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人権に関するデータベース

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研修講義資料

京都会場 講義8 平成24年11月14日(水)

「震災と人権」

著者
山口 幸夫
寄稿日(掲載日)
2013/04/01



 こんにちは。今日の内容は、まず災害と人権の中で、災害のリスク、今回、不幸にも東日本大震災が起きまして甚大な被害があったわけですけれども、日本あるいはアジアにおける災害のリスクというのが増大しているという問題をまず簡単にご説明したいと思います。
 そして、災害の復興については、地域、もちろん国もリーダーシップを発揮しなければいけませんけれども、地方自治体と、その住民の方々、NGO等、皆さん地域で頑張っていかないと、なかなか復興しないということです。
 それから、災害が起きたときのリスクの問題として、人権あるいは社会福祉法を見ると、社会福祉サービスというのは、人間の尊厳を実現して、その人なりの能力で自立することを支援するためにあって、そのために人権という概念が大変大切なのですけれども、日本において国際的に見たときに、いろいろな社会保障制度上の脆弱性がある。これについて簡単にご説明したいと思います。
 そして、今回の地震の中での外国籍等の住民の支援を中心に、どういうことをなすべきだったのか、これからなすべきなのかということを話して、最後にまとめとして社会的包括サポート、今後のあり方、例えば、生活保護やいろいろなマイノリティーの方々等、どういうふうに社会的にみんなで平等に人権を実現し、またそれに付随した社会的サービス、社会福祉サービスも提供していくのかを述べるという形で、進めていこうと思っております。
 ミュンヘン再保険会社という会社がございまして、それは何をする会社かというと、損害保険、火災や地震保険を皆さん、ご自宅などに火災保険をかけたりして、それを日本の大手のどこかの損害補償会社が受けるのですけれども、そこもさらにリスクを回避するために、保険会社がさらに保険をかけるのです。そういう大手が世界に幾つかあって、その中の一つの大手であるミュンヘン再保険会社というのが、世界の大都市のリスクについてまとめました。これは伊藤滋先生という都市計画の先生で、内閣府の中にある首都直下を考える委員会の中の専門委員の座長である伊藤先生が、その会議の中で引用した資料です。
 どういうことがわかるかというと、この黄色が、地震、台風等に対する災害の部分です。それから赤は、物的、例えば燃えやすい家屋がある、壊れやすい橋がある等の部分です。それから青は、そういうことが起こったときにどのぐらい経済的な破壊があって、お金を払わなければいけないのかというのを見たものです。サンフランシスコ、ロサンゼルス、これも地震で有名ですけれども、そのリスクは、東京が格段に高い。それから大阪も今でもかなり高いです。こういう形で、特に首都圏、それから関西も非常に高い、そういうことを認識しなければならないのです。東京について見ると、海外の巨大な再保険会社も、もう東京の保険会社の再保険を受けたくないというぐらい危険なのだということです。
 これがどういうことかというと、皆さんの中には、関西の自治体の方も多いと思うのですが、不幸にも災害が起きたときに、地震保険に入っている方は少なかったかもしれません。地震保険やいろいろ損害保険に入っていれば、そこの部分で、経済的なある部分の損失はカバーして、復興が早くなることを留意してください。
 ところが、こういう状態で、例えば、東京の都心の機能が麻痺すれば、東京の都心にある内閣や、その他の幾つかの防災本部が全部やられれば、立川にバックアップでフルセット指揮権を移す場所があって、ここは飛行場も旧立川米軍の飛行場を返還してもらって使っています。その隣にはアジア最大の横田の米軍基地もあり、自衛隊もあるから、ここに空からの物資、自衛隊やアメリカ軍も支援してくれて、それから都庁、自治体関係、霞が関がみんな移って指揮するみたいになるのですけれども、そういう中でも、日本はもう信じられないぐらいリスクが高いということを念頭に置いておいてください。
 それから、このリスクというのはどうなっていくか。今後、世界銀行などが言っているのですけれども、日本の高度成長期、日本の人口が9,000万人から1億2,000万人に増えたとき、この増えた3,000万人分というのは、ほとんど3大都市圏に出てきたのです。東京、名古屋圏、それから大阪、神戸、この3つの工業地帯にすべて出てきてしまった。農業生産と工業生産の所得差というのは埋めがたい。今、何が起こっているかというと、東南アジア、アジアの国々でも中国でもフィリピンでもインドでもマレーシアでも、あるいは韓国でも、ほとんどの人口は首都である巨大都市にどんどん集中しています。農村はどんどん過疎化して、三ちゃん農業化し、みんなどんどん都市に出てきてしまう。出てきた人は、そんなに安全な場所に住めないので、都市の中で崖崩れや洪水やいろいろリスクのあるところに住まざるを得ないという形で、現在そういうふうに危険地域に住んでいる出稼ぎの移住労働者と呼ばれている人たち10億人ぐらいが張りついていると言われています。今後も、世界で経済開発が進んで、もうすぐフィリピンの総人口は9,000万人ですけど、多分もうすぐフィリピンの人口は日本の人口を越します。1億人になってしまうと思う。インドネシアは2億3,000万人ですから、世界で4番目の巨大な人口大国で、日本のコンビニも製造業も、みんなそっちに出ていったりしていますけれども、そういうところは今後20年で、あと20億人分ぐらい危険な地域に人々が住むという形になって、災害のリスクというのが減るどころか、どんどん増えていく。
 これは都市だけではなくて、農村についても同じです。もうどんどん高齢化が進んでいくと、四国の高知で最初に限界集落という失礼な言い方もしれないけれども、みんな70歳以上です。消防団の団長が65歳で一番若くて、あと70歳代でみたいになってくると、地域の集落の機能、防衛する機能というのは低下してしまうのです。四国は暖かいから、あまり雪は降らない。東北で雪かきのできない地域だと、もうもたなくってしまうわけです。そういうことが起こっている。
 それから、水田、畑、河川敷、湿地、貯水調整機能をみんなつぶして、最初は田んぼにして、田んぼになったら、今度その土地使えるかなと思って、住宅地にしてしまうので、そういう部分のリスク、洪水のリスクはもっと増えている。それから山林も、日本はそこそこ保っていますけれども、減っている。それから気候変動によって内水氾濫というのがあります。別に堤防があふれなくても、地域に雨が降ると、もう田んぼ、河川敷も沼もつぶして住宅やコンクリートで固めてしまうと、雨が染み込んだり、河川に排出されない。だから、その辺にあった雨があふれて、洪水になってしまうということも起こってくるわけです。
 それから、海面の上昇です。この間、JICAで国際会議やったときに、パプアニューギニアとかそういうところが5つの島国家で大学を持っているんですけれども、海面が上昇してしまったので、集落移転しなきゃいけないとか農業ができないという地域が、もうできていると。そういうところに、もし台風が来て、さらに低気圧で海水が吸い上げられて、海面が上がると、高潮で集落がみんな流されてしまうみたいなことがあるわけです。
 そして、そうした突発的集中豪雨、今年秋、北京でもありました。あるいはマニラでの台風による集中豪雨、あるいはバンコクでの水害については去年聞いたと思います。でも、これは別にバンコクだけではなくて、メコンデルタ全体でもっと貧困地域が多いミャンマーからカンボジアからどこも全部、メコンデルタ全域が水に浸かってしまったのです。それは森林部の伐採で保水機能が落ちている。それから、今回いろいろな日本のカメラメーカーや自動車メーカーのサプライチェーンがずたずたになりましたけれども、従来はデルタで湿地帯だったり、大雨が降れば水に浸かってしまうところを頑張って三角州の部分を工業団地にしていくので、もともと弱いのです。だから、百年に一遍とか大きな雨が降ると、みんな浸かってしまう。それから大規模な地滑りもあちらこちらで起こっています。
 ですから今後、アジアがこういうふうに経済発展、社会発展を続けていく上で、連続した高い堤防によって全部押さえ込む、コンクリートの万里の長城をつくって押さえ込むということは、実は現実的ではないのです。それから排水路、排水ポンプも限りがある。
 ちょっと大槌(岩手県)の例を見ていってみましょう。これは1947(昭和22)年に戦後すぐぐらいに米軍が撮影した地図です。白い砂浜があり、これ大きな三角州なのですけれども、ここに汽水状態があって、水と海水がまじって湿地帯が形成されて、2つの川は、昔、地理で習ったリアス式という氷河が削った細い谷間、深く切り込んだ谷間が最後は、海になっている。ですから、この2つの川も堤防で固定されることなく、谷の中を竜のように泳いでいた。
 それをこの1947(昭和22)年から50年かけて、ここに防潮堤をつくることによって、砂浜は消滅し、川も高い堤防をつくって細くして、昔だったら湿地帯で、みんなが貝とりをしたようなところをすべて住宅地にしていった。こちら側の川も戦後、食料増産で、堤防で川筋を固定して、その横は全部田んぼにした。もともと洪水があれば、川が暴れていたところを田んぼや果樹園にして、その跡を、隣に釜石というのがあって、昔は7万人ぐらい新日鉄釜石の人たちの住宅地が要るので、果樹園にしてしまった川っぷちの土地を今度は住宅地にして売り出した。
 35年の水害のときですけれども、このように細く川筋を固定して、堤防で守っていて、そこに大きな災害が来ると、大体このぐらいのラインまですべて水で流されてしまった。だから、後から入っていった川筋を固定したつくった住宅地は壊滅しましたし、もともとそんなに海沿いまで建てていなかった住宅も、ぎりぎりまで建っていたので、そこの部分は全部海に戻ってしまったわけです。
 ですから、この人権シンポジウムin盛岡でパネリストをつとめた被災した臼澤良一さんという方がおっしゃっていたんですけれども、「先生、小学校のころの風景に戻ってしまった。自分が小学校のころは、家の周りは田んぼで、その先は湿地帯があって、潮干狩りをしていた。それが戦後50年で、みんな住宅になって、堤防をたてて、海が見えなくなっていたんだけれども、津波で原風景に戻ってしまった」。ですから、こういう開発というのはいろいろなリスクがある。
 それは三陸地方の小さな都市だからしようがないのかと思えば、これ、ある東京の自治体です。東西線が1969(昭和44)年にできて、この場所は大手町まで、東京のど真ん中まで、地下鉄に乗れば15分から20分という一等地になりました。ディズニーランドやいろいろなものがあるんです。でも、このまちは75%は埋め立てです。ちょっと見にくいですけれども、東西線が走っているところからこっち側、ディズニーランドやいろいろなものがあるところは全部埋め立てです。
 それから昔、東京の防災で問題になったのは、ゼロメートル地帯という言葉がありましたけれども、下町の中小工業ができた地域、江戸川や荒川のある下町のデルタの部分をどんどん工業団地化していった。ゼロメートルですから、堤防が破れれば、水が出るし、さっき言った内水氾濫で水が出る。そういういろいろなリスクを抱えているのです。
 ですから、この堤防、この辺で破堤すれば、シミュレーションだと、大体2時間以内に街の6割ぐらいは1メートルから4メートルの水で裏側から攻められて、動けなくなります。それから大きな地震が来ると、今回もありましたけれども、液状化で、建物は耐震ですけれども、インフラはずたずたになる。しかもウォーターフロントの弱さというのは、町なかだと、水道もガスもループして輪になってきていますから、こっちがだめでも、こっちがというけれども、ここはもう全部行きどまりですから、ここでずたずたにされると、すべてライフラインは切れてしまうのです。ですから、高い高層マンションに住んでいても、20階まで毎日階段を歩いて上がって降りなければいけないし、トイレは使えない。もちろん料理もできないというような状態になってしまうというリスクがあるわけです。
 ではどうするのだろうということで、リスクのあるところに建てた例というのを少し見てみます。災害に強い社会をつくるために減災をしていくというときに、環境、保健、地域文化、ジェンダー、いろいろなものについて包括的にみんなで攻めていく。特に途上国の場合はそんなにお金がないですから、防災だけのプロジェクトをやる、何々だけのプロジェクトをやるといった、いろいろなプロジェクトをやっていきます。どんなことをしているのか、ちょっとご紹介していこうと思います。
 これは皆さんの自治体でもそうですけれども、平時の社会福祉システムとか教育とか、あるいは人権教育やいろいろなものを含めて、平時のシステムと非常時のシステムを統合していくということを考えていく。防犯や高齢者のケアとか子どもの登下校の見守り、そのいろいろなものと防災時のシステムと一緒にしていく。人は城という言葉がありますけれども、ほんとうに堤防や機械や戦車で守るのではなくて、地域、国は人で守るわけですから、日ごろからいろいろな部分を統合しておくということが必要だと思います。
 今日の受講者は、自治体関係者の皆さんですけれども、例えば、ボトム・オブ・ザ・ピラミッド・ビジネスというのがあります。1日10ドルとか何ドルとしか生活してなくて、ちょっとしか消費できない人。でも、この人たちが都市の危ないところに30億人住んでいるならば、この人たちに適切な、安くてうまくいく防災の技術やいろいろなものを売れば、それはビジネスとしても成り立つはずなのです。
 さらに今回の東南アジア、特にバンコクや中国の災害なんかで、日本の大手のそういうセキュリティー管理メーカーなんかは、従業員の人たち、駐在員の人たちをどういうふうに安全に、災害のない地域のアパートに移すのかとか、その人たちに水や食料を供給するか。あるいは、工場はリスクがないようにどう防衛するのかということも大きなビジネスになると、今、気がついて、いろいろなことをし始めています。そうすると、彼らのお客さんというのは、理工系の人や企業だけではなくて、自治体になっているのです。タイや上海周辺の自治体の人たちの協力を得て、住民たちのそういう駐在員を守る、あるいは地域の団地の人たちの安全を守るというシステムをつくっていくという形になっている。
 これがフィリピンの例です。橋があって、こっちはちゃんと開発した住宅で、売っている土地です。こっちのぐちゃぐちゃしているところはスコッターというのですけれども、不法占拠です。マニラは、首都圏の中から少し外れて、ぎりぎりその首都圏。メトロポリタンマニラ、大マニラ首都圏地区というところから1つ外れた隣の市の川っぷちで、首都圏よりも少し規制が緩い。それで、ここに住んでいる人たちは、いろいろ廃品回収やったり、乗り合いのジープを改良してタクシーの運転手をやったりしています。農村から出てきた人たちで、なかなかアパートを借りたり、家を買ったりできない人たちがいっぱい住んでいて、政府としては、川っぷちに住んでいて危ないから出ていってほしいのですけれども、住むところがないので、洪水があっても戻ってきてしまう。けれども、この人たちのリスクというのをどういうふうにしていくのかということで、いろいろなNGOが協力して、非常にローテクのことをしています。
 これは、もう堤防が全部崩れてしまったので、みんなで川のごみを拾ったりいろいろしながら、自分たちで少し金網をつくって、そこに石を入れて土のうみたいにして、堤防の侵食を防いだり、あと防災訓練をしたりしています。それから一番簡単なローテクなのは、橋の下に住んでいるので、橋に目盛りを刻んだんです。橋の下に係りを置いて、ハンドトーキー、拡声器とサイレンを渡しておいて、ある一定量に増えてきたら、危ないから逃げろと彼女がハンドトーキーで避難をするように言う。その地域、村は広いですから、ほかの何か所かに、それを聞いたら、ハンドマイクで逃げようと言う人を決めておいて、これでこの一、二年の台風、浸水はしたのですけれども、最低限の物は持って逃げられて、家は沈んでしまいましたけれども、全く死者は出ていません。
 それから、みんなで自分たちのマッピングするのです。NGOの人や地理学者が入って、地域の模型をつくってくれる。3Dというので、私は、何かパソコンにでも入ってるデジタルな、しゃれたものなのかなと思って行ったら、ほんとに自分たちでテーブルの上に厚紙で地域の模型つくって、そこに、ここにおばあちゃんが住んでいるとか、ここに生まれたばかりの赤ちゃんがいるとか、ここから冬は風がこっち向きに吹くから、この辺で火事が出たら、あっちに逃げようとか。それから、NGOの資金でボートを自分たちでつくったり買ったり、そろえて、いざというとき避難用にこのボートで訓練していて、若い人たちがお年寄りや赤ちゃんのいる家に駆けつけるのです。それによって、死者は出ていない。
 このプロジェクトではないですけれども、マニラの河川の警報システムで、20数億円のお金をかけて6か所に自動的に川の水位を測定し、10か所の雨量計で急激な水位上昇を予測して、それを全部ネットワークで結んで、海側に水を逃がすのか、湖に戻すのかという、何か所かに流すというシステムをつくった。2002(平成14)年ぐらいに管理を移管したのですが、もらった側がランニングコストがないというので、今回の台風のときには動いていませんでした。唯一動いていたのは、全部で数百万円ぐらいのハンドトーキーとグラスボートのプロジェクトで、これでこの地域の人はだれも死ななかった、そういうことがあるわけです。
 ですから、ふだんの地域、自治会とか伝統芸能保存会、あるいはいろいろなものを普段からどんなふうにお互いが知って、ネットワークしているのだろうかということです。それから、被災したときにいろいろな人たちがどういうふうに協力して動いていくのだろうか。地域の協力と、それから外部NGOの関係がどういうふうに築かれていくのか。
 今回の東北なんかは、コミュニティーも強いですから、地域の自治会やそういう伝統芸能のお祭りやっている人たち、いろいろな共助という、地域でいろいろやっている部分と、外部からはジャパン・プラットフォームという、外務省と経団連の3%基金でつくったNGOがあって、イランとかアフガンとかいろいろなところで人道支援をやっているのです。このジャパン・プラットフォームというのは、どちらかというと資金を確保する団体で、それに対してインターナショナルNGO、先ほどの吉田先生のときにも、いろいろなNGOが活躍しているとのお話しがあったと思いますけれども、そのグループが実働部隊として来て、それに対して、遠野まごころネットという、被災地まで大体山を下れば1時間ぐらいの地域の自治体や社協や個人の有志がつくった団体が、動いたりしたわけです。
 少し事例を申し上げていくと、私は2つ専門があって、1つは災害復興支援の専門、それからもう一つは、日本にいる特に国際結婚したお母さんたち、移民の人の支援というのをソーシャルワークの中で実践と研究が仕事なのですけれども、それはどちらも制度化されていないのです。それでやり始めたのですが、個人のときも地域のときも同じで、まずソーシャルキャピタルの再生。ソーシャルキャピタルとは、人と人との信頼関係みたいなものです。何か起こったときに、自治会みんなで、ずるをせずにおにぎりを分けて、頑張って地域で復興するようにしていこう。あるいは、行政との信頼関係。日ごろいろいろな形で接している地域との関係、それがうまくなっていれば、当たり前の話ですけれども、復興もうまくいく。
 それからストレングスモデル。これは個人支援のときに言うのですけれども、あるアル中の人をつかまえて、その人を支援するのに、「おまえは金にだらしがない。すぐ酒ばっかり飲んで、仕事しない」と。あれだ、これだといっていても、その人、ますますしょげてしまって、「あんたの言うとおりだ。おれはだめだ」といって、しゅんとしてしまいます。あるいは、家庭教師は子どもを叱ることもあるかもしれないけれども、「おまえは算数ができない」とか「計算がのろい」、あほだの馬鹿だの何とかだなんて言っていても始まらない。その子ができる部分、興味のある部分を頑張って褒めながら、エンパワメントというのですけれども、その子が本来もっと発揮できる力に持っていくということ、そういうことをしていこうと実際に被災地で考えました。
 それから、さっきから祭りの話ばかりして、何で災害復興、祭りなのだ。祭りは大切で、特に古くから地域で続いている伝統芸能というのは、それを維持するための資金だったり、踊りを後輩や子どもたち巻き込んで、絶えないように教えていったりするノウハウ、いろいろなものがあるのです。地方だったら盆踊りとかお祭りのときには、市長さんも来る。社会福祉協議会の人も来る。いろいろな人が一緒に挨拶して、みんな顔を見せ合って、やあ、どうしてるという形になって、しかも大勢の人間に炊き出ししたりして、これは防災訓練なのです。だから、日ごろからのそういう関係が、いざというときに頑張れるような状態をつくっていく。
 そこでちょっと事例を紹介してみます。これは実際に大槌で頑張っているのを支援してきた事例です。大槌は三陸の釜石の隣にあるまちです。この辺というのは『遠野物語』という柳田国男が書いた本がありますけれども、こっちで鮭がとれる。それから塩がとれる。それからアワビ、ウニ、カキもとれるという海産物や塩がとれて、この辺で砂鉄とか金山があって、こちらの平野までおりていくと、土地があって、米がとれる。そこを塩や鮭を運んで、こっちから米もらう。海幸山幸を地域で交易して一緒に生きてきた。
 これが大槌の山から、今はこの瓦れきは片づきましたけれども、今もこういう調子で、ただ平らになっています。さっき写真で見たように、もともと三角州、デルタだった部分。全部海に戻ってしまったわけです。
 私がなぜそこに介入したかというと、あるニート系を支援している団体の人が、自分たちゆかりの人が大槌の避難所で困っているから、その人に食料を届けて、安否を確認したいということと、もう一つは、甚大な被害が出て、さっき見たように、市内の町場の避難所に指定していたところが全部流れてしまったので、高校に千何百人とか、弓道場の土間のところに600人とか、みんな人があふれてしまって、それから親戚のうちにも避難した。みんなが避難所に食料をとりに来るけれども、一体、どれだけの人がどこに住んでいて、どれだけいるのか。町もわからないけれども、もう忙しくて確認できないということで、町の避難所担当の人から、そっち、ソーシャルワーカー連れてきてくれるなら、一本の川筋ぞいでいいから、避難所と福祉施設を全部見て、どれだけそこに人がいるのか、見てくれないかということがあって、この避難所に行きあたったのです。
 これは臼澤鹿子踊伝承館です。大槌は一つ一つの集落ごとに伝統芸能を持っていて、大体20ぐらい伝統芸能があるのです。だから、秋祭りのときには、その20団体から各団体50人から100人ぐらい踊る人が2,000人近く練り歩いて、それが終わると、それぞれのグループはそれぞれの集落、新盆の家に行って踊って、お布施をもらったり、あるいはお祝いだといっておめでたい踊りでお花代をもらったりとか、そういう形でそのお祭りを維持していたのです。
 この集落の人たちは地震が起きた日に、何か大変なことが起こった、人がどんどん逃げてくるということで、3升のガス釜を2つ持っていたので、婦人部の人たちを動員した。農家も多かったので、米を100キロ出してもらって、おにぎりをその日、400個用意して、逃げてきて車で寝ている人や、近くの避難所なんかで食べ物全くない状態だったから、そこに配ったりしていたのです。それで、ちょうどその調査しているときに行き当たって、この中もいっぱい人がいた。私たちの大学とか中国の大学とか幾つかのNGOで、ここのグループは頑張ってファイティングポーズを撮って、復興の先陣を切れそうだから支援しようと、こういう状態で、食糧と寝場所はあるというので、皆さんと寝食を共にして何ができるかお伺いしました。
 ここがうまくいったのは、1つは、被災者の代表の人と、引き受けている地域の集落の人両方から、避難所の世話役代表を選んだのです。それから食事も、このぐらいの規模だから、地域の人と、被災してきているお母さんたちの中で料理ができる人、その人たちを食事の当番にして、みんなで、これだけ物資が入った。これだけ菜っ葉があるって、みんなで知った上で、では、どういうふうに献立しようってやっていたから、避難してきた人がただ寝て食べているだけでもないし、お互いにこれだけのものをこれだけで回しているのだって理解しながらやっている。それから、ここは昼間になると、大体おばあちゃんと、まだ仕事してないお母さんと小さい子どもが遊んでいて、男たちは外側にブルーテントたてて、ずっとそっちにいるのですね。それで、男女の空間というのも、奥が着がえ用になっていて、しばらくするとジェンダー的な、女性の空間がなくて差別されているからってチラシが回ってきたのですけれども、そんなのがなくても、もう昼間のここは、言い方悪いですけど、女の人、子ども、お年寄りの居間だと。男たちは外に出ていて、たばこ吸ったり、かなりの人は瓦れき整理に行っていたりしたんですけれども、中にいないみたいな形で、空間も丁寧に分けたりしていたのです。
 これは、子どもたちの学習支援に花巻のほうから先生たちが来てくれて、子どもたちは、春休みとか長くなってしまったので、みんな各地域に来て勉強教えたりしてくれています。
 これは別のプロジェクトで、もうとにかくいろいろな物資のミスマッチも多い。コンビニはわりと早く、コンビニ偉いと思ったのですけれども、地域に物を供するのは自分たちの義務だと、プレハブでも何でもどんどん早く大手のコンビニ業者が復興して、朝から晩まで、みんなそこ買いに来ていました。
 だけど、そこには少年ジャンプや新聞やビールやたばこはあっても、小さい子どもの絵本はなかった。それで、幼稚園も図書館も流されていたんで、大体5月の頭ぐらいになると、宅配便が復活したので、ネットで本や食品雑貨の販売をするamazonの「ほしい物リスト」という、友達に、僕、これ欲しいってリストあげるやつがあるんです。それで、この避難所で子どもたちがいっぱいいたので、子どもたちが欲しい本というのを、自分の知っているいろんなお母さんたちに、あなたたちが読んで、子どもに読み聞かせたい本は何ですかとか、地元の人たちにも聞いて、どんどんリストを、これ欲しいってあげていくんです。そうすると、だれかがクリックしてプレゼントしてくれて、毎日こうやって本が届くようになった。
 もっとも1月になると、ユネスコのほうで、いい本を見繕ったのが段ボールでばんばん届くようになったのです。  それから自衛隊です。自衛隊は非常にすばらしい働きをした。北海道第7師団、日本唯一の機甲師団って戦車部隊を持っている日本最大の部隊が駐屯していて、この部隊は国際協力の災害出動でも経験がある。すぐ船で、秋田や盛岡に渡ってきた。ただ、道が壊れていたので、結局来るのに3日かかった。
 米軍のほうが早かったのは、揚陸艇というのですか、地上最大の作戦とかいろいろでありますよね、海岸沿いに桟橋がなくても、揚陸艇で揚げていって、兵隊さんを降ろせる。それからヘリコプター空母があって、上陸できないところでも強制的に物資を落とせるみたいな仕組み。
 こういうのは今回、課題で、近隣諸国からいろいろ言われるかもしれないけれども、災害って部分でいうと、ヘリコプターが二、三機乗っかっている船、それから病院船、これもずっと前から、日本財団さんかどっかつくってくれないですかって提案しているのですけれども、例えば400床から600床の病院船を1つ持っていて、赤十字か自衛隊、海自が持っていてくれたならば、こういうとき、ぽーんと沖に置いて、ヘリコプターでどんどん搬送すれば、いきなり中核病院ができてしまうわけです。平時はどうしていればいいかといったら、それは瀬戸内海とかいろいろ離島のところをめぐって地域病院で使っていて、緊急事態になったらそちらにみたいなのがあれば。
 だけども、こういうふうに避難所のアセスというのは、赤十字も社協も地元自治体も損害甚大で、被災者、避難者の数が多かったので、全部自衛隊がやっていました。例えば、女性が多いから、下着の問題があるといったら、洗剤だけじゃなくて、そういう乳化剤、どんなのが要るかとか。それから乾燥機を置きたいという人がいたら、乾燥機を装備しようとか、それからおむつでも、前あきか、すぽんとはくやつかとかいろいろなことを自衛隊の人がリストにして持ってきて聞いた。私もそれで自衛隊の人に、「これ、だれで考えているのか。社協かどこか福祉課と相談しているのか」って。「いや、私たちが司令部に持って帰って、あがっていった要望を全部そこで、女性自衛官含めてみんなで相談して、物資の注文して」、物資のテントも最初は簡単でしたけれども、最後は、丁寧に段ボールの箱を細かく分けて、これはティッシュ、これは何って一つ一つ入れて、ちゃんとそれがピックアップして、各避難所に配れるように、もう物資センターみたいになっていた。
 最後の2週間だけは、もうびっくりしたのですけれども、アイパッドみたいなタブレットが各避難所に配られて、それの画面を見ながら、何番何番ってこっちのリストで押すと、それが幾つというので、それでぴっとメールでいって。そこまですごく、かつ緻密にやっていたのです。
 お風呂も彼らがつくってくれた。男女のお風呂をつくって、真ん中に大きいテントをつくって、お母さん、頭を洗ったり、女風呂のほうが混んでいますからゆっくりになるので、子どもたちやお父ちゃんが一緒に待って帰れるように、銭湯みたいな感じですよね。大きなテントを張って、そこに夏は冷えた麦茶があって、扇風機が回っていて、寄附してくれた綿棒とか、チラシが置いてあった。女湯の側は女性自衛官が何名かちゃんと固めて見ててくれて、痴漢も出ないし、みんな気持ちよく入れるように案内していた。男湯の側はお兄さんが立っていて、そういう細かい配慮を非常にうまくしていた。
 これは、さっき言っていた個宅避難、個人宅避難の人たちもいっぱいいて、買い物もできないし、ガソリンも手に入りません。そうすると、個人宅で何人避難しているという登録しておいて、この人たち、こっち側は被災した人なのですけれども、避難所の被災した人なんかも、ある時間はそこの配給センターに立って、みんなに物を配るってことをやったりしていたのです。
 最初のころは椅子もなかったから、男は外で立ってご飯を食べていた。女性と子どもだけが室内のテーブルで座って食べていて、男はみんな外で立って食べていた。このころになると、椅子もいろいろ調達して、テーブルも来た。
 さっき言ったように、この地域は非常にお祭りが盛んです。私たちが入ったこの集落は中山間地にあるので、家族亡くなったり、自分の印刷工場流されたりいろいろあったけれども、少なくとも基本的部分の住宅は残っていて、基本的な部分の道具は残っていた。だから踊れる。では、踊ればいいんじゃないかということです。だけど、浜のほうもう大勢亡くなって、人口の1割を失いましたから、こんなときに笛や太鼓で踊っていいのだろうかって、みんなすごく悩んでいたのです。三陸はご存じのように、明治にも昭和にも津波が来たけれども、このときも長老たちは頑張って踊れと。厄払いにもなるし、鎮魂にもなるし。踊らなかったら、もう小さな村一つ一つの伝統芸能なんか絶えてしまうというので、この人たちはもう踊ろうと思っていたんです。
 四十九日明けが4月末で、5月1日、メーデーの日はもう四十九日明けだから、私のほうも、もし踊るのだったら、多分、全国が助けてくれると。今までは地域の花代でもっていたけれども、こんな災難があったら、日本中、みんな助けてくれるから、もしよかったら宣伝してみようと提案をしたんです。それで、それやろうというので、彼らがポスターをつくって、私のほうはソーシャルワーク、社会福祉関係や、それから企業で社会貢献で新聞記者と仲のいい人みんなにメール打ったり電話かけて、とにかく新聞記者とカメラマン、5月1日、この地域によこしてくれって、一生懸命頼んだのです。
 それで、この方が、Yさんという方なのですけれども、持っている写真はおじいちゃん、おばあちゃんとだんなさんの写真です。みんな流されて亡くなってしまったのです。この方は幕末の飢饉のときに地域で、もう食う物もなくて、祭りができないというときに、地域の踊っている人たちが、Y家は裕福な網元さんだったので、みんなで祭りのために米を出してくれないかって頼みに行ったとき、この人のひいおじいさんがどーんと出してくれて。だから今でも祭りのときはこのうちに必ずお礼に踊りに行くといううちなのですけれども、みんな亡くなってしまった。だけど、「父も夫も祭りが好きだったから、踊ってくれてうれしい」といって、来てくださったのですね。前にいるのが大学生の女の子で、この子だけが残ったのですね。
 そうしたら、そういう記事が主要な新聞全部に写真入りで記事が出て、それから5月2日の朝のテレビニュースで連休の被災地の模様というので、みんなが踊っている模様が放送された。
 それを聞いた秋篠宮殿下ご夫妻がお二人で、頑張っているなら慰問に行きたいとおっしゃってくださった。私たちは、そのときに、被災者。被災者慰問なのですけれども、そういう伝統芸能で頑張って祭りをやるということ、地域興しになるので、いろいろ伝統芸能の道具を直しているところも見てほしいということで、町を通じて宮内庁のほうにお願いしたら、宮内庁のほうで、では、被災者慰問と伝統芸能復興のための視察ということにしますということで、来てくださったんです。
 まあ踊りはといっていたのだけれども、高校早退した若い人が控えていて、ジーンズだったのだけど、太鼓たたいたりしていたら、殿下が「どんなふうに踊るんですか」というんで、みんな、ぱっと外出て、踊りを見てもらって。殿下ご夫妻とお話ししているこの人が支援に来てくれた中国の大学の先生です。私が彼女に、「私は社会開発だから、三、四か月後に、緊急支援が落ち着いてから被災地入る」といったら、この先生に「いや、今回、広域に中小規模の自治体が破壊され地域は機能麻痺しているから、すぐ行って、何が起こっているか確かめて、何が支援できるかしらべなければ」って言われて、それで私は被災地に飛び込んだのです。
 それで、秋篠宮殿下もいらして、「皆さん、踊って元気ですね」って仰ってくれたら、地元の人たちで自粛しようといっていた人たちも、そうかなと思った。そうすると、毎日夜になると、この人たちは虎舞、海岸沿いに住んでいた人たちなのですけれども、何かそういうふうにどこかの財団からお金取るってプロジェクトあるみたいだけど、申請したらもらえるかなとかいろいろ相談に来て、それで、お祭りしようという空気がどんどん広がっていったのです。
 私たちは、日本財団から、出せば取れる100万円ぐらいのROADという支援のお金があったのですけれども、そこに出したら、ひとつの団体がとれた。他の団体も次々出したら「いや、これは別に無形文化財、伝統芸能復興のじゃないから、どの団体にも出せませんよ」と言われたので、逆に、伝統芸能復興のためのデスクつくって、伝統芸能復興は3歳から70歳まで地域が踊る、地域興し、地域福祉プロジェクトだと。そのための東日本沿岸の基金をつくってくれと、今度お願いしたのです。
 いろいろな人を通じて日本財団にも行って、そしたら日本財団が、ストラディヴァリウスを20本持っているんです。イタリアの有名な1本何億円というバイオリンを20本持っていて、これをバイオリニストに無償で貸すということを一つの音楽振興にしているのですけれども、一番いいやつを1本、ロンドンでオークションにかけてくれたのです。バイロンの娘さんが持っていたというレディ・ブラントというバイオリン、これが何と12億7,000万円で落札されて、約束どおり12億7,000万円の基金をつくってくれました。これは大槌再興祭りの写真です。いろいろ復興の祭りやるのだったら、地元の伝統芸能。よその芸人はいいから、地元の人たち、どんどん踊る場所をつくってくれといったら、臼澤鹿子踊と大槌虎舞協議会が舞うことになった、その時間になったら前のほう、みんなもうどこから出てきたんだろうというぐらい子ども出てきて、お父ちゃんやお兄ちゃん踊っているから、子どもたちももう前のほうに張りついた。
 この方も虎舞の代表で、地元のライオンズクラブの会長さんやっていた人なのですけれども、事業所を流されて、家も流されて、それから奥さんも流されて行方不明なのです。だけど、みんな若い人たちが踊って頑張っているので、自分も頑張ると。
 そんなこんなで弾みがつくと、県庁所在地でも、これは南部藩の神社だったのですけれども、そこに、三陸の被災した人たちが来て踊ってくれって誘いがかかる。それで、みんなで踊って、それからもう一つは、地域で避難所ができて、さらに仮設住宅ができていくので、そこで、まちが、みんなばらばらに入っているので、地域のための居場所をつくろうということで、まごころ広場うすざわを臼澤地区につくった。臼澤良一さんって方が、自分も流されながらNGOつくって、広場つくりたいといって。そこに、また提案をして、こうやってみんな集まってきた。
 最初は、ボランティアの人たちがお茶菓子持ってきて、お茶出すというコンセプトだったのですけれども、そのうち、地域で被災したおばあちゃんなんかが、せっかくボランティアの人が遠方から来て、いろいろするのだから、私ら今、暇で、することないといったら、自分たちでそこに賄いしに来てくれたり、野菜や手に入れたものを持ってきて料理したりして、みんな、食べていってくれというのです。
 それで、土・日は、遠野まごころネットから支援を受けたので、まごころ広場って命名したのですけれども、何か私のネーミングが採用されたみたいで、忘れていたのです。そこを土・日はお祭り広場にして、地域で秋祭りのために練習したり、頑張りたいって団体がいたら、道具がないならジーンズでもいいから来て踊ってくれないかという提案をしたのです。
 そうすると、どんどんいろいろな団体が手を挙げて、外の団体も、おれたちも慰問したいと来ているのですけれども、中の団体で、地域の人たちが踊った。これなんか虎舞、最初の1回は虎舞でやろうと。虎舞は4団体あるのですけれども、みんな流されてしまっていたから、4団体集まらないと、道具と太鼓がそろわないのです。向川原とか各地区名がついた虎舞なのです。大槌鹿子舞協議会という名前にして、みんなで踊ってくれた。この日、雨降りそうになってしまって、ご存じのように、こんな小さなテントで、人の座るところしかないから、もうどうしよう、雨が降ったら中止かなと思ったら、長距離トラックの運転手さんが、おれのトラックを使えといって、荷物をおろして駆けつけてくれた。横アキの荷台をぽーんとあけてくれて、それでステージができてしまったりしたのです。
 いろいろな人が来てくれて、いろいろなNGOが来てくれて、いろいろな新聞、この新聞もそうです。とにかく外部の人が入ってきて、いろいろ報告するけれども、地元の、まして子どもは声を上げてないから、子どもたちにデジカメを配って、子どもの目で写真撮って、こんな気持ちだよ、被災地ってこんななのだよ、自分の日常ってこんななんだよみたいなのをあげて、これを今度、英語訳して、世界的なネットワークのNGOのホームページに掲載する。
 日本財団が13億円のファンドつくったのなら、町会議長さんがこの地域の伝統連合会の会長さんだったので、その人たちや県の文化審議会の人とかみんな集めて、山車は500万円にしよう、それから太鼓は1個50万円で発注しようみたいな相談して、みんなで見積もりをつくって、それで申請して7660万円、インターナショナルケアとあわせて1億円いただきました。
 それから、これももう一つのプロジェクトで、三陸海の盆というので、8月11日、半年後の小月命日に。最初は大阪の芸人が来る。外の芸人がいっぱい来るから、それでやろうといったんだけれども、地域の、三陸の伝統芸能メーンで固めたらどうですかというので、結局、石川さゆりさんは特別ゲストで来ていただいたのですが、あとは全部、地域の、ほとんどかなりの部分は被災した団体みんなに来てもらった。1日踊って、その後、お坊さんにお焼香して鎮魂する形で、お盆の祭りができた。
 それから今年は山車がかなり宮大工さんにいったのができた。そういうのがあると、いろいろ皆さん戻ってくるし、それから、その祭りの伝統芸能グループがうまくなっていくと、それというのは、各地域の自治会を兼任したみたいな人たちが多いですから、一緒にそういうことで弾みがついていくと、相談が始まるんです。祭りの準備だけじゃなくて、次は、どこに家建てるのだ、どのぐらい進んでいるのだろうとか、もう定置網打たなきゃいけないじゃないかとか、そういうのでもいろいろ弾みがついていくから、もうとにかく地域の団体を元気にしていくということが、復興一番のことなのだということがあります。それが先ほど言っていたようなことです。
 では、次はちょっと脆弱性についてです。神戸の方も多いかと思います。実際に神戸阪神で起こったことというのは、高齢者、低所得者、外国人などの死亡率が、人口比に比べて非常に高いわけです。それはなぜかというと、非常に簡単で、低所得の高齢者の人は町なかの昔田んぼだったところに文化住宅を建てたり、いろいろいたところに残られていた。それから、住宅改良事業ができなかった旧同和地区の部分も、非常に危ないところに高齢者の方だけがまだ残って住んでいた。それから外国人研修生、留学生の人も、そういう、もうだんだん日本人が敬遠するような安い古い木造アパートに住んでいたので、これは危なかったから、そこにいた人は下敷きになったりしたと。ですから例えば当時の兵庫県の地域留学生推進会というのが自分たちでとった統計ですけれども、留学生2,000人ぐらいに聞いてみたら、500人近くが、下宿は居住不能ですっていっていたというわけです。もともと安いけれどリスクのあるところに住んでいた。
 ですから、震災というのはだれにも平等に襲いかかるのではなくて、脆弱な部分、低所得の方で、危ない木造住宅、ほんとは改良したほうがいいというようなところに住んでいる人たちに大きな被害をもたらす。そういうことがあるわけです。あるいは、留学生や外国人の研修生で、あんまりお金がないから、安いアパートに住んでいた人。
 さて、こういうことが起こったのは何なのかというと、別にこれは神戸だけが悪いわけではないのですけれども、日本の住宅政策は階層別ですからということがあるわけです。それと、神戸は都市開発は熱心にやった。まず、埋立地の人工島をつくって、ここに工場を誘致しようと思ったけれども、もう工業化の時代が終わっていたので、次は住宅に切りかえた。住宅に切りかえて、例えば、神戸市、新神戸駅のそばにあった病院は、新しく住宅地として売り出そうとした。これなかなか一遍に売れなかったから、そこに病院を移してしまったりとか、いろいろなことをしていったわけです。あるいは地権も複雑で、長田区の改造は進まなかった。そもそも水道も弱かったし、消火防水用水池もあまりつくらなかったし、開発はしたけれども、きつい言い方をすると、デベロッパーとしての発展はみたけれども、行政がやるべき社会的弱者のリスクをとるのはあまりしてなかった。だから、こういうことが起こってしまったのだということはあるわけです。
 これは、昔の厚生白書です。昭和33年、人口問題と経済問題とのひずみに我が国は揺れている。社会的格差というのは、立ちはだかる黒い壁なのだ。私たちはどうこれと戦っていくか。こういう形で、私たちは国民皆保険をつくったり、いろいろしていったわけなのです。
 では、ほかに避難所でどういうことが起こったかというと、ユニバーサルデザイン的な配慮です。外国人のためのサインがあるのかとか、あるいは、実際に足腰が弱い方いますから、西洋便器じゃないというのだけれども、それがないと大変なことになる。あるいは、いろいろな避難所で大勢来ると、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えていて授乳しなきゃいけないとか、それからおりものいろいろ出たりするので、どこか体を拭く空間が欲しいといっても、男目線だと、そんなもの、ぜいたく言っていないで、便所でやれみたいというような。そうではないということです。
 あるいは、糖尿病も腹出して打たなきゃいけないのです。それで、性同一性障害でホルモンを打っている人などは、その説明をするのも大変だし、もうどこか落ちついた囲いがなければ、便所の片隅で注射を打ってくれといっても、ほんとに大変なのだけれども、そういう少数者のことというのはなかなかわかりにくいって、いろいろな問題が浮き彫りに出てきました。
 あるいは、多言語サイン計画という、これは仙台市の国際交流協会がいいことをしていて、多言語で「避難所」とか「トイレ」とか「水」とか出すんです。そうすると、外国人の人も、これは日本人のためだけじゃなくて、私たちも入っていいんだみたいなことを理解できるわけです。
 それから、実際にこれは神戸の問題だけではなくて、日本というのはおもしろくて、居住保障法、これが社会保障体系の中に位置づけられていない非常に珍しい先進国なのです。ヴィバリッジ報告、ゆりかごから墓場までという、日本はこの社会政策デザインをまねしたんですけれども、国民健康保険法、労災、まだ労働能力のない子どもに対して児童手当を出したり、もろもろと同時に、当時のイギリスは復員してきた兵隊さんたちがいっぱいで、住宅を安く供給するために農村土地計画法というのをつけて、農村部での住宅開発、もうかった分を全部、都市近郊の農家の人やデベロッパーに渡すのではなくて、国も規制して、みんなのおかげで土地は高くなったのだから、土地値上がりのキャピタルコストを公的部門の住宅供給費用にも使う。あるいはご存じのように、今はそれはつくり過ぎではないかというけれども、公共住宅なんかもつくったのですけれども、日本は公的住宅の割合も、先進国の中で一番低いですし、そういう脆弱性が、神戸でも居住の部分でひどいから、いろいろ生まれてしまった。
 それから地域福祉計画だと、地域福祉の主体ってだれかというと、地域住民、地域行政、それから地域のそういう社会福祉事業をやっている人たちみんなです。みんながやるということは、その人たちの権利でもあるし、義務なのですけれども、なかなかこれがやりにくい。特に外国人とか制度化されてない部分です。日本は住宅については住居法ができたけれども、これは別に憲法でいうところの生活権を保障するために居住を保障する法律はないです。それから外国人は入管法で、管理する法律はあるけれども、外国人で日本国籍を持っていない人たちの人権を守るという法律は、日本にはないです。そういうないところというのは非常に弱いし、法律があっても、啓発や施策が弱いところは、特に災害が来ると、痛めつけられてしまうわけです。
 自治会、子ども会、青年団、婦人会、老人クラブ、いろいろ年齢階層、いろいろなのがありましたけれども、今多分、都市郊外なんかだと、同じ時代に家を買って、同じように年とっていくから、自治会長さん含めて、みんな年寄りになってしまって、子どもたちは別のところで家を買って住んでいるから、高齢者しかいないというと、もう子ども会は、成り立たない。小学校の行事にだれも関心を持たないというと、地域は、なかなか回っていってくれないとか、そういうことが起こっているわけです。
 それに対して、新しく入ってきた外国人の団体や、国際結婚したお嫁さん、あるいは三重、愛知なんかに多い自動車工業の周りは、日系ブラジル人の人が非常に多く住んでいるのですけれども、そういう人たちのことは地域の人にはなかなか見えにくい。
 それからもう一つ、外国人を含めた子どもという部分でいうと、子どもの貧困というのは、日本は自慢するわけではないのですけれども、OECD30か国というと、アメリカ、イギリス、フランス、その他もろもろ主要な先進国を全部並べた中で、ひとり親家庭の相対的貧困率というのは最低なのです。相対的貧困率というのはどのぐらいかというと、全国民の等価可処分所得(世帯の可処分 所得を世帯員数の平方根で割った値)が全国民の等価可処分所得の中央値の半分ですから、子どもと3人で暮らしていて、年収が110.5万円以下の家庭です。この場合はひとり親ですから、2人で、110.5万円以下というのが過半数を占めています。
 それから就学援助については、親がうそついて申告していないのではないか、いろいろありますけれども、給食費その他を補助するという人たちは、全国平均で15%。今、被災地ではどこも伸びてしまって、どの自治体も大体五、六割を超えています。
 それから義務教育について見たとき、日本が誇るべきは、明治の時代にアジアで最初に小学校を義務教育化して頑張った。それから戦後、アメリカに負けた後は中学校も義務教育化して、アジアの中で一番プライマリーエデュケーション部分を頑張ったのですけれども、高校からは義務ではない。それから幼稚園も同じ。だからどうなるかというと、家と幼稚園と高校、大学の学費は親の自己責任で、そういう仕組みの中の社会保障があるわけです。
 これは真逆の話なのですけれども、皆さん人権をやっていたりすると、貧困の連鎖とか、差別されてしまった人たちというのが、住居もひどいし、教育権はなかなかなくて、その人たちがある程度の学歴を形成して仲間として頑張っていけないということが大変だから、それに心を砕いていこうというのは当たり前の話なのですが、社会福祉全般や、特に例えば外国人をやっている人たちというのは国際交流の人が多いですから、よくわかっていない。
 それから、今、被災地に全国から大きなNGOが入ってくるけれども、彼らも、途上国でちょっとやっていた人はいいかもしれないけれども、日本国内でやっていると、霞が関も自治体も地域もそれなりにしっかりしたところでNGOをやっていた人たちは、その地域の人たちの子どもの教育とか住居とか、それからその人たちが一見、自治会はボスが牛耳っていてだらしないからとか、いろいろ思うのか、地域の人たちがその人たちの団体として頑張って、自分たちの中で、これしたい、あれしたいとか、仲間の中で、この人には生活支援のお金を配るべきだとかやっていくというルールをそれなりに積み上げてきたということを理解していないので、被災地の外の団体が自分たちでやりたがる。「団体をつくったら面倒くさいですよ、先生」って。「だからもう、こっちが一本釣りでやっていけばいいのです」ということが今、被災地で起こっていて、これは新しいタイプの人権侵害で、非常に嘆かわしいんですけれども、そういうことが起こったりしています。
 それから、今、例えば入りやすい公立校、私立、インターナショナルスクールって、大体普通のいいところで年間、学費だけで1人、小学校で200万円ぐらいかかってしまうのです。2人目は半分に負けてくれるけれども、2人いたら年間300万円で、小学校1年生からスタートしていって、中学校、高校まで行ったら、幾らになってしまうでしょう。だから、大体これは外国人駐在員とか豊かな人をメーンターゲットにしているわけです。
 それから、前に問題になった日系ブラジル人の学校も、日系人ビジネスで朝7時に来て、夜7時まで預かって、バスで送り迎えしてくれるし、先生たちはポルトガル語で愚痴や要求も聞いてくれてよかったけれども、必ずしも教員資格がない人を含めてやっていて、大体1人から3万円から5万円を取っていたと思います。だから、リーマンショック起きて、みんな派遣切りされてしまうと、全部、首になって、子どもの学費が払えなくてブラジル学校にはいかない。地域の学校にふってくるから、不登校になってしまうわけですね。
 三重県は、国会議員と県議と市会議員、超党派で多文化共生を考える会というのをつくって、NGOと会合を持っているんで、非常に地域からのグラスルーツからのボトムアップがいいんです。特に鈴鹿は、そういう外国人を含めた教育の小学校のモデルになっていると思うのですけれども、なぜかというのは、教育長、日系人の子どもの教育を多文化共生でなく人権として考え、教育部の人権教育課が扱っているんです。大抵のところは多文化課とか国際課が扱っていて、だからほかのお母さんたちに「お金もないのに何で外人のためにそんなに使うのよ」って言われると、「ああ、そうですね」っていうのだけど、人権課ですから、胸張って、「いやいや、この子たちの教育権はちゃんとしなきゃいけません」という。
 それから、ある時期は効率化を考えれば、どこかの小学校を全部外国人にしてしまって、全部バスでそこに送り込んでというほうが効率的でしょうといったときに、教育長はそれはだめだと、1か所だけに集中したら、ほかの地元の子たちと交わらないし、予算切られたら、そこの学校だけが低レベルになっていくから、基本的に幾つか日本語教育を頑張るところは何か所拠点でつけるけれども、基本的には一緒の学校に一緒に通う。体育とか図工とかまぜればいいと、もう信念を貫いて、拠点校化してどこかに全部集めるってしなかったのです。これは皆さんいろいろな教育をやっていたら、そういうことが今までの日本の歴史の中でも起こってしまったということをご存じでしょうけれども、そういうことをきちんとしていくということがすごく大切です。
 ここでは、日本の学校生活への適応、編入受け入れ態勢、それから私が提言したのは、教育と福祉を連携させて、相談員は多分、子どもが低所得だったり、家が狭かったり、お母ちゃんが殴られていたり、いろいろな問題を含めて、それがあったら、子どもは学校に普通に朝元気に通えないから、教育と福祉を厚生労働省と文部科学省で連携して、いろいろな人材配置をしてほしいということを強く言ったのです。
 次は、では今、被災地でいろいろ外国籍等、外国籍等といっている、何かというと、いろいろな言い方しているのです。定住外国人という言い方は抵抗が少ない。定住外国人のカテゴリーに入るのは、ほぼ日系中南米人だけです。在日コリアンの人は入らないし、中国系も入らない。それをいうと文句がないけれども、外国籍というと、拉致した国の国民を助けるのかって文句が来たりとかいろいろあります。でも、私は、外国籍等としたのは、これでいったほうがいい。外国籍を持っている人もいるのです。例えば、日本人と結婚したフィリピン人のお母さん。まだ定住だったり、永住取ってなかったりして。だけど、子どもは日本国籍持っている人もいる。たまたまその子は親が離婚してしまって、フィリピンでおばあちゃんに小6まで育てられていたかもしれないというと、日本語ができない。いろいろな人がいるわけです。
 それから在日コリアンの人でも、三世になったら、あんまり韓国語はうまくない人もいるし、いろいろなのですけれども、そういういろいろな人たち、外国につながりのある人たち全体をサービスしていくときにどうしようというので、今、テキスト、教本とかをつくっているのです。これは当たり前の話です。人権というものを私たちの価値なのだと憲法が保障している。サービス利用者本位の質の高い福祉サービスの開発と提供に努めて、利用者の自立、自己実現を目指すために、私たちは行政とともに、こういう外国籍等の福祉相談サービスを行っていくのです。
 理念というのは社会福祉法に基づくもの、同じです。生活権、居住権、社会権、教育権など、憲法及び国際人権条約で、日本に住むすべての人に保障された人権擁護、個人の尊厳の保持とその利用者がその有する能力に応じて自立した日常生活を営むことができるように、その人たちを励まして支援していくということが、私たちの業務です。
 サービスの利用は主体者なのだと。それで、それは地域住民、特に外国籍等の当事者、当事者という言葉がすごく大切で、多分、関西でこれをやっている方は、当事者というのが大切だし、大変なのだということをものすごくよくわかっていると思いますけれども、今、多分、名古屋よりこっち側で外国人を支援やったりいろいろしていると、不思議なことに、理事も基幹メンバーも、ひとりも外国人当事者がいなかったりするのです。外国人はパートナーでなくパートでは雇っている。そういうふうになってきてしまうと、助けてあげるで、当事者団体を形成すると、面倒くさくなって、摩擦が起こるからしなくていいという風になってしまう。当事者の人たちが声を上げたときに、そこにどうちゃんとつき合っていくのかということが今後、外国籍等支援についても、求められていくと思います。ですから、それをどういうふうにしていくかということが、非常に大切になってくる。これは、別に外国籍等支援だけではなくて、差別されている人、先住民族の人、障がい者の人、セクシュアルマイノリティの人、女性、全部です。
 これはどんなふうにしていくのかというのは、都道府県、皆さんの人権擁護の仕組みと同じだと思うのです。都道府県、市町村にあって、それから、ある部分では地域、生活圏域にきめ細かく入っていくのです。
 それから、特に今、外国人支援で足りないのは、自助グループが形成されつつあるのだから、それを丁寧に、その人たちがちゃんとした人権を守って、ちゃんとした自分たちの道理の通った主張をしていくという形に、自分たちで育てていくというのを最大限支援していくということ。
 それから、ここから先はどうだかわからないのですけれども、生活支援戦略で、社会的包摂をどうしていくのか。個別の福祉サービスだけではなくて、老人、障がい者、児童、性的少数者、外国籍等市民、あらゆる相談業務を統合して行こうと考えている。これはワンストップにして、それぞれそれを支えている業務やっている専門職や経験者や団体は、私はそれぞれ今まであるものを尊重してやっていくのだというふうに考えています。
 それからその中で、もう福祉事務所もそろそろ民活でNPOに任せてしまうみたいなことも出てきていて、どれだけどうなのだろうって。それだけ実力ある団体が出てくるのだろうかとか、その人たちの待遇保障とか大丈夫なのだろうとか心配するところはあるのですけれども、そういうものをNPO含めて、もっとその人たちに役割を担って、予算を渡して、かつ、その人たちがちゃんと管理して、これものすごく難しいのですね。大体、どかっと震災かなんかでお金をもらうと、どんぶり勘定になってしまって、どこへ行ったかわからなくなったということが、今起こりつつあるんで、それを丁寧に、起こさないようにしていくことが非常に大変なことだし、大切なことです。どういうふうに、こういういろいろなサービスを持っていくのか。
 最後、まとめになります。復興支援の原則。これは当たり前なのですけれども、今、結構いろいろな人が、あなたはどうして被災地に来ましたかというと、考えていないかもしれません。復興支援の原則というのは、人権及び公平性の回復です。
 この公平で、少し注意しなければいけないのは、先ほど言ったように、授乳したいお母さんと、別にTシャツ脱いで身体をタオルで拭いても、まあいいやという人と、その全部に対して更衣室をとかいうふうな平等ではなくて、それぞれの少数者のニーズというのは丁寧に優先しなければいけない。被災した全ての人びとの人権を促進し、公平と無差別の原則に基づきながら、人権侵害のリスクが高い状態にある個人および人びとをスティグマを与えないよう(偏見を与えないよう)配慮しながら保護しなければならない。
 それから、私たちがその地域復興していくときに見えるのは、その地域の人たちを主体にして、その人たちが最大限きちんと、これは民主主義的なルールに沿った上で、主体的に活動していくという環境を整えていかなければならない。だから、各セクター、いろいろなNGOやいろいろな団体が主体的にかかわり、かつ公正に管理できるようにということをしていかなければいけない。NGOだったり、有識者として委員会に入った人、あるいは行政としてこれらを管理したりとか促進、育成したりしている人たちに求められるのは、被災者主体、ここの部分なわけです。非常に難しいことなのですけれども。
 それから、害を与えない。これは当たり前のことですけれども、今、結構、害を与えているのです。大手のNGOが被災地に入ってくると、おれたちがやってやると。あんたらじゃ、100人、人を集めるのが大変だろうと、東京から派遣業者を呼んできて、集会所に何時から何時に失業している人、履歴書を持ってきたら全部採用して、地域支援で仮設の見回りやれという。私はその人たちに、「いや、そうじゃなくて、もう数週間かかっても、自治会長さん、それから地域の社協、民生委員さんに聞いて、あの人が向いているよって推薦を受けて、それを混ぜていかないと、ひどいことになるよ」といったけれども、彼らは、「いや、我々は専門家だ」といって、「金も持っているし、ノウハウも持っている。マニュアルも持っているんだ」といって、ばあっといろいろな地域から100人集める。
 そうすると、その仮設からは人が応募してこないと、ほかの仮設から9時─5時、通ってくるのです。9時─5時通ってくるから、6時に津波警報鳴って、ひとり住まいのお年寄りが、ああ、また津波かしら、ここは大丈夫なのだけど、怖いわって出てきたって、だれも集会所のかぎをあけません。地域にいない地域支援員ですから。
 それから、そういうふうにマニュアルでやってしまうと、皆さんもわかるかもしれないですけれども、人の支援とか、人のそういうことをやるというのは向き不向きがありますから、マニュアルで朝10時に1回、ドアをたたけと。午後2時に1回、ドアをたたいて、安否確認しろというと、もうマニュアルでやるのです。だけど、このうちは赤ちゃん寝ているから、2時にはたたかないほうがいいとか、しばらくそこに駐在していれば、このおばあちゃんはデイケアに行っているとか、このうちのおばあちゃん、あんまり外に出てないみたいだ。心配だって、入ってくるはずなのですけど、お金もらって9時─5時で、わからないことあったら、ケータイでサブマネに電話かければといっていたら、もうそのとおりやってしまいます。
 今日の会議で問題になっていたのですけど、あるまちで、集会所で4人駐在している目の前で、おばあちゃんが死んでいたけど、1週間、だれもわからなかった。たたいたけど、いなかったからといって、マニュアルどおりやってました、みたいになるわけです。地元の人はもう怒っちゃうわけです。私もその地域の自治会の奥さんなんかで仕事していない人に「あなたもあの支援員になってくれ、あなた、地域詳しいから」といって、最初なるのだけれども、もう2週間ぐらいでやめてしまうのです。「こんな、税金もらって、お金もらってやっているって、あんなもの。たばこ吸いながら、人のうちのドアをガンガン笑いながらたたいているみたいな人間と同じだと思われたら、私はもう地域にいられません。先生、ごめんなさい、やめます」って、そういうことも起きてしまうのです。だから、それはもうほんとに、外から入ってくると大変なことになってしまう。
 それから、どのような被災者も地域に立脚する。自分たちの強み。東北の人たちだって、たまたま運が悪くて、家と仕事と自動車を失ってしまっただけで、それまでしっかり働いていたのですから、その人たちがまた自尊心を持って自立できるように、財政だけではなくて希望も、何年後にこんなことができる。外から来た人はやってあげる上から目線でこれも下手なのです。
 例えば、大都市での失業対策というのは、ホームレスで公園で寝ている方とか、家に引っ込んでいる子どもに14万なり何万なりの正規の職業をどこか都市部でつけてあげるというのが支援ですから。
 ところが、三陸の小さな都市だと、もう都市で働きたい子は、専門学校や大学のときに大都市に出て、高校までしかないですから、そこで働いているけれども、地域に残っている子どもは、お父さんが20万、お母さんがパートで冷蔵庫の仕事というんですけれども、水産加工の工場の中に入って、そこで8万なり10万なり持ってきて、娘さんも8万、これで合わせて30万で、それなりに回っているという地域に対して、被災で冷蔵庫はなくなってしまった。それから、復興してきても、土木建築関係、男の仕事しかないというときに、お母さんや娘さんの仕事どうするのかといったら、都会型の就業支援グループが来たら、「まあ任せておいて」って、「それじゃ仙台で、パチンコ屋の床拭きの掃除しましょう」と。「おめでとうございます、14万円です」って。もう家族分離してしまい、地域の人口減少を助けているだけじゃないかみたいな話になってしまうのです。ちょっと言い方きついかもしれませんけれども、NGOの人たち、みんな本気で一生懸命やっています。そういう地域特性を読んでやっていかないと、それで5億円、10億円を使って人回して、仙台や盛岡のコールセンターから遠隔操作しても、地域のリソースを知らないので、あんまり地域の人たちのニーズに合ってないみたいになってしまうんです。
 だから、ここでも言うのだけれども、活動とかプログラムは勝手に大都市のNGOとか霞が関で思い込まないで、今まである地域のいろいろな保健師さんの見守りだったり、学校のシステムだったり、今までの求人のシステムやいろいろなものを丁寧にもう一回、それをもう少しバージョンアップしようみたいなことをしていかないと、大変になる。
 それからもう一つ、地域防災計画というのをどこもつくっているのです。特に大きい自治体については皆さん全部持っていると思います。市の防災、区の防災レベル、それから各支所の防災レベル、それから自治会もそれなりに。だけど、案外これを統合してないのです。それから地域の大学とか大きな病院のBCP(ビジネス・コンティニアス・プラン)をどこまで包摂して組んでいるのか。例えば、このまちで夜中に地震が起こったら、明日、何人の医者と看護師がこの地域にいるだろうか。その人たちで、病院も老人ホームも全部守らなきゃいけないわけですから、どれだけひねり出せるだろうかと。少なくとも3日は、大都市で災害が起こったら、だれも助けに来ない。それをどういうふうにしていくのかといったときに、いろいろな人と組んでいくというのが大切なわけです。
 それから今回、ソーシャルワーカーの問題、ここは私たち教育している側として忸怩たる思いがあるのですけれども、中国で地震が起きたときは、その年初めてソーシャルワーカーの国家試験があったばかりで、地域にはソーシャルワーカーいなかったので、大都市のソーシャルワーカー団体も飛んでいったし、大学の先生や大学院生もみんな地域に飛んでいって、支援をした。だけど、その支援は助けるだけじゃない。上海市とかいろいろなところの補助があったのですけれども、3年でこの地域で仮設なんかの見回りの人たちを地域の自治会の人たちに研修をし、ソーシャルワーカーを育てて、その団体をつくって、最後は地域の人たちで回してねといって、フルセット、地域で活動できるようにして帰ってくるという支援をやっていたんです。
 それから、日本において何でこんなにうまくいかなかったのかという一つの問題は介護保険です。介護保険はいいのだけれども、介護保険というのは、ご存じかもしれないですけれども、これは新しい社会福祉のコンセプトで、民間に任そうというものです。だから介護保険の金、公共に入れるな。そうすると、医療、看護、保健と何が違うかって、医療、看護、保健は国立病院、県立病院もあるし、いろいろな支所に医療、看護、それから保健関係のスタッフもいる。だからいざ支援というときでも、地方整備局や県や市町村自治体は人材をひねり出して、公務出張で被災地に何人行ってこい。残りは別の人間のシフトで埋める。
 だけど、社会福祉のほうは、各社会福祉法人にいろいろな介護施設のばらばらにいるから、若い人が、「私行きます、おれ行きたい」といったら、ソーシャルワーク協会は、「あ、いいね」。じゃ、日当と交通運賃だけ、ちょっと災害法か何かひねってお金もらってきて渡すけど、あとはなしです。彼か彼女が何回も行ったら、いいことだけど、その福祉施設は支援者のシフトを埋めるために大変なことになってしまうわけですね。「もう行かないでよ」と。「あなた、何回も行って、それはいいことかもしれないけど、残った私たちは夜勤連続で、大変です。制度がないのです。
 だから、そこで今、ソーシャルワーカーたちは緊急時の研修をしようと、医者たちがやっている。緊急時にどうするか。最初の48時間。だけど、研修だけしてもだめなのです。知識や技術だけ持っていても。これは動員する制度がなければ。
 変な例えかもしれないけれども、中国では、抗震って、抵抗する地震というんですけど、これは戦争です。今回も自衛隊も動いたし、国も動いたし、医者も動いたけど、これは戦争ですから、個人の善意でボランティア派遣だけではだめなのです。だから、私は、時々言うんですけれども、被災地に泥かきにいく医者も医学生もいない。何でソーシャルワーカー、泥かきに行くんだ。私たちに専門性はないのかと。それは何がいけないのかというと、研修して、一人一人の人材教育もだけれども、組織的なバックアップ、国からどう予算を取るのかとか、制度化してないからだめなのです。
 あと中越地震のときには弘済会というのがあって、地方の土木関係のOBの方が、辞めたら、そこにプールされていて、そこに国がお金預けていて、これが天下り、天下りってうるさく言われて、切られてしまったのだけれども、その人たちは、中越地震が起こったら、ぱっと飛んでいって、どの橋が壊れている、どの道路が壊れている。ああ、川、閉塞しているから、土石流が起こるから大変だと、全部チェックしてくれたのです。それは自衛隊と同じで、日ごろ予算をつけて人を養ってなかったら、被災したから、そのときにだれかお金つけて雇いますよといったって、間に合わないわけですね。戦争してから自衛官を雇うか。泥棒捕まえてから警察を雇うかって、そういうことも考えていかなければいけません。
 以上です。