一方、療養所で年老いてしまって、社会復帰、ふるさとに帰ることもできないまま人生の晩年を迎えております人数が2,096人ですが、平均年齢が今年5月1日現在で82.1歳ということになっておりまして、文字どおり超高齢者の施設ということが言えようかと思うのです。ちなみに療養所の中で生活を余儀なくしている者の年齢構成を調べてみると、80歳以上の者が66.3%、2,096人の中の比率が66.3%。それから、70歳以上の者、これは80歳以上の者も含まれておりますが、94%に達しております。
 こういうことでありまして、今療養所にいる者はほんとうに年をとってしまって、いわゆるじいちゃん、ばあちゃんになってしまって、これからの人生をどう生きればいいのだということが療養所の中で話題になっています。3人集まれば、自分の合併症のこと、療養所の今後はどうなるのだろうかということ、あるいは、それぞれふるさとに帰ることもできないまま、そのまま療養所で人生を終えなければならなくなるということをお互いに自覚した上で日常的にそういう会話が交わされておりまして、人間70半ばも過ぎてまいりますと、死に支度を始めるものです。それぞれこのごろ療養所の中で話題になっているのは、ふるさとを離れて50年、60年、70年という年月を過ごされた方がほとんどでありまして、平均在所年数、療養所に隔離されてから何年が経過しているかを調べてみると、平均でも60年を既に越えておるということも明らかになりました。
 80にもなりますと、あと何年生きられるだろうかということが話題になるし、そういう思いがそれぞれの胸に去来をするわけで、せめて療養所で人生を終える前に一度でもいいから自分たちが幼くして育ったふるさとを見てみたい、あの山や川がどのように変わっただろうか、そして、先祖の墓参りも、療養所に入ってから外出が許されなかったので、一度もしていないのだけれども、せめて死ぬ前に先祖の墓参りぐらいしたいと、こういう願いがよく療養所の中で語られております。
 ハンセン病そのものは全員1960年代から治ってしまっているんです。これは化学療法の進歩によるものでありますけれども、1960年代からみんなハンセン病治ってしまっているのに療養所から出すということを、社会復帰を許可するということを国は全く考えてこなかった。ここに取り返しのつかない決定的な大きな問題があることをご承知いただかなければなりません。
 ハンセン病は回復したといっても、皆さん方と同じように高齢になればさまざまな病気にかかります。成人病と言われている糖尿病、脳溢血、心臓病、こういう病気でほとんどの方が今療養所の中でお亡くなりになっておりまして、厚生労働省の統計によりますと、毎年150人前後の方が療養所で人生に幕をおろしています。1960年から病気は治っているのに、ついにふるさとの家族とも会うこともなく、ふるさとの様子も見ることもなく療養所で亡くなっているというのが現状であります。これまでハンセン病療養所で亡くなっていかれた方が、約103年の歴史の中で何名の方が亡くなっているかも知られていません。その数字は2万5,572人、これは昨年の12月末現在の数字です。2万5,572人。
 そして、亡くなった方の遺骨はどうしているか。ふるさとの墓地に埋葬されたものはごくわずかでありまして、それ以外の方々の遺骨は療養所の中にそれぞれつくられている納骨堂の中で合祀をされています。パーセンテージにいたしまして亡くなった方の63.2%の遺骨が骨になっても療養所の中の納骨堂に、隔離をされた状況にあるというふうに私どもは言っております。国立ハンセン病療養所といえば、少なくとも療養所というからには、そこは病気の治療を主体とした医療機関であるはずなのに、実態は全くそれとは無縁であるかのごとく、療養所の中に火葬場があり、納骨堂があり、それに監禁室まで用意をされている。刑務所に近い収容所というのがこれまでの療養所の実態ではなかったかと思います。
 なぜ収容所、監禁室が療養所の中につくられているのか。治っても療養所から出してもらえない人間にとって、ややもすると自暴自棄にもなることがありますし、管理者の弾圧に強く抵抗して自己主張する人たちも少なくなかったということが記録をされておりまして、管理者の言うことを聞かなければ、すぐ監禁室に監禁をして鍵をかけてしまう。それを1つの見せしめにして、管理者の弾圧に従わなければならない環境を国立療養所という施設の中でこれまでにつくってこられた。今なお療養所の中には火葬場の跡があるし、監禁室の跡が残されています。
 ハンセン病とは生涯強制隔離をしなければならなかった、そういう病気であったのか。ずっとこの問題が問われ続けてきました。しかし、医学的には全くその根拠が最後まで示されることはありませんでした。
 私が療養所に入りましてから61年になります。九州、福岡に生まれまして、17歳の高校生のときに発病して、何の病気かわからなかった。福岡県の大学病院、県立、市立というふうに公的医療機関全てを回ったけども、何の皮膚疾患かわからない。そこで、すぐ近くに年老いた開業医の方がおられまして、「ひょっとすれば、あなたの息子さんは、昔はらい病と言われたけども、ハンセン病の初期症状かもしれない。そうであるとすれば、早期治療をしなければ大変なことになるよ」というアドバイスをいただいて、療養所に行くしか治療の手だてがないというのが長年にわたる日本のハンセン病対策の実態でありました。だから、ハンセン病になった者は、治療を受けたければ、好むと好まざるとにかかわらず、療養所に行くしかなかった。そういうふうに政策的にしむけられていたわけです。そして、一旦療養所に入れば絶対に外に出さない、治ったとしても外に出さない。そういう強制隔離絶滅政策がとられていたのですね。
 治療を受けたい一心でわたくしは母親に連れられて17歳のときにハンセン病療養所に参りました。それも福岡県から遠い香川県の瀬戸内海にある小さな島の中にある大島青松園を目指してうちを出ました。九州には熊本、鹿児島、奄美大島等に療養所があるということは調べてわかっていたのですが、もしそうであったとすれば、近くの療養所であればあるほど子どもの病気が世間に知れ渡るかもしれん。そうすると、昔は村八分という言葉がありましたが、誰もおつき合いをしてくれなくなる、社会的な差別を受ける。そういうことを私の家族は恐れていたために四国の療養所に行ってみようということで出かけました。桟橋を上がって医局に連れていかれ、10分もしないうちに裸にされて診察が行われて、「これは間違いなくハンセン病の初期症状である」という確定診断を初めて受けました。「今では化学療法も進歩して、特効薬プロミン治療が全て行われているので、あなたもこの療養所で治療すれば必ずよくなる」という主治医の説明も受けて、そのときには希望を持ったつもりでしたが、入所の手続が行われるその過程で運命的な事実に遭遇することになりました。「神美知宏という名前はこの療養所では使わないことをお勧めする。なぜならば、もしあなたがこの療養所に入っているということが世間に知れたら、家族が大変な差別に遭う。そういうことにならないようにするためには、療養所に入っている者の半分以上の者が偽名を使って生活しているので、あなたもそうしたほうがいいのではないか」というアドバイスを受けて、立ち話ではありましたが、おふくろと2人で相談をして、神崎正男と、聞いたこともない名前を登録して、それから、私は神美知宏ではなくて、神崎正男という名前で生きていくことになりました。その1つだけを子どもながらに聞かされたときに、その受付で日本のハンセン病政策、らい予防法というのがあって、その概略の説明を受けました。「病気が治るようになったけども、あなたが治ったとしても出すわけにいかない。あなたはこの療養所で死ぬる運命にあるので、死んだならば、あなたの遺体を医学の進歩のために解剖させてほしいので、この解剖願い書に署名捺印をしてください」と言って、赤茶けたA4サイズの解剖願い書なるものが差し出されました。そのときの様子をご想像いただきたいと思うのですが、母親は全身がわなわなと震えておりました。初めて聞く矛盾に満ちたその実態を知るにつけ、一体これは何たる国の施設だろうかと私も母親もそう思いました。しかし、差し出された解剖願い書に署名捺印しないわけにいきませんでしたから、名前を書いて、拇印を押しました。療養所の中を歩き回りました。すぐ目についたのが火葬場と納骨堂であった。入所するときの担当者の説明では、「あなたは若くて元気なので、この療養所を管理運営するための職員数が国の事情で極めて少数に押さえられているので、あなたは施設運営のために仕事をしてもらわなければなりませんよ」と言われました。私はまだ元気でしたから、それほどそのことに抵抗は感じませんでしたが、しかし、徐々にそのありさまが、全貌がわかるにつれて、こんなひどいことが実際にあるかと。患者が療養するために入所した療養所の中でその療養所を管理運営するための仕事についてもらわなければその施設が運営できないという実態がだんだんわかってまいりました。
 無らい県運動という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。昭和4年ごろから戦後まで、昭和30年代まで私どもにとってはこんないまいましいことはない無らい県運動が全国津々浦々において行われたんです。国の指導で市民も一体になって無らい県運動は全国的に展開されました。町や村から1人残さずハンセン病患者を見つけて、山の中や瀬戸内海の孤島や僻地につくった療養所に強制隔離する、そのことによってハンセン病患者を絶滅するというのが国の政策でありました。
 強制隔離絶滅政策を推進する理由は大きく2つ挙げられておりました。1つは、日本の体面、もう1つは、治安対策。古い話をして恐縮ですが、日清・日露戦争に勝利をした日本はこれを機会に、昔は一等国という言葉がありましたけども、先進国の仲間入りをするために国際的にアピールした。2つの大戦を勝ち抜いたので、日本はこれを機会に一等国の仲間入りをしたいという発言を諸外国に向けて日本がするようになった。ところが、この日本の名誉にかけた主張がことごとく諸外国から批判をされました。欧米先進国にはハンセン病患者というのはほとんど見ることが既になくなっていたと言われていました時代から日本では政府の記録では3万人を超えるハンセン病患者がいる。しかも、国は適切な管理も治療も施さないので、放置をした状態で、例えば、神社、仏閣などで物もらいをしながらしか生きるすべがないハンセン病患者が日本にはたくさんいるということが諸外国によって指摘をされた。特に欧米先進国からやかましい批判があって、そういう国が先進国の仲間入りをすることは認められないという声が大きく出てきたことが1つ。治安対策がもう1つの理由と言われておりますが、それは病院療養所に収容するのではなくて、放置しているハンセン病患者がそうでない日本の国民に移ってしまうおそれがあるということを政府は主張し始めた。そうであるがゆえに、2つの理由をもって患者探しを市民と一体になってして、見つけたならば、警察権力を行使して、手錠までかけて療養所に送り込んでいったという記録がたくさんございます。
 1つ例を挙げますと、市民からの警察への通報によって、あそこの家の主人はどうもらい病のようだ。零細な農家だそうでしたが、ある日表に出て、家族を挙げて野菜の手入れをしているところにそういう市民からの通報を受けた警官と保健所の職員がやってきた。「どうもあなたは市民からの通報によるとらい病らしい。そうだとすれば、一刻も早く療養所に入ってもらわなければ困る」というのが警官の言い分だったそうです。しかし、零細な農家の主人でありましたので、「今直ちに入るということは一家が路頭に迷うこともあり得るので、せめて今つくっている作物が収穫されるまで待ってほしい」と警官に哀願をしたそうですが、頑としてそれは聞き入れられなくて、押し問答の末犯罪者を引き立てるように手錠をかけて、多くの近所の人たちが見守る中でその患者とおぼしきご主人が連れていかれた。ご主人が歩いた足跡を消すように噴霧器を持って保健所の職員が消毒をしてついていった。乗用車ではなくて、トラックの荷台に積み込まれた。その様子は家畜のようだったと記録に書かれています。そして、客車ではなく貨車に積み込まれて遠い療養所に引き立てられていった。その人のいた家は真っ白になるほど消毒をされ、近所の方々は遠くから恐る恐るその様子を見ていた。
 1つの強制収容の実例であるわけですが、足跡を消すようにしてまで消毒をしなければ、強力な感染力をらい病と言われたハンセン病は持っているのかという印象を植えつけてしまった。これは国が政策的に行ったことなのです。日本の社会からハンセン病患者を一掃するというのが国の政策となりまして、何が何でもへんぴなところにつくった国立ハンセン病療養所に隔離をしてしまう。そのことによって日本の体面を保ち、ハンセン病の感染から市民を救うんだということが表向きの理由でした。
 私が療養所に入ったのが1951(昭和26)年。既に化学療法によってどんどんみんな病気が治る時代でありました。だけど、私は治ったといっても療養所から出さないという政策のために結局今もなお療養所にいることになってしまいましたけども、何十年という療養所の歴史の中でそこで働いている何万人という職員にハンセン病が感染したという例を聞いたことがない。片方が健常者で、片方が不幸にしてハンセン病になった、そのご夫婦の健常者のほうにハンセン病が移ったという実例もない。そのことを見ただけでもいかに強制隔離をしなければならない根拠が全くなかった、いわゆる国民をだましてハンセン病患者の絶滅政策を政府は歴史的に強行してきた。市民もお上の言うことだからといって無批判に国の政策に加担をしたために、結局全国的に日本の津々浦々においてハンセン病の草の根を分けてでも探し出すという無らい県運動が徹底していったわけです。そのことによってハンセン病に対する偏見と差別意識が抜きがたいものになって日本の社会に定着をしてしまいました。
 冒頭に申し上げましたように、もう人生80も過ぎて、あと数年しか生きないということがわかる、その人たちはみんな1960年代からとっくにハンセン病は治っているのに、ふるさとの家族からも「あなた方は病気が治っているので、一度帰っておいで」という声がどこからもかかってこない。「せめて墓参りでも帰ったらどうか」という声すらかからない。それは社会の偏見と差別が恐ろしくて、逃亡者のように小さくなって家族は今なお暮らし続けているからです。
 各県が最近は里帰りと称して自分で帰ることのできない入所者を県のご努力で車を利用してふるさとに里帰りをするという事業が展開されています。しかし、実際には里帰りといっても、玄関の戸をあけてうちに帰って、「久しぶりね」といって家族と話をできる状況ではないから、県の担当者のご配慮によって「あれが自分のうちだよ」というふうに瞬間的にわかる程度に前の道を車で通り過ぎる、走り過ぎるだけ。「あそこが墓地なんだよ」、車の中から確認するだけ、それが里帰り事業の実態なのです。理屈の上で説明をして説得できるんであれば、それは家族も迎え入れてくれるだろうし、大手を振って先祖の墓参りにも行くことができるでしょうけども、それがなかなかこんなまま今も続いているんです。
 無らい県運動と称して社会から徹底的に草の根を分けるようにして患者探しをし、療養所に送り込んでいった市民運動に参加された皆さん方の先輩の方々が随分いらっしゃるはずですけれども、もうほとんどお亡くなりになっているかもわかりませんが、私がこういう話をすると、必ず何人かが経験者として発言をなさる方がいらっしゃいます。
 今どういうふうになっているか。時間がありませんので、少し先に進みますけれども、先ほど申し上げたように、寝たきりの人、職員にご飯をスプーンで口の中に入れてもらわなければご飯を食べることができない。高齢になったために、排せつのお世話をしてもらえないので、おむつをしなければならない。あるいは、今社会問題になっている認知症になってしまって、隔離施設の中のさらに隔離をされた状況で人生の晩年を過ごさざるを得ない人たちがいる。
 無らい県運動をやって町や村から患者を放逐して、療養所に送り込んでいった市民の方々がどういう心境であるか。50年、60年と日時の経過とともに市民の皆さんはほとんどお忘れになっている、無関心になっている。今市民運動によって療養所に送り込んでいった人たちがどういう人生を歩み、どういう人生を終えていったか知る由もないという状況が一方ではある。しかし、そういう政策の過ちによって世間に深く広く浸透したハンセン病に対する偏見と差別は今なお厳然として残っているために、家族たちは亡くなった方の遺骨すらとりに来ないという状況が続いているんです。
 若いころには施設運営のためと称してより重度になった、私どもは不自由者、自由がきかない人たち、手足の障がいのために、その人たちの付添看護も強制的にさせられましたし、「仲間なんだから、お前たちが面倒を見ろ」というのが管理者の考え方でした。施設を管理運営するためのあらゆる仕事が軽症患者の仕事として強制をされた。ご飯運び、洗濯、風呂沸かし、土木、ひどいものになると、亡くなった仲間の火葬まで患者作業だと称して強制をされました。私も17歳で入って、二十のときでしたけども、今なお忘れることができませんが、「今度亡くなったら、おまえが火葬する当番なんだよ」、順番制がありました。当時は座棺でありまして、座ったまま大きいおけに遺体を入れて、火葬する炉に押し込んで、隙間に松の木を切って割ったまきを詰め込む。そして、火をつける。1回では焼き切れないので、もう一度鉄のドアをあけて隙間にまきをくべなくてはならない。それが火葬の作業の実態でした。私はまだ青臭い青年でありましたから、その作業が恐ろしくて恐ろしくて、先輩に手伝ってもらいながら役割を果たしたんですが、療養所を管理運営する立場にある職員は遠くから腕組みをしてそれを見ている。これも私は忘れることのできない、イメージとして今なお焼きつけられております。
 そのように半ば強制的に作業し、今ではその方々もほとんどの者が亡くなっていきましたけれども、今なお晩年を生きている人たちは、先ほど申しましたように、高齢者特有のさまざまな合併症で苦しみ続けている。
 一番大変な状況は、政府が行う合理化政策、行政改革推進法という法律がありまして、この法律によって、ハンセン病療養所といえども、国家公務員なのだから、定員を削減するという、今そういう政策が国の手で強行されています。元気なときには施設運営のための作業について、年をとって弱ってしまって、今職員の手助けを受けなければ毎日が生きていくことができない状況になった。そのために看護に当たっていただく職員の定員を国はどんどん毎年削減し続けている。どういう状況が起こっているか。去年までは自分で何とかスプーンを持てた、お箸が持てた、自分でご飯が食べることができたけども、どうもそれもできなくなったという人が一年一年多くなっています。そういう人たちはどういうふうにしてご飯を食べているか。文字どおりマンツーマンの食事介助がなければご飯を食べることができない人がたくさんいらっしゃるんです。「おじいちゃん、今度はご飯ですよ。今度はお魚ですよ。おひたしですよ」と説明しながら口に運んでくださる介護員がいらっしゃる。しかし、行政改革推進法で、国家公務員たる者例外にするわけにはいかないといって、国は国立の医療機関であるハンセン病療養所の職員も毎年毎年減らし続けている。
 これまでだと一つ一つスプーンですくってご飯を食べさせてくれていたけれども、その人たちがいなくなってしまった。排便の世話、着がえ、入浴、散歩というふうに、人間が生きていく上に当たってさまざまな手助けがなければ普通の生活ができない方々が、先ほどの年齢構成から推して知るべしでありますけども、70代、80代の人ばっかりが今療養所で残されている。どういうふうにしてその人たちが療養所で生活をしているかを見ることもなく、知ることもなく、国は行政改革推進法があるから、その法律に基づいて閣議決定という厄介な決定をしてしまって、閣議決定に基づいてハンセン病療養所も定員を削減すべしと強硬措置が毎年行われ続けています。そこで、ハンセン病療養所は全体の運営も行き詰まりつつある上に、そこに強制隔離されている人たちの日常生活も脅かされる結果が今起こり続けているんです。
 人権とか、尊厳とか、そんな生易しい言葉で説明できる状況ではなく、文字どおり命にかかわる問題が、生存権にかかわる問題が毎日毎日ハンセン病療養所で起こっているんです。1世紀にわたる強制隔離政策によって。このごろは法律の改正で市民の方々がたくさんいらっしゃいますけども、ほとんどただ遠くから眺めているだけ。「あっ、そういえば、ハンセン病という言葉聞いたことがある」という程度の市民の方々が多数になっております。一般の市民の皆さん方がハンセン病療養所で今どういうことが行っているかもわからないだけではなくて、その療養所を管理運営する責任ある国の立場で、もっと具体的に言えば、厚生労働省の担当者たちもなかなかハンセン病療養所に足を踏み入れない。それは私たちがやかましく言って、そのことに対する答えは、出張費がないという、時間がないという。ほとんど国の行政機関で働いている事務官たちは2年ごとに異動してしまうというのが当たり前になっています。厚生労働省のハンセン病問題担当の職員も2年ごとに変わってしまう。しかも、ハンセン病療養所に一歩も足を踏み入れないまま、ペーパーだけで、デスクワークだけでハンセン病対策をやろうとするのが今の官僚たちの姿勢であるわけです。
 過去に国は何をやってきたか。あの裁判闘争で熊本地方裁判所から出た判決を全て政府は認めて謝罪をし、ハンセン病対策については国が責任を持って善処するという、歴代の大臣はみんな繰り返し繰り返し私どもの前に言ってきたけども、実際にやっていることは何にもやっていないといってもいいほど手つかずの状態でいたずらに時間ばかりが過ぎています。
 今までに国はどういうことをしてきたか。2001(平成13)年には熊本地裁で裁判闘争が行われて、国のハンセン病対策が徹底的に批判をされ、国のやってきたハンセン病政策は憲法違反の政策であるというふうに断罪をされて、歴代の政府の大臣はその都度、今でも謝罪を繰り返しています。あの裁判闘争のときには小泉さんが内閣総理大臣でありましたが、大臣談話をすぐ判決を認めた直後に行いましたけれども、ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話ということで、長い長い謝罪と責任と今後の取り組むべき対策について具体的に述べました。
 つい先年、平成20年、2008年6月第169回国会で成立をし、翌年施行されたハンセン病問題基本法という法律が一番新しい法律なんですが、あれほど裁判の判決の中で国の過ちを指摘されていたにもかかわらず、ほとんど国は責任もとらなかった。このままでは我々は再び国によって見殺しにされてしまうものかという考えから社会運動を私たちは起こしまして、10か月の間に93万という国会請願署名を市民の方々からいただいたおかげでハンセン病問題基本法が時の間に国会で成立をし、施行されました。この法律は国だけではなくて、地方公共団体の責任も明確にうたわれておりますし、この法律さえ完全に施行されれば、ハンセン病対策の全てが解決するといってもいいほどの明確な指針が示されているにもかかわらず、この法律は既に形骸化しつつあります。棚上げにされた状態で今推移をしています。そのことよりも厚生労働省のお役人たちは行政改革推進法と閣議決定のほうがずっと我々にとっては大事なんだということを平然と我々の前で述べて、行政改革と称する国家公務員の定員削減をハンセン病療養所の中でも強行しているのです。
 国会もこういう状況を黙って見るわけにはいかないということから、衆議院本会議、あるいは、参議院の本会議で、2009(平成21)年に衆議院、2010(平成22)年に参議院の本会議で国立ハンセン病療養所における療養体制の充実に関する国会決議という決議をされまして、ハンセン病療養所だけは国家公務員の定員削減から除外をすべしと、今ハンセン病療養所で起こっている問題を放置できない、これは国の責任だから、善処しろという国会決議が2008(平成20)年に行われました。しかし、これもそれは国会での話じゃないかということで、政府は無視し続けております。
 この国会決議を行った直後厚生労働大臣はどういうふうに国会での中で言明をしたか。「入所者の方が引き続き良好かつ平穏な療養生活を営むことができるようにするための基盤整備は喫緊の課題であるとの認識のもと、政府といたしましては、ただいまのご決議の趣旨を十分尊重いたしまして努力をしてまいる所存であります」、厚生労働大臣は決議直後にこういう言明を国会の中で発表しました。これも全く単なる言葉だけに終わって今に至っております。
 国は3年前に6月22日をらい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日と定めまして厚生労働省の玄関口に大きな石碑をつくりました。この石碑に何と刻まれているか。「らい予防による被害者の名誉回復及び追悼の日と定め、ハンセン病問題の解決に向けて全力を尽くすことを表明する」と碑文に明記をしている。毎年6月22日にはそれ以来追悼式がその碑の前で行われておりまして、総理大臣、厚生労働大臣はもとより、関係者が集まって、この碑文に書かれています、深々と刻まれています、「国の責任においてハンセン病対策に全力で取り組む」と繰り返して挨拶をしているけれども、単なるこれも挨拶だけ。これが日本の政府における、ごく片鱗でしかありませんが、ハンセン病対策の実態であるわけです。
 私どもはここまでハンセン病対策を何とかしなければならないことの外堀は完全に埋められているという認識があるのですけれども、肝心の首相官邸や政府においてこれは二の次、三の次だというふうに言って、本気で取り組もうとしない。ついに私どもは毎年毎年口先だけでごまかされて10年経過して、1年に150人もの仲間がどんどん亡くなっていくことを、もうこれ以上問題の先送りは我慢ならないということで、今年全国の代表を集めてこの政府の態度に対して抗議を申し入れ、療養所で働いてくださる職員の定員削減を阻止する実力行使を決意いたしました。70代、80代、90代の方もいらっしゃるんですが、そういうじいちゃん、ばあちゃんたちがハンガーストライキと座り込みをやってでもこの問題を何とかしなければ、我々は国の政策によって再び阻害されながら人生に幕をおろすことになってしまう。それでいいのかが我々に今問われているのではないかということから実力行使を決議したものですから、厚生労働省も国会も首相官邸も黙っておれなくなった。70代、80代の高齢者の方々がハンガーストライキと座り込みをやるという、厚生労働省の前にテントを張って座り込みをするということを決めているんですけども、実際にこれが強行されたならば、大きな社会問題になり、それこそ国の責任を問われる結果になるということを厚生労働省も国会も首相官邸もわかっているだけに慌てた様子が今見られています。何とかその座り込みを、ハンガーストライキをしないようにするために、「最大の努力をするから、我々のやっていることを見ていてくれ」というのが今の政府側の態度です。
 私は全国ハンセン病療養所入所者協議会の会長という立場で常に厚生労働省には出入りをしているし、国会もよく行っております。先日は首相官邸にまで行ってまいりました。官房長官、あるいは、首相補佐官たちが主にこの問題を扱ってくれていますが、ほとんどの方がハンセン病療養所で何が起こっているか、どういう状況にみんなが置かれているかを知らなかった。厚生労働省のお役人すら知らない、そのまま時間が経過をして、どんどんみんな死んでいっている。
 人権とか、人間の尊厳とか、そらぞらしい。私たちは命をかけて最後の戦いに立ち上がることを決意して今政府の関係者と折衝を続けています。厚生労働大臣は「皆さん方が決して実力行使をやることのないように善処するから、私どもの作業を見ていてほしい」と、こう言われています。つい1週間前総務省に出向きまして、総務大臣と会ってきました。話をしたら、全くハンセン病問題について片鱗すら知らない、聞いたことがない。こういう大臣や官僚たちがハンセン病問題に取り組んでいるので、解決するわけがないというのが私の率直な実感でありました。しかし、実力行使に対する私どもの抗議の姿勢が並々ならぬものであるということを感じた彼らはようやくそれではということで検討のテーブルに今つこうとしています。国会は、皆さんご承知のように、混迷と閉塞状態にあるし、ひょっとすれば年内に解散総選挙があるかもしれない。政権が変わるだろうというふうに言われています。そうすれば、「あのときあなた方に、ハンセン病療養所は医療機関なんだから、国家公務員の定員削減の外に置くというふうに前任者は言ったかもしれんけど、私たちはまた別な考えがあるんだ。私たちは知らない」、政治家というのは平気でそういうことを言ってのける経験を嫌というほど私たちは目の当たりにしてきていますから、再び政治の泥沼の中でハンセン病対策は解決されることなく、また先送りにされるのではないかというおそれをなして今この状況を見詰めているところです。
 厚生労働大臣は首相官邸の指示に従って総務大臣と調整をしながらハンセン病療養所の25年度の職員増員対策を検討すると私どもに約束をして今具体的な検討に入っています。しかし、中間的な報告をするということを約束してくれていますので、おそらく11月下旬か12月初めに、今ここまで検討が進んでいるよ、ハンセン病療養所の職員の増員はここまでやろうと思うよという中間的な報告をしてくれることになっていますので、その内容いかんによって私たちは直ちに実力行使に入ろうというふうに決定をしております。
 こういう話をなぜ今改めて皆さん方の前で申し上げたか。それは強制隔離によって私たちはどういう人生を歩いてきたのかはご想像にかたくないというふうに思うのですが、2001(平成13)年に熊本地裁判決が出たとき小泉総理大臣だったんですが、この判決を政府としてどう受けとめるかという検討期間が2週間あったんですね。今まで新聞やテレビがハンセン病問題に関する運動がどのように展開されてとか、今どういう状況にあるかということはメディアもほとんど報道しなかった。だから、市民の方々も知るすべがなかったと言えるわけで、その限りにおいて私どもは再び社会から抹殺をされた立場にある。政府からも見捨てられた立場にある。しかし、メディアがこの熊本地裁判決を、なぜこういう判決が出たか、そのいきさつについても詳しく各新聞社が、あるいは、テレビ局が報道されることによって初めて市民の前にその実態が明らかになった。私たちは首相官邸の前で鉢巻きをし、ゼッケンをぶら下げ、プラカードを掲げて、横断幕を引き、その前で連日座り込みをやりました。国は過去のハンセン病対策を反省して、この判決を断じて拒否してはならない、全面的に認めて国は今こそ責任を取るべきだということで、控訴を断念するかどうかの瀬戸際に私たちは首相官邸の前で座り込みをした。私はもう50年間ハンセン病療養所の入所者の全国組織による運動に参加をしてきましたけれども、市民の方々がこちらに目を向けた、関心を向けたことを実感できたのはそのときが初めてなのです。首相官邸の前に私たちが座り込んでいるそこへ半分市民の方々が同じ姿で、ゼッケンをかけ、鉢巻きをして、私たちと一緒に首相官邸の前で市民の方々が座り込みをしてくれたんです。それまで私たちの全国組織による運動というのはしょせん隔離をされた壁の中の運動になってしまっていて、いかなる正当な要求を政府にぶつけても市民は全く知る由もなかったし、関心もなかった。だけど、メディアが具体的に熊本地裁判決及びそれに至る経過、国の責任、市民の責任というものを報道するようになって、ようやく忘れかけていた市民の感情に訴えるものとなった。私たちと一緒に官邸前で座り込んでいる市民の皆さんが何を言っているか。私は事務局長をやっていましたから、積極的にお話をさせてもらいました。市民の皆さんは、「無らい県運動には積極的に私のじいちゃん、ばあちゃんたちは参加をしたというけれども、私たちは直接その無らい県運動に参加をしたわけではないけれども、一般社会から追い出されてあなた方はとんでもないところに収容されて、ひどい目に遭ったということを初めて知った。これは国の政策が誤っていたんだと言ってしまえばそれまでなんだけども、市民一人一人にも責任があるではないかということに気がついた」と言うんです。皆さんが口々にそうおっしゃっていました。何も考えずに、お上の言うことだから間違いがないだろうということで無批判に国の行ってきたハンセン病対策を肯定してきたけれども、実は全くそうではなかったんだと。
 そこで、私は眼のうろこが落とされた気持ちになりました。私どもがいかに療養所の中から国に対して明確に根拠を示しながら正当な要求をしても、市民の方々がそれに関心を示さない、賛意を表しない、支援をしないという運動は運動にならんということを痛感した年月がずっと続いてきておりました。厚生労働省のお役人にとっても、市民の方々が何にも言っていないじゃないかと、あなた方の運動をバックアップもしていないし、言っていることが正しいという声も厚生労働省には聞こえてこないよ、そういうことを盾に私たちの要求はことごとく政府によってはねつけられました。人権とか、人間の尊厳とか、日本国憲法とか、そんなものは彼らの頭の中では問題じゃない。
 しかし、熊本地裁判決を小泉内閣が認めるかどうか、控訴するかしないかの議論を徹底的にメディアが報道したことによって市民が初めて関心を示し、自分たちにも責任があるということを目覚めてくださって、私どもの運動に参加をしてくれた。そこから私どもの運動も本質的に変わってきました。それまではあまりにも生活保護法による扶助基準よりも明らかに低く抑えられてきていた私どもの待遇というのを何とか一人前にしてほしいと、生活保護法に基づいたレベルにまで引き上げてほしいという待遇改善の要求に徹していたけれども、その裁判以降の私どもの運動は本質的に変わってきました。待遇の改善どころではないと。人間回復の運動ではないか。一人前の人間として、あの日本国憲法に高らかと掲げている主権、自由、法のもとの平等、基本的人権の尊重。私どもにとっては、日本国民でありながら、ハンセン病療養所にはこの日本国憲法の理念が全く及んでこなかった。それを当たり前のように厚生官僚も考えてきていた。しかし、官邸の前の座り込みの一団の中に市民が半分いたということにものすごく衝撃を受けたのは政府でした。市民がいよいよ動き始めたと。国のやっていることはおかしいと言い始めたと。政府が動き、国会が動き、官邸が動き、あっという間に熊本地裁判決は控訴をしないという決断を小泉さんはテレビの前で涙を流しながら言明したことはまだ記憶に新しいことなのです。
 したがって、私どもがいかに正当な要求として自己主張しても、県の関係者や市民の皆さん方が知らん顔していたのでは全く事態は変わらない、動かないということを心の底から体験的に私は感じておりますから、あえて貴重な時間を拝借して皆さん方にお訴えを申し上げた次第なんです。
 私は療養所に入って10年が経過したときに主治医に呼ばれました。「あなたは非常に療養所に入ってきてから治療に熱心であったために」、10年を経過した時点でまだ30前でしたけれども、「もうこれ以上ハンセン病の治療をする必要がない。そう思うので、外に出ていったらどうか」と、つまり、私の主治医は法律で禁じられている私の退所を認めようというふうに口にしてくれたわけですね。私が療養所に入ったときから、これは国の医療機関であるはずなので、何はさておいても病気の治療を中心とした施設ではないかと思って療養所に入ってみたら、全く関係のない収容所であった。しかし、この療養所の中で隔離生活が続けている以上治療しなければ何の意味もない、生きている意味もないと考えたから、熱心に治療を受けた。治ったと言われた。外に出たらどうかと言われた。私は考え込みました。福岡の両親にも相談しました。法律の中では治ったとしても社会復帰は認めないと、家族の葬式のとき以外には出さない、それも1週間に限定してということが現実に行われている中で、「医者の良心としてあなたを外に出したい」とそう言ってくれる重い医者の判断を私は誠意をもって、喜びをもって、感激をもって受け入れるべきでしたけれども、私は違いました。療養所に入ってからあまりにも自分が考えていた施設と違う施設。刑務所であれば一定の刑を果たせば、償いをすれば、刑務所から出していただける。10年の刑を受ければ、10年が終われば出す。結核予防法というのがよく似た法律であるんですが、きちっと入所規定があれば、退所規定も結核予防法にはあるけれども、らい予防法には入所規定はあるけれども、退所規定はどこを見てもない。その法律は強制隔離絶滅政策を推進する根拠になった法律であったんです。そういうことから、療養所に入って3年目から、これは自分たちの運動によって療養所自体を改善するしかない、そこに隔離されている人を人間としてよみがえらせるためには、権利を獲得するためには、日本国憲法の理念を療養所の中で生かしていくためにはみずからの運動しかないというふうに考えていまして、自治会活動に3年目から一生懸命取り組んでいました。しかし、先ほどからるる申し上げたように、全く国は動かない、耳を傾けないためにひどい状態がずっと続いていた。主治医のお勧めを今私が受け入れて療養所から出ていくということは、そこで苦しんでいる仲間たちを見捨てるようにして自分だけの幸せを求めておまえは出ていくことができるのか、みずからにそう問いかけました。そして、私は決断をしました。せっかくの主治医のお勧めだけれども、私はこの運動に人生をかけたいといふうに決めたと。だから、先生のせっかくのお言葉だけれども、受け入れることができません。療養所に入って10年目にそういったやりとりがありました。
 それから50年間いちずに私は運動の先頭に立って頑張り続けています。でなければ生きている意味がないと思うからです。昭和9年3月25日生まれで私は78歳になりました。もう活動できるのも二、三年ではないかと私自身考えていまして、今のところ精密検査の結果治療する場所が発見できないと主治医に言われていますので、まだ二、三年頑張れるかと思って一生懸命この問題に取り組んでいます。座して死を待つわけにいかない、戦ってこそ初めて事態は動くんだというのが私の信念でありまして、問題を解決するためには、市民の皆さん方が、あるいは、県の関係者の皆さん方がしっかり問題意識を持って、人権とか、尊厳とか、差別とは一体どういうことなのだと、日本の社会は今どうなのだということを改めて見直していただきたい。
 去年から今年にかけてこういうことがありましたね。去年の3月11日東日本大震災があった。被災地の皆さん方の惨状は十二分に皆さん方もご承知のとおりですが、その後どういう問題が起こっているか。私は決して無視ができない1つの悪い社会現象だと思っているんですが、放射能汚染を受けた方々に対する社会の偏見というか、差別というか。被災を受けた方々とはっきりわかったならば、就職、転校、タクシーに乗るのでも除染をしたという証明書を見せろ、学校においても子どもたちのいじめの対象になっている。現実に新聞が大々的に連日報道してきたんじゃないですか。皆さん方もよくご承知のとおりです。あの震災に遭って、家族を失い、辛うじて生き残った方に対する社会の対応はどうかという問題なのです。あれほど苦しんでいる日本の市民でありながら、市民がそれでも放射能汚染を受けたというだけで自分の周りから排除するという動きが出ている。そのことがいじめにもつながっている。「加害者と被害者と傍観者」というテーマを一応考えてしゃべってきたつもりですが、去年の3月11日の被災者の惨状なり、今のご苦労を思うと、かつて私どもが社会から追い出されてしまって、療養所に隔離をされ、社会復帰をしても大手を振って、「私たちはハンセン病を患ったけども、今治っているんだよ」と言ってもなおかつ病院の診療が受けることができないという事態がまだ続いているのです。ひた隠しにしてでしか社会で生きていくことができない。日本の社会というのは生活が豊かになった、国際的に高く評価され、あの日本国憲法を持っている、そんなことで国際的に大きな顔ができる社会に私たちは生きていますか。人権とか、尊厳とかいうけども、何だ、それは。言葉だけではないか。私は毎日そういうことを感じながら生きています。
 加害者は国、被害者は私たち、傍観者は一般市民、そういう図式を私たちはずっと考えてきました。加害者があれば被害者があり、それを見て見ぬふりをする、それもやはり差別者ではないでしょうか。自分の人権を主張したければ相手の人権も認めるというのは原則じゃないでしょうか。日本国憲法の3つの柱、よく言われているところですが、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重、これが日本国憲法の大きな柱です。しかし、これもややもすれば形骸化しようとしています。私たち一人一人が頑張るしかないのです。法律ができたからといって権利も人権も尊厳も守られるわけではないのです。運動して初めてそれが現実のものになるのです。痛いほど私はそう考えています。
 今日与えられた時間が参りましたので、これで一応、心残りではありますが、私のお話を終わりまして、ご質問があれば答えてほしいという主催者側からのご意向もありますので、しばらくその時間に当てていただきたいと思います。終わります。ありがとうございました。

【補足】 私たちの悲願は、生きていてよかった、そういう人生にしたいと思っているのですね。これは既にお話の中でもご報告しましたように、平均年齢が82歳になり、超高齢者の療養所の中の様子から見ると、もう市民の皆さん方に対してこのようなお話をさせていただける者もほんとに一つまみになってしまいました。こういう一方通行的なやりとりではなくて、大変皆さん方お忙しいことは百を承知の上ですけれども、時間があれば、ハンセン病療養所に足を踏み入れていただきたい。そして、療養所の中を、ただ漫然と幹線道路をお歩きになるだけではなくて、建物の中に入って1人でも、2人でも入所者と、入所者の胸の内を理解するようなご努力をいただけたならば、これにまさる喜びはありません。
 私も今78歳ですが、あと2年、80歳になるまで当面する大きな問題は政府や国会の皆さんや市民の皆さん方のご理解をいただきながら何とか解決をしなければ死んでも死に切れない、そのように思って頑張っています。
 口幅っていくとあんまり申し上げることができませんけども、どうぞ私どものことに対しても時間がありますときに思い出していただきたい。そして、一歩踏み出していただきたい。今あの連中は何を考え、どうしているのだろうかということを思い起こしていただきたい。そこから解決の道が見出せてくるというふうに私は50年の運動の中から実感として今持っております。
ほんとに長い時間ありがとうございました。失礼します。