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人権に関するデータベース

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研修講義資料

京都会場 講義7 平成25年10月31日(木)

「震災と人権 2011・3・11 東日本大震災が残したもの -岩手県大槌町保健師による全戸家庭訪問調査から見えてきたこと-」

著者
鈴木 るり子
寄稿日(掲載日)
2014/02/03

皆さんこんにちは。ご紹介いただきました鈴木です。
 2011(平成23)年3月11日の震災から、あと約半年で3年を迎えようとしていますが、被災地の復興は進んでおりません。このような状況の中で被災地の人権はどのように守られているのだろうかとういことについてお伝えします。
 私の今日の目的は二つあります。
一つは震災の状況。私たちが保健師として震災直後から全国の仲間たちと調査をした結果についてです。もう一つは、「生きる」を支える復興に向けた街づくりや健康づくりとは何だろうということについてです。震災の時に岩手県の海岸にALS(筋(きん)萎縮性側索(いしゅくせいそくさく)硬化症(こうかしょう))患者の方が20人いましたが、そのうちの2人が命を落としました。このような人たちの人権はどうやって守っていけば良いのかというお話しをしたいと思います。

◆2011・3・11 東日本大震災の被災状況

 東日本大震災の状況は皆さん良くお分かりだと思います。避難している方たちはまだ元の生活に戻っていません。私も被災者ですが津波の被害によって前に住んでいた土地に家を再建できません。土地が失われている中でどのようにして私たちは暮らしを再建できるでしょうか。その時間が長ければ長いほど、それに比例して私たちの命は失われていくことになります。
この地震は皆さんご存じのように、マグニチュード9.0、世界的に見ても非常に大きな地震でした。震源が浅く津波は私たちの予想をはるかに超えていました。特に、岩手県はリアス式海岸のため、場所によっては32mの高さになったところもありました。地震があって津波があって、そのあと火災が発生しているので行方不明者の数が非常に多かったのです。
 津波が起こす問題は地震とは違いました。津波は海底にあったヘドロを運んできます。その中に破傷風菌が入っていたためにそれによって命を落とす人もいました。肺炎を起こした人もいましたが、これはマイコプラズマの肺炎などではなく汚染物質を含んだ海水が肺に入って起こる津波肺炎でした。また、震災のあった時期が寒い時期だったため低体温症になった人が多かったです。人間は水温が5℃以下だと30分で意識不明になって90分で死亡します。そのため岩手県の場合溺死が9割、宮城県は9割を超えました。福島も同じです。
皆さんご存じのように、被害を受けた場合トリアージ(災害などで多数の負傷者が出たときに、治療や搬送の優先順位をつけて負傷者を分類すること)を付けていきますが、トリアージの黒をつけるくらい重症な人がとても多かったのです。運ばれて来ても助けることができない人たちがたくさんいました。またトリアージの赤や黄色の人、つまり命を助けなければいけない緊急度が高い人の中には慢性疾患との関連で命を落とす人がいました。そういった様々な要因から、助けられる人の数がとても少なかったわけです。

今日お集まりの方の中に阪神淡路大震災に遭遇された方もいらっしゃるかと思います。阪神淡路の時は地震と火災でした。ところが東日本大震災では9割の方が溺死なのです。津波の来た時間はちょうど午後の3時半です。そのため生き残った方の中には、助けを求めながら流されていく人の声を聞いていた人たちがたくさんいます。生き残った人たちは波に流されている人に手を差し伸べましたが、その手を引っ張ることはできませんでした。そのことが何を引き起こすかというと、サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt 戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して感じる罪悪感のこと。)です。生き残った罪悪感が津波で助かった人々の心の中を支配したのです。(削除)

「危機の結果に影響する3要素」といわれるものがあります。(1)緊急対応行動の適切さ、(2)効果測定、(3)決断と行動のスピードです。
 今回の震災では生き残った人たちが自分の判断で行動しなければならない状態におかれました。震災直後から、実行したことをすぐ効果測定し、そしてすぐに次の行動を取らなければいけないという状況です。決断と行動の素早さが必要であり、状況に応じたマネジメントを求められたということです。

テレビで報道されたことで、皆さんに考えていただかなければいけないと思うことがあります。テレビでは「早く避難すれば命が助かる」ということを報道していましたが、私たちが考えなくてはならないのは、その助かった命をどのようにすればさらに助けることができるかということです。助かっただけでは駄目なのです。せっかく助かった命も、そのあとの復興計画をきちんとやらなければ失うことになるからです。
もちろん緊急対応は必要です。しかし、混乱の中ではまともな情報収集はできないと思ってください。災害時には情報は入ってきません。入ってきた情報もあまり正確ではありません。(削除)不確かな情報や誤報が流れる中でそれに左右されない行動を取ることが要求されます。
 情報の収集が難しい中で、目の前にいる人たちのケアをどうすれば良いのか自分たちで判断していかなければいけませんし、実行力が問われます。しかし、これは平常時の準備の中で鍛えるしかないのです。ですから必ず訓練をしてください。そして、皆さんが住んでいる場所の防災計画がどうなっているのかを調べてください。昼間の勤務中に災害が起きたらどうするのか、また夜間に家の近くで災害が起きたら自分の命はどのように守るのかと。
皆さんは非常に大事な人材です。皆さんに命を落としてもらっては困ります。そのためにこのような研修を受けていると思ってください。皆さんお一人おひとりの力が100人の住民を救うのです。皆さんの力があれば再発防止体制を作り上げることもできます。一般住民の力ももちろん必要ですが、非常時には皆さんの力が非常に大事になってきます。

それでは、これから少し3.11がどのような被害を及ぼしたのかということをお伝えしたいと思います。
 まず写真をご覧ください。これは私が住んでいる大槌町の北にある隣町の山田町です。これは津波に流された車です。この中にたくさんの御遺体が入っていました。御家族の方たちはこういう状態の中でも御遺体探しをしていました。このように積まれた車の中から御遺体を見つけた家族もいました。まだ御遺体を捜していて死亡届を出していない方もいます。
この写真は老人保健施設ですが、ここの人たちがたくさん命を落としています。老人保健施設ですから要介護の高齢者がほとんどで、スタッフの方たちが高齢者の命を救うために搬送しましたが間に合いませんでした。
これは有名な高田松原です。清水寺にこの松でつくった仏像が安置されています。ここには松が2万本ありましたが津波で流されて1本の松だけになりました。この松がレプリカになり今は安置されています。海から高田松原までは平地が多かったのでその間のすべて町を壊滅状態にしました。ここは以前国道だったのですが地震で地盤沈下をしていますから今は満潮時には海になります。まだ全然復旧しておりません。
今日お話しする大槌町は非常に湧き水が多い所です。そしてひょっこりひょうたん島のモデルになった蓬莱島があります。
三陸海岸は190kmありますがここが津波で壊滅したのです。人口密度も非常に低く町の9割近くは山林ですから宅地だったところがすべて壊滅状態になったといえます。この地域は収入の少ない地域です。これからここの人たちの復興がどのように行われるのだろうかということをお話ししていきたいと思います。
 私たちの暮らしは全て壊されました。瓦礫(がれき)は72万トンになります。ここは私の勤めていた役場ですが、町長をはじめたくさんの仲間を失いました。トップが亡くなるということはそのあとの復興が遅れるということです。この役場に支援物資がたくさん保管されていますが使い切れていないと言われています。行政が半分しか機能していないため支援物資が活用できないのです。ボランティアの人たちも応援に来てくれていますが復興は遅れています。

 次は、津波が去った後、被災者であり支援者である医療従事者たちがどのような心理的経過をたどったか見てみましょう。
初めに私たちに来たのは「衝撃期」です。災害による気持ちの高揚があり、アドレナリンが出ているので2日間位は寝なくても平気です。自分の家族の安否が確認できないような状況でも役割を遂行しなければいけないという使命感が働いています。その次に来るのが「ハネムーン期」。「ハネムーン期」は、劇的な災害の体験を共有できたことで、被災者同士が強い連帯感で結ばれる一方で、人間関係や複雑な業務による緊張や外部支援者の調整による大変さを感じる時期でもあり、非常に大変な時期です。
 私は、町に入れたのが震災から2日後でした。まだ山が燃えていて対策本部がどこにあるのか住民も分からないような時期に対策本部に入って行きました。町長が亡くなっていたので対策本部がきちんと機能しておらず、「次は何をする?」、「次は何をする?」という状態です。そこへマスコミが入ってきて騒然とした中で調整ができないまま役場の職員たちのエネルギーが消耗していったのです。
1カ月過ぎても職員はほとんど不眠不休で働いていました。皆さんもそうなると思いますが、そのような中で1カ月も経つと「幻滅期」に入っていきます。高揚していた気持ちは1カ月くらい経つと落ち込んできます。「もう、この状況はどうにもできないのではないか」という心理状態になってくるのです。立場の違いや認識の違いによる緊張がありますから摩擦も起きてきます。その時に私は、行政の職員も被災者なのだということを考え、何とか彼らの命を守らなければいけないと思いました。そうしないと彼らは自殺してしまいます。行政の職員の1割を失った中でさらに命を落としてもらっては困ります。この時期を何とか乗り越えなければならないと私はずいぶん考えました。
それからまた1カ月過ぎた頃「再建期」に入りますが、ここも非常に難しい時期です。災害としては安定レベルに入っていきますが、復興から取り残されたり、精神的な支えを失った人にはストレスの多い生活が続くことになります。この時期に私たちは大槌町全戸を訪問しいろいろな健康調査を始めました。震災から3カ月後から避難所が撤去され、今度は、仮設住宅地の新たな地域づくりを必要とする難しさがありました。

 次に、この写真を見てください。これが大槌町を襲った津波です。3月11日の写真ですが、津波が近くまで来ているのに外で立ち話をしている人たちがいます。それくらい津波が来たことをみんなが認識していなかったのです。この辺りには「ここまで津波が来ますよ」という表示があるのですが、住民は「ここまでは来るはずないだろう」と思っていました。
三陸海岸は60年に1回大きな津波に遭っています。昭和8年3月3日の「昭和の大津波」の日を、毎年の津波訓練日として町を挙げて訓練をしていました。それなのに、その3日後に起きた、東日本大震災には逃げ遅れて亡くなりました。22mの波が3階建ての建物も優に越えて白煙を上げ押し寄せて来たのです。
この写真を見てください。これは火です。津波は行ったり来たりを繰り返し、住宅も山も燃やし始め、山は三日三晩燃えていました。
ここにはお寺がありました。このお寺は高齢者の避難所になっていましたがここに来た50人の高齢者はみんな火事で亡くなりました。このお寺にあった鐘は溶けていたのです。鐘が溶けるということは1,000℃以上の熱になったということです。そのため、ここにあった遺骨はかろうじて骨の形を留めていましたが、風に吹かれて飛んでいってしまうくらいもろく、お骨としては拾えないような状態で見つかりました。
 この写真は高台から写したものです。この白いのは雪です。蓬莱島まであった防波堤を津波は流し、川を遡上してきた津波は被害を拡大していったのです。
この写真は、いま仮設の役場になっている小学校です。これが海から打ち上げられたヘドロです。津波の威力は水ではなく鉄の壁です。その壁にみんな命を取られていきました。

小学校の子どもたちは、裏山を通って城山に逃げた子どもはみんな助かりましたが、親が車で迎えに来た子どもたちは命を落としています。3月11日は卒業式前の帰る時間が早かったため、お母さんと一緒に車の中で亡くなりました。トンネルの中で火事に遇い、焼け焦げた御遺体も見つかりました。震災当時、海岸には生産加工場がありそこで働いていた人たちは、車で移動した方が亡くなりました。また、高齢者や要援護高齢者の人たちも亡くなりました。「置いて逃げてちょうだい」と高齢者の人たちに言われても、置いて逃げることができなかった若い40代の方たちも一緒に亡くなりました。
 地震の後、津波が来ると分かると、人々はいったん逃げるのですが、津波が来るのに30分かかりましたから、その30分の間に自宅を見に行った人たちが波に流されて行きました。津波は非常に速いです。
皆さんはどのくらいの水位なら逃げることができると思いますか。例えば足関節まで津波が来ます。そして、その次にすぐ膝関節、膝の高さまで来た水は転んだ私たちの体の上を流れていきます。助かることはできません。逃げられないです。早く避難してくださいということも大事ですが、決して戻ってはいけないということも言い添えてほしいと思います。津波の速さは皆さんの想像以上です。
JRの12メーターある鉄橋も簡単に流されました。堤防もひっくり返ってズタズタになっています。この地域で被害を受けなかったのは1軒だけです。あとは全部流されました。そしてここは住めない地域に指定されました。
こちらは別の地区の写真です。全壊の地域と半壊の地域と被害のない地域が入り混じっています。全壊の地域の人は親戚の家に身を寄せましたが喪失感や絶望感でいっぱいです。被害のない地域でも人目を気にして布団や洗濯物が干せないということです。それが全戸訪問で分かりました。

 半壊・浸水した地域の調査から、津波に強い家屋構造が分ってきました。1階の床はフローリングの方が畳の部屋よりも津波のあと復旧しやすいようです。畳は水を含むのでそのあとの復旧が非常に難しい。どの家も1階までだいたい浸水します。一階は風呂場や台所などがある基礎の部分です。そこまで海水が入ってきてヘドロで埋まっていました。ものすごい匂いです。また、男子高校生がいる家庭は復旧が早かったことが分かりました。
 大槌町は1万6,000人の住民基本台帳がありましたが私たちが全戸訪問したときは9,000人ぐらいしかいませんでした。それは、住人が住めない町になったということです。
私の研究で分かったことは、避難所が少なく、避難所を転々とすればするほど、人の心にダメージを与えるということです。一番多い人で10回移動しており、そのダメージがその人に不信感を与えていくことが分かりました。

 次に大規模災害時の避難所の問題です。皆さんが住んでいる地域の避難所はどこにあるか知っていますか。私の勤めている大学は大きな災害があったときは学生を泊めることになっています。皆さんの職場もそうだと思います。それでは、皆さんの職場を避難所にする場合には日頃どのような準備が必要でしょうか。やはり防災用品はストックしておかなければいません。感染症の問題も考えなければいけません。水のストックや食料のストック以外に、塩素系の漂白剤は消毒剤として使えるのでこれは是非とも用意しておいてほしいです。ノロウイルスの感染症を予防するためにもトイレの消毒にはその漂白剤を使っていただきたいと思います。漂白剤を希釈したらその漂白剤をトイレの消毒に使ってください。また、漂白剤とポンプ式のボトルを用意すれば手や指の消毒もできます。水と漂白剤があれば感染症の予防をすることができるのです。例えば、ノロウイルスに感染しホテルの絨毯(じゅうたん)の上に吐いてしまったとします。漂白剤で希釈した液を染み込ませた雑巾を上に乗せ吐物をビニールの袋の中に入れていきます。漂白剤と使い捨ての手袋があればノロウイルスを封印することができるので覚えておいてください。
また、トイレの問題は非常に重要です。トイレの使い方は職場によっても違うと思います。当大学は、トイレ用として1週間分の水はストックしています。しかし、それでもトイレの中に大便は流せない状態なのでゴミとして処分します。そのことを皆さんたちは覚えておいてください。洋式のトイレでは便器に黒いごみ袋を付けて大便がそのまま捨てられるようにしなければなりません。また、水を流せないのでトイレットペーパーも流してはいけません。そのことを踏まえて実際に訓練してください。実際にやらないと知識だけでは使い物にはなりません。
 それから、被災からしばらくは情報不足による混乱が起きます。大槌町で起きたのは、中国人の窃盗団が殺人事件を起こしたという噂です。あり得ないことですが当時は普通にそれが吹聴されて恐怖心を煽(あお)っていました。また、倒れずに残った家屋には盗難が起きました。私たちは建物が残っている所を夜警して歩きましたが、皆さんのお住まいになっている地域では夜警はできるでしょうか。是非、夜警を防災計画の中に入れてほしいと思います。
 それから、環境が変わってしまうことによって要援護高齢者はすぐに病状が悪化し重度になっていくことを覚えておいてください。高齢者は認知症を発症しやすくなります。この人たちは避難所の場所を別に設ける必要がありました。また、霊安室も必要です。9割の方は低体温症や溺死で亡くなりました。避難所に運ばれて来たとしても助けることはできませんでした。トリアージは黒です。施しようがないということです。津波による低体温の人をどうやって助けるかというと、マッサージをして人肌で温めるしかないのです。温める人をたくさんつくり、マッサージをして息を吹き返すのを待つことしかできませんでした。
 避難者の名簿も重要です。貼り出された名簿をカメラで撮ってメディアが流してくれましたが、名簿を作る際には振り仮名を付け漢字で書いていただきたいです。もちろん片仮名だとみんなが読めるのでラジオなどで放送してくれます。しかし小さな町であればあるほど同じ名字・名前が多くなります。みんな、「スズキアイコさん」なのです。これを片仮名のみで表記されてしまうと聞いている人が分かりません。FMで流してくれた時も、漢字で全国に報道されましたので沖縄にいるお子さんも名前でお母さんだと分かったと言います。それに加えて性別や年齢を書いていただければと思います。そして、もう一つ名簿には避難所にいる人が移動した場合に、その人がどこに行ったかを書き足す余白が必要です。
避難所はこのような状態でした。そこにいる人の人権は守られるでしょうか。

◆岩手県大槌町の全戸家庭訪問健康調査から見えてきた、健康被害

 岩手県というのは四国四県に匹敵するぐらいの面積を持っていて非常に広い県です。海岸が190kmありますがそこが壊滅状態でした。そこに多くのボランティア保健師が全国から駆け付けてくれました。まだ、JRも新幹線は使えず花巻の空港はDMAT(大地震及び航空機・列車事故といった災害時に被災地に迅速に駆けつけ、救急治療を行うための専門的な訓練を受けた医療チーム)や医療の支援者のために使われていましたので、民間の人たちは空港を使えません。そのため秋田空港を利用し、生き残った人たちの健康状態を把握するために全国から延べ555人が岩手県に入ってくれました。長崎の先生たちは、秋田空港から盛岡まで新幹線、盛岡からJRの釜石までは電車に乗り、それから先はタクシーでの移動でした。
まず、調査Aとして全戸家庭訪問をしました。住宅や避難所などを全部回り誰が生きているのか誰が死んだのかを調べます。調査のBでは、生き残っている人たちが「この町をどうしようと考えているのか」ということを調査しました。調査のCは、地域診断をして町内の6福祉法人を調査しました。
 調査結果は復興計画を作成するための資料にしました。「保健師」と書いた黄色のベストを着て、安否確認をしていきました。夜はミーティングをし、この町の人たちの健康状態にについて分析しました。
大槌町は面積の50%を失い、水道はなく電気もかろうじてついているような状態ですから私たちは農家の作業小屋に泊まりローラー作戦で健康調査をしていました。その結果が全て復興計画に反映されたのです。
 出会った人の中には御主人が行方不明の人や亡くなった町長の奥さんもいました。その中でこれから心のケアをどうすれば良いかも考えさせられました。生き残った大槌町の保健師から多くの助言をもらいました。保健師4人が同じ車に乗っていたのですが、彼女だけが生き残ったのです。彼女はメンタル的に非常に弱り入院を経験しています。生き残った職員はみな彼女のようにたくさんの仲間を失っています。
 家庭訪問をした結果を提言書としてまとめ、副町長に渡しました。

 

災害に遭うと心のケアが必要な人が37%出てくると言われています。また潜在化していた健康課題が顕在化してきます。災害を受けて避難所を経験している人は分かると思いますが温かいものは食べられません。支援物資の食糧はパンでした。それから1週間くらいしてからカップラーメンが避難所に入ってきました。給水車が来て温かいお湯が出るようになり、温かいカップラーメンを食べた時は本当においしかったです。しかしカップラーメンには塩分があります。
岩手県の脳卒中の死亡率は日本一です。特に沿岸の人は塩辛いものを食べていたのでもともと血圧が高かったのですが、震災によって今まで治療していなかった人のうち36%の血圧が高くなりました。その原因は不眠にあります。それからトラウマです。津波のことや経済的な不安が彼らにのしかかり血圧が高くなっていたことが分かりました。
 大槌町の場合は塩分制限の食事などが普及していましたが、この災害によって20代~40代の血圧の高い人が全国平均と比べて3倍も高くなりました。この人たちを放っておくとさらに血圧が高くなり脳卒中や心不全を起こす可能性が高くなります。血圧が高いのを何とかしなければいけませんし心のケアも大切です。復興にはまず健康が欠かせないからです。
 私は保健師なので、町民の血圧が高い状態をどうしようかと考え「塩とりリボンハートキャンペーン」を町民と一緒に考えました。塩分の少ない食事のキャンペーンを張っていこうと、2012年からみんな一緒になってやっています。

◆生きるを支える看護とは -保健師の視点から-

 私たちはこの経験を活かし、被災支援時における保健師の役割というものを考えてみました。
1) 被災者対策と同時に復興対策を考える
2) 住民のいのちと同時に職員のいのちを守る対策
3) 住民のくらしと職員のくらしを1日でも早く災害前にもどす対策
4) 健康管理システムの再構築…町の保健師が使いやすく、保健医療福祉に活用でき、コホート研究に耐えうるシステムが必要

 災害時においては積極的なアウトリーチが必要です。つまり、援助が必要であるにもかかわらず、自発的に申し出をしない人々に対して、積極的に働きかけて支援をすることです。例えば、ドアノックなどです。
大規模災害が起きたときに生き残った人の多くは「自分は生きている価値がない」と思っていると考えていいと思います。中でも病気を抱えている人たちは、その思いが強いようです。医療施設が壊滅したので、人工透析を受けている人たちは全員町外に出さなければいけませんでした。ドクターヘリに乗せましたが連れて行った隣町でもまだ人工透析はできませんでした。断水が原因です。また隣町の医療施設も対震が悪く入院患者を全部外に出さなければならなくなったのです。その時、人工透析を受けている人が、「自分には価値がないんだから、ここで死んでもいいんだ」と言ったのです。
しかし病気を抱えている人たちにも生きて自分が体験したことを町の復興計画に生かしてもらわなければいけないのです。そういう人たちへドアをノックしてください。アウトリーチをしてほしいと思います。

 日頃から、地域での支えをどのように作っていくのかが重要な課題です。また要支援者を把握しておかなければなりません。大規模災害のときには本当に事態が刻々と変化していきますからそれに備える必要があります。
 さらに、必ず起こってくるのが心の問題です。被災後は、見回りのシステムが必要で紙媒体は駄目だということをつくづくと感じました。今はITシステムを使っています。ローラー作戦をかけるときもITシステムに入力しそれをすぐ分析して対策を考えることが必要です。地図も紙媒体ではない電子のものを持っていこうと考えています。
 保健師は、研究能力と政策形成能力がなければいけません。私たちは政策提言者なのです。家庭訪問をして住民が抱えている問題を政策に落とし込んでいく、また住民と同時に職員の命も守らなければいけません。
 初めの3日から1週間はアドレナリンが出ているので、高揚して「自分は眠くない。働けるぞ」と思っています。しかし、その後ダウンしてしまいます。行政職員の8割が家を失い家族も失っていました。高揚した心の状態は、1週間は持ちますがそのあとはだめです。早め早めに職員の心の状態を察知して休ませなければいけません。食事を与えなくてもとりあえず休養させなければいけません。24時間休ませるだけでは間に合わないので、48時間くらい閉じ込めてでも休ませなければいけません。初めのうちは「目をつぶると被災の様子が頭に浮かんで眠ることができない」と言いますがやはり疲れているのでそのうちに眠ってくれます。このように職員を守っていかなければいけないということが分かりました。

 このような中で、被災派遣保健師(DPHNT ¬=Disaster Public Health Nursing Team)を創設しなければいけないと考え始めました。災害派遣医療チーム(DMAT=Disaster Medical Assistance Team 地震などの大規模災害時に、災害急性期(発生後48時間以内)に活動できる機動的な医療チーム)は、阪神淡路の後に国がつくった組織で、48時間しかいません。東日本大震災のときにも48時間で切り上げその後に日本医師会のチーム(JMAT=Japan Medical Assosiation Team)が入ってくれました。そして今は、他の地方自治体の職員が被災地を応援してくれています。このような応援は2年たっても3年たっても必要だと思います。保健師の場合もそうですが行政の中にきちんと政策提言できるDPHNTという保健師のチームが必要だと思いました。
 私たちは、皆さんがご存じの「健康日本21プラン」、「次世代育成プラン」、「障害者計画」、「地域福祉計画」などの計画を立てる職種です。大槌町の場合はもう住宅を立てられないような状態なので、復興計画を新たに作り直す必要があります。復興計画の中には、もちろん健康部門も入れています。
いま、「i(アイ)システム」というものを考えています。「i」は岩手県の「i」です。「iシステム1」というのは避難所に誰がいるかを把握することです。要介護者がいるのか、障がい者、妊婦さん、親を亡くした子どもはどのくらいいるのかといったことを把握してから避難所の管理をしています。
 もう一つは、仮設住宅の人たちの日々の暮らしをどうやって見守って行くかです。社会的孤立をしていく人や社会的に介護が必要という人は、大槌町の場合は仮設住宅の住民の50%です。この人たちの見守りシステム「iシステム2」を作成しています。
    もう一つ、私が関与していることとして被災者健診があります。津波に遭った人たちがどのような健康状態なのかを調べています。健診をしながら心疾患や脳卒中や癌などをどういう人たちがどのように発症していくのかについて10年間のコホート研究です。当初は福島も入れて3万人のコホート研究をして行く計画でしたが、福島は原発の問題があるので除外されました。岩手は岩手医科大学を中心に、宮城は東北大学を中心に1県1万人の追跡調査をしています。私は岩手医科大学の研究員として、大規模災害がどのように健康状態を破壊していくのかについて追跡研究をしています。
 アンケートは0歳児から行います。この中で分かってきたことは、子どもの恐怖感を親がキャッチできていないことです。親御さんに経済的な問題や心の問題などがあるために子どもの養育に問題を起こしていることが分かりました。子育てしているお母さんが非常にいらいらしています。仮設住宅は普通の建物とは違います。避難所が全部撤去できたのは地震の5カ月後でした。それまでは避難所として使えそうな建物や体育館に逃げました。そのような避難所は耐震がしっかりとしているので震度3くらいまでは怖くありませんでした。しかし仮設の住宅に行きますと震度1でも怖いです。余震の時に子どもはお母さんにつかまりますがお母さんも怖いのです。お母さんが子どもを抱きしめることができない状態にあるということが分かりました。
 今、私たちが一番問題にしているのはお子さんたちのことです。3.11のとき、2011(平成23)年に生まれたお子さんはもう少しで3歳になります。そのお子さんたちが思春期を迎えたときに心の問題を起こしてくるだろうと予想しています。アメリカの研究リポートが昨年出てきました。第二次大戦のとき沖縄では地上戦をしましたが、その沖縄戦のときのお子さんをアメリカが研究していたのです。その研究結果がこの3.11に活かせると思います。大規模災害が起きた時に子どもの心のケアをしっかりとやらなければ後になって大変なことになります。小中学校の場合には学校で心のケアをしていますがそれだけでは足りません。幼児のケアをしっかりとやっていかなければいけないのです。それがアメリカの研究から分かりました。
また、大槌町の場合には歯科検診が入りましたが、そのときに口腔癌が見つかった人がいました。皆さんは自分のお口の中をよく見ていますか。できれば歯科用のミラーで歯茎や歯肉などをよく見ていただきたいなと思います。大槌町の歯科検診で進行性の口腔癌が見つかった人は自覚がありませんでした。その人は、「津波で助かったのに、今度は癌かよ」と泣いていました。まだ疫学的にはっきりとは言えませんが、私の感覚では津波で生き残った人たちには非常に多くの癌の人たちがいます。被災生活により、癌細胞をやっつけるキラー細胞が影響を受けるのだろうと思っています。他の疾病ですと大動脈瘤や心筋梗塞や心不全や脳卒中があります。
私たちは、ベースラインの調査を繰り返し、死亡者は何が原因で亡くなっているのか、また津波で助かった人の脳卒中の罹患、心疾患の罹患、それから介護保険の認定状況についても調べます。
 家族が亡くなって4畳半一間の仮設住宅の部屋に65歳以上の一人暮らしの人がいます。4畳半一間の部屋では歩くといってもトイレと風呂しかありません。特に、男性は生活不活発病にすぐなります。女性と違って無駄話ができない人が多いので、次第に外出が減りすぐ生活不活発病になってしまいます。

 私の研究は「東日本大震災住民(大槌町民)におけるソーシャルキャピタルに関する研究」です。ソーシャルキャピタルとはPutnam(パットナム)の定義を使うと、「『人と人とのつながり』や『信頼』や『互酬性』など協調的な行為を促すことによって、社会の効率を高め得る社会組織上の特性」ということです。
津波の被害にあった人に、「周りの人々を信頼できるか、周りの人々とお互いに助け合っていると思うかどうか、周りの人々はお互いにあいさつしているか、何か問題が生じた場合、周りの人々は力を合わせて解決しようとしているか」ということを聞いていきます。
 ソーシャルキャピタルが低くなると、死亡率が高まるということが分かっています。また、「人と人とのつながり=ソーシャルサポートネットワーク」が少なくなると社会的孤立を起こし、認知症の発症や孤独死が増えるといわれています。皆さんは、孤立死や孤独死を重要な問題として捉えていると思いますが、このソーシャルキャピタルの重要性を今後考えていかなければいけません。
 私の研究でも、津波の被害はソーシャルサポートネットワークを低下させることが分かりました。調査の中で「家族や友人は何人いますか」と聞く項目があります。「気兼ねなく話せる友人や家族は何人いますか」「困ったときに支援を求められる人は何人いますか」ということです。その人数が少なければ少ないほど社会的孤立を起こし認知症の発症が増えることも分かってきました。
 別の項目には、「月に1回会って話をする家族や親戚は何人いますか」というものもあります。点数が13点以下の場合には社会的孤立をしているということになります。
 特に、飼い犬と一緒に逃げた人は「人間でさえ避難できない避難所に、なぜ飼い犬を連れてきたんだ」と言われ戸外に追いやられたといいます。3.11のあとは雪が降っていましたので野宿するにはとてもきつい条件でしたが中には野宿した人もいます。避難所はもうぎっしり人が入っていましたから無理もないのですが、飼い犬と一緒に逃げた人は今まで信頼関係のあった同じ地域の人々から「出ていけ」と言われたのです。
大槌町の場合には8,000人が避難所に逃げてきました。その後仮設住宅ができましたが入居は抽選でどこに行けるか分かりません。仮設住宅の中で隣人は知らない人。それも狭いところに押し込められます。大槌町の場合は田舎でしたので皆さん何もなくても広い家に住んでいました。高齢者の一人暮らしでも部屋数が3つや4つある家で生活していたのが、いきなり4畳半一間の仮設住宅になったのです。また、仮設住宅にはベッドを置けませんから要介護状態の人は出ていかなければなりません。仮設住宅は終の棲家ではありませんから、そこに住む人たちは地域の草取りをしようという気持ちにもなりません。
   このような住居環境の中で、ソーシャルキャピタルがどうなっていくのかというと、多くの人が地域に対する信頼性を急激に失っているということも分かりました。
 このような調査からも、コミュニティーの再生のための復興計画や地域防災計画を立てる際に、避難所は十分なのかどうかを確認しなければいけないということが分かります。避難者をみだりに転々とさせないことが大切です。ソーシャルキャピタルを高める復興計画を立てていかなければいけないのです。

 また、「心の元気さ(K6)」も調べています。これは、「あなたは自分自身について価値がないと思っていますか」というような6つの質問をして、全国調査と比較するものです。全国調査に比べ、被災のひどかった山田町、大槌町、陸前高田は「自分に価値がない」と思っている人が倍の数値になりました。
 大槌町の職員は、町長をはじめ職員の3分の1の40人が亡くなり、行政の機能が麻痺してしまったのです。
私が、残っている職員に「心の元気さ(K6)」調査をしたところ、「自分は価値のない人間だと感じますか」という問に「はい」と答えたのは20代の男性が多かったのです。その職員は避難所を担当していましたが、住民も命からがら逃げているので、「あれが足りないこれが足りない」と不満をぶつけます。それが重なって若い職員の心は折れてしまったのです。このような状態が続けば自殺してしまいます。
私は副町長に、とにかく早く、職員に通常の仕事をさせてほしいと頼みました。住民に対応していたら心が折れて命を失うことになります。そんな時、トップには職員の命を守ってほしいなと思います。もちろん残った副町長も教育長も大変ですが、彼らは自分たちの部下を守らなければならないのです。

  この写真がわが家です。ここには土台しかありません。我が家はたぶん一番早く津波で流されたと思います。そして草が生えました。修復しないまま3年目を迎えています。
小学校は5つのうちの4つ使えなくなり中学校が1つ使えなくなりました。いま合同のプレハブの小中学校です。この中に全町から子どもたちがスクールバスに乗って来ます。プレハブの学校というのは非常に暑く校庭も使えません。
現在8年間の復興計画のうち3年目です。生き残った私たちの住居も定まっていません。私たちはいまだにどこに行ったら良いのか分からないような状態でいるのです。
 こちらの写真は最初にお見せした大槌小学校ですが、ここが今仮設の役場になっています。こちらは保健センターです。こちらは地域支援センターです。阪神淡路大震災の教訓から、地域の中に支援センターが必要だということで建設されました。
こちらの写真は4畳半一間の仮設住宅です。65歳以上の一人暮らしの方の仮設住宅です。ここに台所とトイレと風呂場がありますが、お風呂場が高く、障がいのある人たちにとっては入浴が困難です。洗い場も非常に狭いので大変です。

 今、高齢者にどんなことが起きているかを知るためには、生活機能調査をする必要があります。生活不活発病については聞いたことがあるかと思います。狭いところにいると足腰が立たなくなり、最後に寝たきりになってしまいます。要介護認定調査の中で6割の方が生活不活発病を起こしていました。つまり被災者は津波によって出掛ける場所や機会が少なくなってしまったのです。市街地が壊滅状態だったので、仮設住宅は山沿いに建設されました。初めは買い物に無料のバスを出していましたが、今は片道300円かかります。
 津波前の大槌町民の年間収入は平均170万円です。その170万円に加え畑もあり、漁師さんであれば船もありました。仕事をしながら食べ物を自給自足できていたのですが、それらをすべて失っています。年金生活で一番年金の額が少ない人は月額1万5,000円です。1万5,000円の年金から保険料を天引きされることはご存じですよね。介護保険料が年金から天引きされます。残ったもので暮らしていこうとするとバス代の片道300円は払えなくなります。お金のない状況では食べ物を削っていくしかありません。低タンパクになりそれにより健康障害が起きてきます。

◆難病患者への支援

 この写真の方はALS(筋(きん)萎縮性側索(いしゅくせいそくさく)硬化症(こうかしょう))の全国の会長です。ALSの方は人工呼吸器を付け寝たきり状態で在宅しています。そこに津波が来ました。救急車が来て、彼をストレッチャーに乗せて運ぼうとしたときに津波に流され亡くなりました。ALSの方は在宅の難病の最重要度の高い人たちです。人工呼吸器を付けて避難しなければいけない人たちです。
こちらの写真のALSの方は、40歳の誕生日を迎えました。この方は人工呼吸器を付け、痰を吸引し、経管栄養といって胃ろうから栄養分を流していかなければ生きていけません。去年から私たちはヘルパーさんを養成し在宅したい人の吸痰と経管栄養をできるように教育を始めました。この方は、そのサービスを使って娘さんと一緒に暮らすことを楽しみに退院の準備をしています。
また、「東日本大震災後のALS患者調査」を行いました。この調査から見えてきたことは、(1)主介護者が家族でヘルパーによる吸引や経管栄養のサービスを受けていない。サービス事業者が少ない。介護人不足ということです。(2)診療報酬改定や、平成24年4月からたんの吸引等法制化について被災地の認知度が低いということです。情報不足、周知方法の改善が必要だと感じています。
私たちは、このような難病の人たちの人権をどうしたら守れるのだろうかということ考えながら日々活動しています。難病患者さんについては、保健所の保健師が担当していますから、保健所や病院や役場にALS協会のパンフレットを置くなど積極的にPRしていかなくてはならないと思っています。また情報不足や周知方法の改善が必要だとも思っています。そして一番は介護してくれる人を増やすことです。

◆被災地のこれから

復興には、まず「健康」づくり。そして終の棲家づくり。「安心」を提供して行かなければいけないと思っています。そしてソーシャルキャピタルを高める地域づくりです。
復興住宅が一部でできていますが家賃が高いです。家賃の補助が欲しいです。4人家族でそれなりの収入がある人でも岩手県営の復興住宅に入ると家賃が7万5,000円かかります。入れるわけがありません。仮設住宅は家賃が無料です。復興住宅への家賃補助もせず来年4月から8%の消費税にしてどうするのかと思います。
 高齢者の暮らしを考えると、小規模多機能の事業所が必要だなと思っています。「ここで死んでいいよ」と言えるような「終の棲家」を提供し、安心できる場を提供したいと思っています。