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人権に関するデータベース

全国の地方公共団体をはじめ、国、国連関係機関等における人権関係の情報を調べることができます。

研修講義資料

東京会場 講義8 平成27年9月30日(水)

「ハンセン病と人権」

著者
佐川 修
寄稿日(掲載日)
2016/03/09

【ハンセン病について】

 みなさん、こんにちは。私は、東村山市にあります国立療養所多磨全生園から参りました。
 多磨全生園の東側には、1993(平成5)年に建てられた高松宮記念ハンセン資料館があります。これが2007(平成19)年に国立に移管され現在22年目に入っておりまして、今までに大体35万人余りの方が入館しております。
 皆さんはハンセン病の事をどれだけご存知ですか?
 ハンセン病は、昔は「ライ病」、「かったいぼ」、「ならりんぼ」、「どす」、「不治の病」、「大病」、「天けい病」、「レプラ」などいろいろな名前で呼ばれておりました。
 紀元前5世紀頃には既にあった病気で、聖書の中にも仏典の中にもその記述がございます。この病気の発祥地はインドと言われ、インドからヨーロッパの方へ、またアジアの方へ広まったと言われております。
 森鴎外の医学書によりますと、270年ぐらい前、ヨーロッパではこの病気がものすごく蔓延し、収容所だけでも2万か所以上あったという記録がございます。
 ところが世の中が落ち着いて平和になったら、いつの間にかみんな消え去ったということです。この病気は貧困病とも言われ、経済的に非常に貧しい所、また不衛生な所に多くの感染者、発症者が出ます。
 今でもインドは全世界の半分以上の患者がおります。日本も戦争時は一番多くこの患者が出ました。今世界には25万人のハンセン病患者と1,600万人のハンセン病回復者、職員や家族を含めると1億人のハンセン病関係者がいると言われています。しかし、そのほとんどはインド、ミャンマー、ブラジル、アフリカ、コンゴ、中国、インドネシアでございまして、日本では、明治の末頃までは3万人以上の患者がいたのですが、現在は国立療養所13か所、私立療養所1か所を合わせても入所者はもう1,700人を切っております。しかも入所者の平均年齢はもう83歳を超え、毎年120~130人の方が亡くなっております。
 新しい患者は年間数人と言われていますけど、ここ2,3年はほとんど出ておりません。今では新発患者が出ても入院しないで家から通院して薬を飲めば半年もしないうちに菌が陰性になって、後遺症も残さないで治るという、そのような状況になっております。

【ハンセン病施設が作られたきっかけ】


 明治の末頃まで、日本では公にこの患者を救済するという国の施策はありませんでした。一部の宗教家や外国の宣教師の人たちによって、わずかに救済が行われておりました。それが日清・日露の戦争に勝って、これから一等国になろうという日本がこのような状況では恥をかく。ということで、1907(明治40)年に、「癩(らい)予防二関スル件」という法律をつくり、2年後の1909(明治42)年に全国に5つの公立、府県立の療養所をつくりました。
 東京の全生病院が第1区。第1区というのは東京府と関東6県、新潟、長野、山梨、静岡、愛知までを含めた1府11県が全生病院の管轄でした。第2区は青森の北部保養院。これは東北6県と北海道が管轄です。第3区は大阪。第4区は香川。第5区は熊本です。しかし、この5つの療養所をつくった当初の目的は、浮浪患者を取り締まることにあったのですね。神社やお寺で寝泊まりをして参詣する人から施しを受けたり、四国の八十八ヶ所をお遍路して回って途中で野垂れ死にしたりする、そのような患者を外国人に見られると恥ずかしい、だからみんな収容しろ。ということから始まった療養所なので、各療養所の所長さんは全員元警察官です。全生病院の初代の院長の池内才次郎さんも、もちろん警察官だった人で、「お前らをどの程度に扱っていいかさっぱりわからん。まあ、刑務所の囚人の罪一等を減じた程度でよかろう」と、そのようなことを言い、そのような扱いをしたということが記録に残っております。

【患者の人権を無視した隔離政策】

 それが1931(昭和6)年に入ると「癩予防法(旧法)」という法律に改正されて、徹底的に患者の強制隔離収容が始まります。日本のハンセン病に対する偏見差別の本源はこの1931(昭和6)年の癩予防法にあると言われているぐらいです。この法律がどういうものかというと、お医者さんが診察をして、患者が癩病にかかっているということが分かると、すぐに県に届けを出します。県は届けを受けると、すぐに警察に連絡をして強制収容に向かいます。畑で仕事をしている人を野良着のままトラックに乗せて、菰をかぶせて療養所に連れてきたて、大阪では17歳の少年が、「親が帰るまで待って下さい」と泣いて頼んでいるのに、「待つのは面倒だ。お前が逃げるといけないから」ということで、手錠をはめて警官が草津の療養所まで連れて行ったりしました。また、東北や九州のように患者を4、5人も集めてくると、お召し列車という貨物列車ですが、ひどい時はヤギなどの家畜と同じ列車に乗せて、入口に『危険、近寄るな。ライ患者護送中』などという札を付けて療養所へ連れてくる。

 

 また、家の方にも警察官が出たり入ったりしたり、家が真っ白になるぐらい消毒をしたりするので、家族も家に住めなくなって夜逃げをしたり、自殺者が出たり、子どもが学校へ行かなくなったり、お嫁へ行った娘が返されたりするという、そのような事件があっちこっちで起きました。
 1951(昭和26)年には山梨県で、長男が発病したため県から「明日お前の家へ消毒に行く」という連絡を受けた一家9人が、その晩に5歳の女の子を含めた家族全員が心中をしてしまうという事件が起きました。それは県が村の保健所へ、「明日その家へ消毒に行くから連絡をしておけ」という通知をしてしまったからです。保健所は守秘義務があるのに、それをみんな村の人にしゃべってしまった。それを知った家族は、もうここでは生きてはいられない、ということで、9人全員が農薬を飲んで死んでしまったわけです。

 

【療養所での生活(断種・堕胎、園内通用券、監禁室など)】

 その事件が起きたころ、私は頃草津の療養所にいましたけれど、私とは別の寮に、65、6歳くらいの大人しそうなおじさんが一人入院してきました。そのおじさんの元へ毎週土曜日になると息子さんが面会に来るのです。その時分療養所に面会に来る人なんか誰もいないのに、「あーあのおやじさんは幸せな人だな。あの息子は親孝行だな。」と、みんなで話していました。ところがとんでもない。その息子は親父さんに「死んでくれよ、死んでくれよー」と頼みに来ていたのです。「お父さんが生きていると俺たち村にいられないよ。妹も結婚できないよ。だからお父さん死んでくれよ」と息子が言いますと、親父さんの方は「もう療養所へ入ったからいいじゃないか。静かにほっといてくれよ」と返すのですが息子が言うこと聞かない。「だめだよ。お父さんがここにいるのが分かったら、俺たちはやっぱり村にいられない。だからお父さん死んでくれよ。」と。そのように通われてきたので、その親父さんは根負けしたのか、とうとう青酸カリを飲んで死んでしまいました。
 いろいろなケースがありますけれど、こういう療養所へ入ったらどういう事になったのかお話しします。全生園ですと、収容病棟というとこに入れて、すぐにお風呂に入ります。もちろんクレゾール入りの消毒風呂です。お風呂に入っている間に着てきた着物は全部焼かれてしまうのですが、その代わりにみんな同じようなうどん縞の囚人が着るような着物を渡されて、これを着ろ、と言われます。また、持ってきたお金は全部取り上げられて、園の中でしか使えないおもちゃみたいな園内通用券というお金を渡されます。何故そうするかというと、お金がなければ逃げられないだろうということで、そういうことをしたわけです。
 当時はまだみんな若かったですから、結婚したいという人がいると、まあ、結婚すれば落ち着いて逃げないだろう、ということで結婚は認められていました。ただし、男の人に子どもが出来ないよう、断種手術をしてから結婚を認めるわけです。万が一子どもができると、すぐに堕ろさせてしまいます。そういう子どもが、検証会議で調べた結果、全国で今までに3,173人の子どもが堕胎されたという報告が出ました。しかも、まだ6つの療養所に堕胎された胎児のホルマリンの標本が116体残っているという報告が出まして、うちの園でも早速調べてみましたところ、解剖室に、昭和10年から30年までの間に堕ろされた35体の胎児のホルマリン漬けの標本がちゃんと残っていました。これは困ったな、どうしようかと思っていたところ、厚労省の方から処分をするよう通達がきました。 
 ところが、それを嗅ぎつけたマスコミが、テレビや新聞で報道してしまったために、いろいろな宗教団体や個人から厚労省の方へ、そんなに簡単に処分するものじゃない。ちゃんと家族を探して、謝罪をして、それから一体一体供養するのが本当だろう、というような抗議の電話や手紙がどんどん行ったのです。厚労省の方も今度はそれを認めて、改めてそのようにしなさい、と通達がきました。多磨全生園では、隣のハンセン病研究センターにも一体あったので、合計36体の胎児のホルマリン漬けの標本を一体一体火葬し、合同の慰霊祭をやって、それで納骨堂の境内に供養塔を建てて、そこへ遺骨をみんな納めています。

【患者作業での施設運営】


 療養所では、所内でいろいろな作業をします。今現在、多磨全生園の入所者はもう205人です。一番多い時、1942(昭和18)年には1,518人もいました。1979(昭和54)年でも1,000人はいました。それが今は205人です。ところが逆に、職員の方は専任職員や派遣職員まで含めると370人ぐらいおります。看護師さんも140人もおりまして、3つの病棟や不自由者センター、外科、内科、眼科、歯科、耳鼻科、皮膚科などの外来をみております。
 ところが、1951(昭和26)年頃は、患者が1,200人いるのに、職員は全部で107人、看護師さんは10人もいませんでした。そのため、7つもあった病棟の看護一切、それから不自由者センターの目の見えない人、手足の悪い人の看護一切、今、看護師さんたちがやっている作業を当時は全部患者作業としてやっていました。1,200人もおりますから、患者の中にはいろいろな職業の人がいました。学校の先生もいたし、警察官もいたし、お坊さんもおりました。鉄道員、船乗り、大工さん、左官屋さん、鍛冶屋さん、畳屋の職員もいました。 
 静岡からお茶屋の主人が一人入って来て、あの中で一万坪のお茶を作って製茶もやっていました。中には製米所もありましたし、豆腐も納豆も作っておりました。豚も400頭も飼っておりました。乳牛も4頭飼って、牛乳を取って飲んでおりました。やぎもうさぎもにわとりも飼っておりました。また給食からの食事運搬、し尿処理、ごみ処理、それから、大工さんは家を何軒も建てました。左官屋さんも、みんなその作業をしました。中には洋裁和裁、ふとんなんかも全部自分たちで作りました。印刷所もありました。また、土方作業だとか農作業は一番きついのですけれど、そういう農作業でいろいろな野菜を作って、給食を納めていました。売店もありました。とにかく、死んだ人の死体処理から火葬まで運営に必要な50種類あまりの作業は、全部患者の作業なのです。職員は人数が少ないから、それらの作業を監督する役目でした。朝から晩まで働いても作業賃というのはわずかに12銭か13銭。ゴールデンバッドというタバコがやっと1個買えるだけの作業賃なのです。それも医療費、食糧費、燃料費などからやりくりをして捻出するので、作業賃が増えたら、医療費が減る、食糧費が減る。そんなタコが自分の足を食べるような予算の組み方でした。戦後、1948(昭和23)年から、ようやく作業賃が予算に付きましたけれど、それもやはりたばこ銭に毛が生えた程度で、それが現在までずっと続いております。

【新薬「プロミン」の開発】

 その頃、1942(昭和18)年にアメリカで、プロミンという特効薬が開発されました。これは初め、結核の薬として作ったらしいのですが結核の人には全然効きませんでした。当時は、ハンセン病の中にも結核患者がたくさんいたので、それらの人に投与したところ、結核の方は全然良くならないのに、ハンセン病の方は見る見るうちに良くなってきたことに驚いて、「これはハンセン病の特効薬だ」という話が広まり、アメリカで学会誌に発表されました。
 日本は戦争のために遅れましたけれど、1946(昭和21)年に東大薬学部の石館守三先生がプロミンの合成に成功して、それを全生園で3人の患者に試験的に投与してみたのです。 
 すると、見る見るうちに反応が引き、菌がなくなって、喉を切らなければいけないと言われた人が、3か月もしないうちに歌まで歌えるようになったのです。みんなビックリしました。「おい、これは本物だよ、本物だよ」といって、みんな飛びついたのです。
 それまでも特効薬だ、新薬だ、という薬はいろいろと出たので、みんな買って飲んだり打ったりしましたが、どれも効かなかったのです。私も“キセオラン”という飲み薬をずいぶん長い間飲みましたけど、全然変わりませんでした。友達は「あんちゃん、悪いけどな、それはセオランチンじゃないよ。それはホントはな、ナオランチンだ」とからかわれたりしたのです。ところが、このプロミンだけは誰も疑わない。しかしいくら戦後とはいえ、1本50円という非常に高い注射薬なので手も足も出ないのです。それでも欲しい人は、実家のある人は「何とかしてくれよー何とかしてくれよー」と家の方に泣きつきました。家族の方でも、しょうがない、親父のためだ、息子のためだ、ということで、畑まで売って、そのお金を作ってくれたのです。すると、プロミンを打った人は、本当に見る見るうちに良くなっていきました。さあ、他の人はもう羨ましくてしょうがない。「もうプロミンが打てなきゃ死んでもいいや」と言ってハンガーストライキをやって陳情しました。そうしたら俺も俺もとハンストする人が増えてきた。その話を聞いた、駿河や草津の療養所の患者たちも、みんなハンストに入って、「プロミンください、プロミンください」と陳情したのです。草津の療養所では140人もハンストに入ってしまいました。厚生省も慌てまして、分かった、分かった、ということで、1949(昭和24)年に全国で5,000万円の予算がついて、希望者は全員プロミンが打てるようになりました。
 それからというもの園の中がすっかり明るくなってきたのです。そりゃそうです。「癩予防法」では、どんなに病気が軽かろうが、菌がなかろうが、たとえ治っていようが、一度療養所へ入れたら死ぬまで出さない、中で死んでもらう。それが日本の癩施策だったのです。でも、特効薬プロミンで治ってきたら、当時はみんな若いですから、なんとか社会へ出たい、外で仕事もしたい、結婚もしたい、ということで、夜こっそり垣根を破って逃げ出す人が出てきました。
 今、多磨全生園は東西南北どこからでも入れますし、朝7時から8時半の1時間半の間は、学校へ行く子どもや、通勤する人が300人も350人も中を通り抜けて行きます。多磨全生園の周りは約4キロ、バス停が4か所あります。ですから園の中を通り抜けるとうんと近いのです。昼間でも大勢の人が遊びに来ます。納涼祭や秋の文化祭には2,000人も3,000人もの市民が来ます。また、資料館の北側には、1955(昭和30)年に、自分たちが植えた桜の並木があり、桜の時期には毎日地域の市民がその桜の木の下で花見をしています。一体どのくらいの人が来ているのだろうと思っていたら、これは7年前の話ですが、東洋大学の柴田先生と筑波大の学生が10日間調べたところ、12,000人以上の人が来ていますよ、という報告を受けました。ところが、1951(昭和26)年頃は、あの全生園の周りは高さが2メートルから3メートル。幅が70センチから80センチの柊の垣根で囲まれていて、出入口は正門しかありません。その正門には、護衛が目を光らせている。ですから、どうしても垣根を破って逃げなければならない。すると職員は慌ててそこを針金で塞いでしまいます。すると次の日、また別の人が別の所を開けて逃げる。これは大変だというので、職員は人数を増やして忍者みたいな黒い装束で、昼も夜も垣根の周りを回るのです。ところが患者の方は仲間がいますから、「おい、行ったよ、今だよ」と言って、園内の人が手伝って一緒になって穴を開けて、「早く行け、早く行け」と逃がしたのです。たとえ治っても退院できる規定がないのです。ですから、みんな勝手に「自己退院だ、無断退院だ」と言いながらどんどん飛び出して行きました。そのような現象は他の療養所でも同じように起きて、やはりプロミンで治ってきた人たちが、どんどん園を飛び出すようになりました。そうしたら当局も認めざるを得なくなって、1955(昭和30)年近くになると、お医者さんが診察をして、もうこの患者は菌がない、再発の恐れがないという人には、渋々ながら経過退院を認めるようになると、多くの人が園を出て行きました。今までに経過退院、あるいは無断退院、自己退院、いろいろな形で社会復帰をした人は、全国で3,700人ぐらいいて、そのうちの1,700人以上はほとんどこの東京の近辺にいるといわれています。結核だったら平気で、私は昔結核を病んだけれど治りましたよ、と言えるのですが、ハンセン病の人は、うっかり自分が全生園から来たとか、元ハンセン病だったとか、一言でも話そうものなら、すぐに会社は首になるし、住んでいる家まで出て行ってくれと言われてしまいます。そのためどこが病気か分からないような人まで、みんな小さくなって生活していたのです。
 その頃、インドが一番早かったようですが、世界各国では、みんなこのプロミンでハンセン病が治るということを証明して開放医療にしたのです。もう菌のない人、再発の恐れのない人は、みんな社会へ出なさい、再発したらいつでも戻って来なさい、薬が欲しい時はいつでも来なさい。と言ってどんどん退院をさせました。隣の韓国では、1961(昭和36)年に入ると、国がそのような人たちに土地を与えて、自分たちで自活しなさいと言って退院させたので、患者が6,300人もいた病院が、今では500人もいません。そのような人たちは国からもらった土地に、小さい所では50人、大きい所では100人、150人ぐらいの人が一つの村を作って、その村を定着村といいますが、その定着村が101か所もできました。そこでみんなで共同して何万羽というにわとりを飼って卵を市場へ納めたり、牛や豚を飼ったり、肥料工場や缶詰工場を作ったりするという共同生活を始めたのです。それが今は子どもや孫の代になり、外から一般の健常者が6割以上村に入ってきて、一緒に共同作業をしております。そしてそこから得る利益を定着村のお年寄りやインドのハンセン病患者のために家を建てたり、学校を建ててあげるという活動までしています。

【全患協(全療協)の結成とらい予防法闘争】


 ところで日本はどうかというと、1951(昭和26)年の参議院厚生委員会に多磨全生園の林園長、岡山県は長島愛生園の水谷園長、熊本県の菊池恵楓園の宮崎園長という3人の実力者の園長を招集し「日本もそろそろ隔離を止めて、韓国のようにしたらどうだろうか?」ということを質問したところ、3人の園長が「とんでもない。今良いように見えてもこの菌はどこに棲んでいるかわからない。だからもっと厳しく強制収容し療養所へ入らない連中は手錠をはめてでも療養所へ入れるようにしてくれ。また、断種手術も患者だけではなく、患者の家族も行うようにするよう法律を改正してください」と言い、さらに逃走罪という罪も作るよう、そのような国会証言をしました。
 それを聞いた全国の患者たちは驚きました。戦争が終わって、民主主義になって、人権が云々と言われているのに、こんなひどい話があるでしょうか。もう世界中で隔離をしているのは日本だけです。これはなんとしても自分たちの手でこの癩予防法を改正してもらおう、ということで、1951(昭和26)年に全国の患者自治会が立ち上りました。奄美大島と沖縄はまだ日本に復帰していませんので、青森から鹿児島までの10か所の国立療養所の患者自治会が「癩予防法」を改正してもらおう、自分たちの生活を守ろうということで、「全国ハンセン病患者協議会」略称「全患協」という全国の組織を作りました。その本部は東京の全生園の中に置かれ、そして国会に陳情するために1953(昭和28)年に全国の代表がみんな東京へ集まってきました。しかし、その当時でもまだ正式に外出を許されるのは親が死んだ時だけなのです。ですから、代表たちはみんな無断で夜こっそりと園を抜け出して東京に向かいました。今なら新幹線や飛行機があるから早いのですけれど、当時は、鹿児島や熊本から来ると30時間も32時間もかかりました。ところが、中には手の悪い人もいます。そういう人は車掌さんに見つかって警察に通報されては大変なので両手をポケットに入れっぱなしにして、3食抜きで東京へ来たのです。そして、柊の垣根をくぐって全生園の中で会議を開きました。全医労も日患同盟も応援してくれ、国会の方にも陳情の手はずがつき、明日みんなで参議院の前へ座りこもうということになりました。ところが、その話がどうしたことか園の幹部の方へ漏れてしまった。園の幹部は大変なことだといってすぐに警察に連絡をし、代表たちが来たら捕まえて監禁してやろうと、清瀬駅と秋津駅に待ち構えて張り込みました。それを察知した代表たちは、捕まったら元も子もありませんので、午前2時頃に起きて清瀬駅の先の東久留米駅、秋津駅の次の所沢駅まで夜道をとことこ歩いて行って、そこから電車に乗って国会の裏へ集まりました。そして参議院の裏へ座りこんで陳情を始めました。私は当時草津の療養所にいたのですけれど、一緒にこの座り込みに参加して、43日間東京で頑張りました。国会の裏や厚生省には15日間座り込み、あとは全生園の中の会議に参加したりしました。

【らい予防法廃止】


 ところが、1953(昭和28)年、政府が出した「癩予防法」の改正案である「らい予防法(新法)」は、そのまま可決されてしまいました。あの悪名高い1931(昭和6)年の「癩予防法」が、言葉だけが柔らかくなった程度で、隔離も消毒も外出禁止もなんら変わらない内容でした。ただ、「全生園の隣に国立の研究所をつくる。家族に生活保護なみの擁護制度をつくる。長島愛生園に患者の子どものための定時制の高校をつくる。そして近い将来必ずこの「らい予防法」を改正します。」という9項目の付帯決議がついたのですけれど、それから43年間、全患協の本部で私も10年間働きましたが、その全患協で何回も「らい予防法」を改正してください。と陳情しても振り向いてもくれませんでした。
 1955(昭和30)年にはローマの国際会議で、1958(昭和33)年には東京の国際らい会議で、世界中の関係者から日本のらい病政策は人権無視の恐れがあると非難されましたが、それでも国は知らん顔をしていました。
 それがようやく世の中が盛り上がり、1996(平成8)年に、90年ぶりにこの「らい予防法」が廃止されたのです。当時は菅直人さんが厚生大臣でした。菅さんが資料館に来て、私たちと一緒に全生園の公会堂へ行って、ぎっしり埋まった入所者、職員に向かって頭を下げて、「長い間みなさんやみなさんの家族に辛い思いをさせて本当に申し訳ありませんでした」といったお詫びの言葉がありました。多くの人はそれで納得したのです。「あー、良かった。これでようやく俺たちにも人権が戻ったんだ。もう安心して外出もできる、家族にも会える」と喜んだのです。ところが、一部の人は、「おい、ちょっと待ってくれよ。菅さんは法律の改正が遅れたということを詫びただけで、90年もの間、こんな憲法違反の人権無視の、こんなひどい『らい予防法』で、どれだけ多くの患者や家族が自殺したり、家庭破壊を起こしたかしれない。そういうことについて一言も反省の言葉もお詫びの言葉もないじゃないか。これじゃ俺たちは死んでも死にきれないよ」ということで、17年前の1998(平成10)に熊本、鹿児島で13人の人が、国を相手取って裁判を起こしました。これが所謂、「らい予防法違憲国家賠償訴訟」です。

【らい予防法違憲国家賠償訴訟】

 ところが本当の裁判の起きた理由は別にありました。それは1996(平成8)年にあの「らい予防法」が廃止される時に、ハンセン病資料館の館長だった大谷藤郎先生が、仙台のらい学会で自分の個人的見解として、この「らい予防法」は一部改正ではだめだ。これは全廃して新たに患者の人権を認め、日頃の生活を守る新法を作るべきだ、ということを発言したらところ、すぐに真宗大谷派、東久留米、東村山、岡山、鹿屋の市議会、鹿児島、岡山県議会、東京都議会、それからハンセン病学会、その他いろいろな障害者団体が次々と大谷見解に大賛成し、是非患者の人権を謳った新法を作ってくれという、意見書や声明書をどんどん出したのです。
 その時に鹿児島の療養所にいた島比呂志さんという人が、九州の弁護士会に手紙を送りました。それは、「弁護士の先生も御承知のように今「らい予防法」廃止についていろいろな団体が意見書や声明書を出している。ところが、一番人権に関わりの深い弁護士の先生方が、一言も何も言わないっていうのはどういうことですか。」という問いかけでした。この手紙を受け取った九州弁護士会の所沢弁護士は大変ショックを受けて、本当だ。俺たちは一体何をしているのだろうと、すぐに他の弁護士と図って「らい予防法廃止について」というシンポジウムを開いたのです。
 その時に鹿児島の療養所や熊本の療養所から、患者さんたちも大勢聴きに行きました。そこで、熊本から行った志村という今原告団の団長をやっている人ですけれど、その人が「先生、私はこの『らい予防法』は本当に憲法違反、人権無視のひどい法律だと思っています。これによって今までどれほど多くの患者や家族が苦しんだのかわからない。また職員までがみんな偏見、差別を持たれ、職員の子どもが学校でいじめられた。私は個人的にはこれを何とか裁判に起こしたい。だけど、どうしていいかわからない。何かいい方法はないでしょうか」と言ったところ、所沢弁護士がすくっと立ち上がって、「私もこれは憲法違反の法律だと思っています。裁判をやるとすれば、九州だけでも100人以上の弁護士が立ち上がるでしょう」と叫んでしまったというのですね。そうすると所沢弁護士は次の日、早速5人の弁護士と一緒に鹿児島の療養所へ行きました。そうしたら第一原告になった13人のうちの7人の人がすぐに集まってきて、自分たちの積もり積もった30年、40年の思いを次々と語った。弁護士たちは圧倒されて、ただうん、うん、と聴いていました。それで全部話を聴き終えて、「裁判をやりますね」と言ったら「もちろんですとも」と答えが返ってきたということで裁判をやることが決まりました。そしてその足で手紙をくれた島比呂志さんのところへ行きました。その時島さんは体を悪くして病棟のベッドの上にいたのです。そして、「島さん、お手紙ありがとう。今ここへ来ましたら、みなさんに会っていろいろ話し合って裁判をやることになりました。島さんもやりますね」と言ったら、「もちろんです」ということで、あの裁判が始まったのです。
 あの裁判は、たちまち熊本地裁から東京地裁、和歌山地裁にも飛び火して、最終的には全国で2,350人が原告となりました。弁護団も九州沖縄の130人をはじめ、全国で200人以上つきました。そしてそれぞれの裁判所で審議が始まりました。
 その時に、資料館の館長だった大谷藤郎先生は熊本地裁の原告団、被告団両方から証言を頼まれ、大谷先生は両方ともを引き受けました。ご存知の方もおられるとも思いますけど、大谷先生は滋賀県の出身で、京都大学の学生だった頃、小笠原登先生に師事しておられました。その小笠原先生というのは愛知県の圓周寺の住職で、その圓周寺というお寺は江戸時代から代々、梅毒だとか癩病、瘰癧など、人の嫌がる病気をずっと診ているお寺だったのです。それでそこに患者さんたちを大勢集めて治療をしてあげて、大谷先生も手伝っていました。そのため、簡単に移る病気ではないということをその頃からよく承知していました。そして1940年代に京都の衛生部から厚生省へ移り、厚生省では国立病院館長、医務局長、公衆衛生局長、審議官までやって退官したのです。それで退官してからは東楓協会の理事長になって、ハンセン病資料館を建てて、そして「らい予防法」廃止の時には自分が座長となって「らい予防法廃止に関する法律」をつくったのです。その大谷先生が、証言をするために熊本地裁へ行きました。私も東京の弁護士と一緒に傍聴に行きました。大谷先生は、午前中は原告団、午後は被告団の証言に立って、「自分は長年厚生省の役人をやってきたけれど、はっきり言って、日本のハンセン病政策は重大な誤りを犯した。自分は良かれと思っていろいろやってみたが、それはみんな小手先の事に過ぎなかった。本当に患者さんたちには申し訳なかった。」ということを正直に述べられると、それが時の杉山裁判長に大変いい印象を与えて、あのような画期的な判決が出たと言われております。

 あの熊本判決は2001(平成13)年の5月11日に出されましたが、それは国の憲法や人権無視の誤った政策を全面的に認めると同時に、国会議員も自分たちで法律を作っていながら、それを改めようとしなかったという不作為まで認めたのです。ところが当時マスコミは、これは当然国が控訴して示談に持ち込むだろうという報道を盛んに流していました。私も当時は、「ああ、そうなるのかな」と思っていました。ところが、5月23日に小泉首相が「異例なことだが、控訴はしない」と言われ「ああ、良かった」と思いました。
 しかし、この裏にもいろいろな話があります。ハンセン病療養所のある地域から出た国会議員たちが小泉さんに対して、もう患者たちの命は長くない。ここで控訴なんかをすべきではないということを進言したり、5月23日には、原告団、弁護団、全療協、5つも6つもの支援団体の1,500人もの人が首相官邸を取り囲んで、「控訴はするな、控訴はするな」というシュプレーコールを繰り返したり、その他いろいろな有力な人の動きがあってああいうことに至ったのです。

【熊本地裁判決後も残る苦しみ】

 お陰様で判決が確定してから、ハンセン病療養所は180度転換するように、ガラッと変わってまいりました。療養所の中にはテレビに出たり、新聞に載ったり、頼まれて講演に行く人も出てきました。
 ところが、テレビを見た家族から電話がかかってきて、「お前は何でテレビで自分がハンセン病だってことを話したんだ。お前はこれから二度と家に帰ってくるんじゃない」と言われ「兄さん、そんな時代じゃないんだよ。ハンセン病はもう普通の病気だから心配いらないんだよ」と説明しても「だめだだめだ、絶対家にはもう来るな」と言われ、今まで2年に一度くらい家に帰れた人が帰れなくなってしまうということがありました。
 また、予防法が廃止された当時のこんな話があります。全生園にはシニアセンターといって、一番年寄りの人たちがいる寮が4つばかりあります。そこの86歳の男性で盲人の方が朝日新聞に投書したのです。それは、『娘よ』という呼び掛けで、「私は46年前にまだ赤ん坊だったお前を友達に預けて全生園へ入った。でも、お前が元気に育って、結婚して、子どももいると話も聞いた。でも、お前も承知のようにようやく『らい予防法』が廃止されて、お父さんたちにも人権が戻ったんだ。もう安心して会えるんだ。だから一度是非面会に来てくれ」とそういう投書をしたところ、新聞に大きく取り上げられました。それでみんな、「ああ、いつくるかな。いつくるかな」と待っていたのですがさっぱり来ないのです。それでうちのケースワーカーがこっそり調べたところ、都内で暮らしておりまして、しかも、民生委員として活躍しているというのです。「こんな立派な仕事をしていて、あんたどうしてお父さんに会いに来ないのですか?」と聞いたところ、その娘さんは、「私も会いに行きたいのはやまやまだけど、実は自分の旦那にお父さんがハンセン病ということを隠している。もし本当の事を話して離婚でもされたら、私は子どもを抱えてどうしていいかわからない。だから、悪いけれど、お父さんによろしく言ってください。」と、そう言われて、仕方なしに帰って来て、その話をしました。老人は「あっ、そうか、それならもうそれでいいよ」と二度と娘さんの話をしなくなりました。その方は一昨年に亡くなりましたけれど、とうとう娘さんは来ませんでした。
 また、こういう話があります。同じシニアセンターで、84歳の盲目のおばあさんところへある日、外から若い男が一人ふらっと入って来て、「おばあちゃん、こんにちは。おばあちゃんはどこの県の人だ」と聞くのです。おばあちゃんが、「あたしかい?私はどこそこの県だよ」と言ったら、「おおーおおー、俺も同じ県だよ。それでおばあちゃんどこの村だ?」「どこどこの村だよ」と言ったら、「あれー~おばあちゃんと俺はもしかしたら親戚じゃねえかね。俺も同じ村だよ」と。おばあちゃんの前へ座りこんで、「それで、おばあちゃん、ここへはいつ来たの?」「そうさね、もう65、6年になるかね」と言うと、「はあーそんな大昔か。おばあちゃん、今、村はね、もう市になってね」と、ああだよ、こうだよ、といろいろな話を始めたら、おばあさんはすっかり喜んで、「あーそっかい、あーそっかい」と聞いていました。隣の部屋に用事にきた女の職員が、「おかしいね。あのおばあちゃん身寄りなんか誰もいないわけなのに面会人かねえ」とそのやり取りをじっと聞いていたところ、その男はさんはざん喋って「おばあちゃん、今日は楽しかった。また来るから元気でいてよね。あっ、そうそう、悪いけどおばあちゃん、電車賃切らしちゃったんだよ。ちょっとお金貸してもらえないかな」と言ったら、おばあちゃんが機嫌よく、「あっ、いいよいいよ、そこの机にね、がま口が入ってるだろ、持って行きな」と言ったら男はがま口から2,3万円を取ってバッと飛び出して行きました。隣から慌てて職員が飛んで来て、「おばあちゃん、今の人知ってる人?」、「知らないよ。」、「お金あげたんじゃないの?」、「あげたよ」、「だめだよ、おばあちゃん、これ詐欺だよ。すぐに警察に届けよう」と言ったら、おばあちゃんが慌てて「いいんだよ、いいんだよ、ほっといてくれよ。私はね、小一時間楽しい思いしたんだから、ほっといてくれよ」と止められてしまいました。まあ、おばあさんにすれば、その頃、周りはたまに面会人が来て賑やかな声がする。でも、おばあさんのところへは誰もさっぱり来ない。でも、その日嘘か本当か故郷の話をしてくれた男が来たので、おばあさんはすっかり嬉しくなったわけです。しかし、それからは西の玄関は昼間でも鍵を掛けて、外から人が入れないようにしております。
 もう一つこういう話があります。これは熊本判決が出た直後ですが、40年ぐらい全く音信不通だった家族からある日突然電話がきたのです。「おばあちゃん、元気でいるかい?長い間ご無沙汰して申し訳なかったね。あのね、毎日、テレビや新聞見ているよ。もしおばあちゃんがね、家へ帰ってきたかったら、帰って来てもいいよ」というものでした。さあ、この電話を受けてからはおばあちゃんはもう落ち着かない。このおばあちゃんは、87歳にもなるのですけれど、幸い手足もいいし、目もいいのです。さんざん迷ったけれど、思い切って帰ってみることにしました。みんなから、「あーおばあちゃん良かったね、良かったね」と見送られて帰りました。ところが、半年もしないうちに戻ってきてしまいました。あれあれ?と思ったら、それからものを言わなくなってしまったのです。みんな、なぜ?と思っていたところ、ある日突然、首を吊って死んでしまいました。自治会のみんなで考えたのですけれど、あんなに喜んで帰っても、誰も知っている人もいない、結局寂しくてまた戻ってしまったのではないか。それなら最初から行かない方が良かったな、と話し合っていますが、このような話もあります。

【多磨全生園の「人権の森構想」について】

 うちの自治会はもう40年も前から、「もう日本のハンセン病は終わりだ。やがてこの全生園も誰もいなくなる。その時に、この10万坪の土地に自分たちが植えた3万本の樹木がある。これを緑の森としてお世話になった市民に残そう」ということで、ずっと緑化活動をしてきました。お金を出し合って、木を植えたり、剪定をしたり、消毒をしたり、肥やしをやったりしました。そして22年前にあの資料館が出来ました。
 ある時アニメ監督の宮崎駿さんが資料館に来られました。宮崎監督は全生園の裏の方、所沢に住んでいます。私も個人的な用事で監督の家へ二度ほど行ったことがあります。全生園へは木が多いのでよく来るそうです。そんなある時、宮崎監督が夜10時ごろに納骨堂で腕を組んで考え事をしているのをうちの入所者が見かけました。その後、『もののけ姫』という映画ができたのですが、この映画を観た人が、あの中にハンセン病のことが出ているよと言うのです。 
 さらにその後に『千と千尋の神隠し』ができました。この映画を観た人もあの中にハンセン病の事が出ているよと言うのです。それで私が監督に、「監督、『千と千尋の神隠し』を観たいけど、なんとかなりませんか」と言ったところ「おお、いいですよ。貸してあげますよ。私が電話しておくから、あんたそれじゃあ来なさい」と言うので、私が銀座の本社へ行ったのです。そうしたら、「あっ、監督から電話をいただきました。どうぞ、どうぞ」とポスターを沢山いただき、フイルムを無料で貸していただいて、うちの公会堂で市民や学校の子どもたちを呼んで、2回上映をしました。宮崎監督も2度とも来てくれて挨拶をしてくれましたが、その中で正直にこの映画の中にみなさんのことをモデルにした個所が何か所もあります、ということを言われました。
 その宮崎監督が全生園の中を見て回ったところ、木造建築で価値ある建物がいくつもある。そういう建物は将来みなさんがいなくなっても是非残して欲しい。その運動をするなら私も応援します。ということで、1千万円の寄付をポンと申し出てくれたのです。そこでうちの自治会も考えまして、これは確かにそうだ、緑も大切だけど、この資料館をはじめ、隣の国立の研究所、また4,150人が眠る納骨堂。また1928(昭和3)年に自分たちが建てて、一部屋8人が暮らした山吹舎、自分たちが故郷を見るために土を盛り上げて造った望郷の丘、子どもたちが学んだ全生学園。また、自分たちが鎮守の森として1934(昭和9)年に造った永代神社。そういうものはみんな復元して残して、自分たちがいなくなっても資料館に来る人にそういうものを見ていただいて、ハンセン病の歴史を正しく理解していただき、二度と他の障がい者や難病の人たちに偏見や差別を起こさないための運動をしよう。ということで、「人権の森構想」というものを立ち上げたのです。
 すると宮崎監督をはじめ、東村山市の細渕市長、日本財団の笹川陽平会長、法務省の前人権擁護局長で後の東京高等裁判長の吉戒 修一さん、ハンセン病資料館の大谷藤郎館長。そういう人たちが進んで発起人になってくれて、内外からすぐに3,600万円の寄付金が集まり、10年前に1928(昭和3)年に建てられた山吹舎や望郷の丘を立派に復元しました。それから学校も復元しようと思ったのですが、学校は子どもたちがいなくなってから29年間も空家だったため、中も外もボロボロで、シロアリの心配もあったので2009(平成21)年に壊して、その後に記念碑を建てました。

【将来構想と「ハンセン病基本法」の施行】

 多磨全生園は2009(平成21)年に創立100周年を迎えました。ハンセン病療養所は106年の歴史がありますけれど、この間に職員にこの病気が感染した人は一人もおりません。大勢のお医者さんが自分や自分の家族にまでこのハンセン病の菌を注射して、なんとか人工培養を成功させようと研究を続けましたが一人も成功しておりません。隣の国立感染病研究所でも58年間も研究を続けていますが、未だにインター培養ができないのです。 
 うちの入所者は後遺症があっても99%は菌陰性です。1%の人は菌があっても、たとえ擦りつけても簡単に移るような菌じゃない。ハンセン病の菌はそれ程弱いのです。それなのに何故これほど恐れられたり、怖がられたりしたのか。それは、私は、一つは国の政策にあり、一つは医者の怠慢、もう一つは無知からだと思います。国はハンセン病患者が一人出ると、この患者がまるでコレラかチフスのようなものすごい伝染病患者だという印象を国民に植え付けてしまった。何の必要もないのに家が真っ白になるくらい消毒をしたり、手錠をはめたりして療養所へ連れてきた。また、外では一切薬を売らないで、療養所へ行かなければ治療ができないようにもしました。そして、1930(昭和5)年頃から各県で無癩県運動を起こして、患者たちをみんな追い払った。そういうことが自然と国民の間に、ハンセン病は恐い伝染病なのだ、恐ろしいんだ、という印象を植え付けてしまったと思うのです。
 もう一つは医者の怠慢と言いましたけど、アメリカでは1943(昭和18)年、日本でも1946(昭和21)年からこのプロミンという特効薬が使われるようになり、みんなが菌陰性になりました。世界各国はそれを認めて、みんな開放医療にして退院させたのです。ところが日本の医者たちはそれを簡単に認めなかった。10年や20年経ってみたところでわかるものじゃないということを言いながら、隔離を定めた「らい予防法」を、全患協が何回も改正してくださいと陳情しても振り向いてもくれませんでした。1955(昭和30)年にはローマの国際会議で、1958(昭和33)年には東京の国際ライ会議で世界中の関係者から非難されています。それでも知らん顔をしたのです。それがようやく「らい予防法」廃止に繋がって、まあこのような状態になったのですけれど、本当にハンセン病政策というのはもう奥の深い、本当にもう言葉にならないような悲惨な時代がいっぱいあったのです。
 この100年の間にハンセン病に関する法律が5回変わりました。はじめの3つまでは隔離を謳った法律で、1996(平成8)年の「らい予防法廃止法」は「隔離はしてはいけない」という法律です。ところが「隔離はしてはいけないよ」というだけで療養所の中はなんら変わりがない。入所者はどんどん死ぬばかりで、新たに入って来る人はいない。やがてみんないなくなってしまいます。そこで、各園の自治会は、なんとかこの療養所を市民に利用してもらおうということで、市民団体と一緒になって将来構想を検討してきたのです。
 ところが法律があってどうしてもそれができません。それでは法律を改正してもらおうじゃないかということで、2008(平成20)年に署名活動を始めました。すると僅か9か月の間に93万5千筆の署名が集まって、それを国会に提出して衆参両院、全会一致で可決し、2009(平成21)年4月1日から「らい予防法廃止法」に代わってこの「ハンセン病問題基本法」が施行されるようになったのです。この基本法の12条の中には、「入所者が孤立することのないように公共団体や住民が望むならば、ハンセン病療養所の土地、建物、設備等を利用に供するための措置を講ずることができる」という一文があります。これで外部の人に貸すことができるようになったのです。それでみんな喜んで、うちは何を作ろうかといってみんなで検討しています。全生園のある東村山市は、人口15万3,000人余りの市ですけれど、保育園が足りません。公立、私立、認可、無認可を合わせると27の保育園があって、1,835人の子どもが入園しています。また11の幼稚園があって1,700人ぐらいの子どもが入園していますが、どちらにも入れない待機児童が260人ぐらいいるのです。それで7年も前から全生園の中に保育園を作らせてください。という要望がきています。私もああ、それは良いことだと思い、10ばかりの市民団体と一緒になってずっと運動をしてきた結果、ようやく行政に認められて南西の角地を1平米あたり1,329円で、2,000平米を貸すことが決まり、整地をして公募をしたところ、市内のはなさき保育園がそこを借りることになりました。新しく建てられた園舎は、2012(平成24)年4月1日に開館式をしました。その時には小宮山厚生労働大臣、国会議員、都議会議員、東村山市長、市議会議員、大勢の人がお祝いに駆けつけてくれました。保育園の開園式にこのような仰々しい大臣からもう国会議員から都議会議員まで来るなんてことは珍しいことです。

 私たちは子どもがいません。持つことを許されませんでした。だから子どもたちの声を聞くと、もし自分たちに孫やひ孫がいるとすれば、こんな思いだろうかと、非常に和やかな気分になります。毎年敬老会が来ると、保育園の子どもが30人も40人も来て、歌ったり踊ったりしてくれます。また、園の中で6年間続けて保育園の運動会をやってくれました。他にも子どもたちは年中園内を散策して、私たちに声を掛けてくれます。お茶会もやって私たちを招待してくれます。入園者の中には、毎日電動車いすで保育園の方へ出掛けて子どもたちの遊ぶ姿や元気な声を聞いて喜んで帰って来る人がいます。

 この保育園の問題と同時に、私たちは「人権の森構想」というものを将来の構想に考えております。これは東村山市と一緒になって、2002(平成14)年からずっと運動してきています。10ばかりの市民団体が一緒になって運動してきました。全生園の中は、252種、3万本の樹木や105種の草花、また東京都の教育委員会が指定した近代和風建築の歴史的建造物。それから昔の監禁所跡、収容所跡、火葬場跡などの史跡のほか、自分たちがお金を出し合って造った、あらい公園、やじま公園、林園長の胸像、村上梅園や、けやきの丘、成田庭園、県木の森や遊歩道など小公園が一杯あるのです。  また、全生園では納骨堂も自分たちで建てました。他の園では国の整備でやっていますが、自分たちが入る所だからこそ自分たちで建てようといって募金活動を始めて、2回で4千万円を集めて、前と同じ形の1.5倍の大きさの納骨堂を造りました。納骨堂は毎日線香やロウソク、花が絶えません。

 ここでちょっと自分の事をお話しします。私は1945(昭和20)年の3月10日、14歳の時に亀戸で東京大空襲に遭いました。小学校を卒業し、北千住の工業学校へ行っていたのですが、そこで空襲に遭い6歳の妹も焼け死んで、家族もみんなバラバラになって、私自信も手足に大やけどをしました。それで千葉の大学病院へ行ったところ、「お前どうもおかしい、これはハンセン病じゃないか。全生園に行きなさい」と言われ全生園へ診察に行ったのです。すると、「間違いなくハンセン病だけれども、ここは定員もオーバーしているし、空襲で危ないから草津の療養所へ行きなさい」と言われました。
 それで草津へ行くことになったのです。お袋から5円もらったのですが、そのとき「あんちゃん、もうこの病気になったら生きていてももうだめだから死になさい」と言われました。「まあ、行ってから考えるよ」といって家を出ましたが、行き方が分からないため高崎の駅で降りてしまって、おまわりさんに訊いて渋川駅に行ったところ、もうバスは出ないというので一晩ブルブル震えながら駅で泊りました。次の日10時ごろ、バスに乗って長野原へ行くと、長野原から草津までは14キロぐらいあるのですが、雪が膝まであってバスが出ないのです。でもなんとか行かなければならないと、何度も転びながら雪の中を歩きました。傷は痛むし、冷たいし、前の日から二日間何にも食べてないから腹は減るし、途中でもう谷底を覗き込んで、よっぽど飛び込もうと思ったのですが、もう少し、もう少しと言いながら歩いて2日目の夜8時頃、草津の療養所へようやく着きました。事情を説明したところ、「ああ、空襲にあったんだ。可哀想だから入れてあげるよ」と独身舎4人部屋に入れてくれたのです。その4人部屋へ入ってから、傷があるにも関わらずすぐに作業しなさいと言われ、飯運びをしたり、世話係をしたり、不自由者の看護をやったり、重監房の飯運びもやりました。1945(昭和20)年の10月から1946(昭和21)年の4月まで重監房の飯運びをやりましたが、その間に2人死にました。たった3人でお通夜もしました、多くの人の火葬もやりました。もう手足が擦り切れるぐらい、あっちこっち傷だらけになって、なかなか傷も治りませんでした。草津に行く前は、手足は大きくやけどをしていましたが、手はまだ使えたのです。ところが、行ってからは何の治療薬もなく、ただ包帯をぐるぐる巻くだけだったため手の血管が詰まってしまい、それで原因で1946(昭和21)年から手が下がってしまい、それからというもの今ではもう全く右手は使えません。 
 しかし、それでも飯を食わなければならない。みんなと同じようにいろいろな作業をしなければなりません。共同作業ですから一緒に畑起こしもやらなければならない。食事運搬もしなければならない、薪を切らなければならないということで、右手に長い紐をつけてぐるぐる巻いて、左手が使えるから右手の紐の中に柄を通して、それで一緒に鍬や鋸、まさかりを握ったりして作業をやってきたのです。それで今は何とかまあ左手で字も書けるようになったし、いろいろとやれるようになりましたが、そのような作業をずっとやってきました。
 その後、1964(昭和39)年に山梨の身延深敬園という私立の病院へ行って、そしてすぐに全患協本部へ行けと言われて、東京へ移りました。岡山の長島愛生園から本部が移ってきたばかりで約10年間働きました。初めは渉外活動をして、浅井訴訟の活動などで中央対策委員会へ何回も行ったりしました。浅井訴訟の裁判も聴きました。そういう事をした後、1968(昭和43)年頃からは機関誌の全患協ニュースの編集を6年半やってきました。その後は、資料館の活動や自治会の活動などいろいろとやっています。考えてみると私は、療養所へ働きに来たような感じがするのです。休んで何にもしなかったということはほとんどあまりありません。
 このような私ですが、実は3回も死に損なっているのです。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では、逃げるところに焼夷弾に焼けた家が崩れてきて、防空頭巾や服にみんな火が付いて、慌てて脱いで消したり、立ったりしました。その時に煙を吸ってしまい、倒れてもうだめだと思ったところ、知らないおじさんが、「あんちゃん、しっかりしろ」と言って引っ張ってくれました。気が付いたら駅と駅の土手の間にちっちゃい池があってそこへ30人ぐらいの人が集まっている。周りはもう火の海だから、そこの池の水を汲んで頭からかけながら朝まで待ちました。朝になって線路の上へ上がって見たら、もう街は何にもないのですよ、全部焼けてしまって。線路の上も死んだ人だらけ。駅の方へ行ってもずらっと人が死んでいる。そこから歩いて亀戸から平井、新小岩、小岩、江戸川を越えて、市川まで行くとやっと電車が出ていました。そして千葉の親戚の家に行って、やっと親と巡り合ったのです。ところが6歳の妹がいません。みんな「どうした、どうしたって」と言うのですが「どこ行っちゃったかわかんねぇ」と、それっきりです。
 もう一つは、1973(昭和48)年に全生園で仕事をしていた時です。全患協を辞めてから、私は労務外出といって外へ働きに行っていました。その頃になると、園内で働くと700円にしかならないところ、身体の不自由な人は1,500円福祉年金がもらえました。テレビも欲しいし、扇風機も欲しいけれどお金がありません。ですから、元気な人は、大工さんだとか左官屋さんだとか、自動車の運転手などの仕事をしにみんな園外へ行きましたが、何にもできない人は土方作業に行きました。それで私も建設会社の下請けの人たちと一緒に所沢までずっと工事に行っていました。ある日夜8時頃までパネルを剥がしたり、鉄管を外したりして、夜に帰って来ましたが、次の日に全生園の炊事場の屋根が漏るから今日は屋根を直すよう言われ、屋根の上で仕事をしている間に気を失ってしまい、目覚めたらベッドの上にいました。そして、「このまま目が覚めなかったら死んでいた」と言われたのです。2か月くらい病棟にいてなんとか助かりましたが、しかしその時の後遺症で右の耳が聞えなくなり、右の目がまるまる見えなくなってしまいました。
 それからもう一つは、1999(平成11)年に、妻の姪っ子の夫が、2年間勤めた東京から北海道に帰ることになり、是非北海道へ遊びに来てくださいと、私と妻を招待してくれたのです。羽田から北海道行の飛行機に乗ったところ、その機が何とハイジャックに遭ってしまったのです。離陸後にグルグルと旋回したり富士山が見えるので、おかしいと思っていたところ、そのうちモニターに「この飛行機はハイジャックされました。みなさん静かにして下さい」とアナウンスが流れてきました。その後、機長が刺されてしまい、飛行機がぐーっと地上300メートルに下がったんです。みんなもう駄目だと思って目をつぶっていました。急にがーっと飛行機が上に上がってきて、平常に戻った途端に、「犯人が捕まりました」というアナウンスが入ったのです。まあそういう事があり3回も死に損ないました。
 そのあと資料館活動の時も、資料館が国立になって安心した途端に、リウマチになって3回も転んで13針も口の中や額を縫ったり、心筋梗塞を起こして救急車で病院に運ばれ2年続けてカテーテルを4回もやっています。全生園の入所者の平均年齢は84.5歳なのですけれど、私は84歳を過ぎたばかりなので、もうちょっと頑張ってみようかな、とそう思っているところです。

【ハンセン病施設の永久保存を!】

 私は資料館を造り始める3年も前から資料館を造るための運動に関わっていて、資料館を造る時には青森から沖縄の宮古南静園まで全国の15の国立私立の療養所を4か月くらい掛けて回り歩いて1,300点くらいの展示物を集めてきました。それを全部自分たちで文句も考え、片付けをして、そして資料館で案内もして歩きました。いろいろなシンポジウムやフォーラム、企画展をやったり、機関誌を出したりし、月曜日の休みの日には掃除まで自分たちでやってきたのです。運営委員会も自分たちが主催してやらなければなりません。9年間は学芸員も秘書も一人もいなかったので、全部入所者が中心になってやらなければなりませんでした。私は鍵を預かっていたものですから開館から閉館までいました。2007(平成19)年にようやく国立になってからは、館長、部長、課長、学芸員も4人もいますし、秘書もいて、今は充実しております。本当に今はもう有難いと思っています。
 私と平沢保治の二人は開館以来ずっと語り部活動を続けていて、今までに約2,200団体、15万人余りの方に二人で話しをしてきました。元気な頃はあちこちに講演にも行っていました。鳥取や米子を日帰りしたり、金沢の看護大学や看護学校にも行ってきました。今はなるべく遠方はもう行かないようにしています。本当にこのような活動ができたことは幸せでした。私は資料館活動もやったし全患協のほうの役員もやったので、国会議員や障がい者団体にも一杯知り合いができました。日患同盟だとか全医労の人たちも知り合いができ、多くの人との繋がりができたということは大変良かったと思っています。
 これまでの経験から、このような偏見や差別を生むのは無知だと思うのです。無知ということは本当に恐ろしい。ですから、みんな、なるべく何でも聞いて知って欲しいと思います。
 資料館が建つまでは、テレビや新聞でハンセン病などという言葉が一言でも出ると、すぐに退院した人が押し掛けきて「そんなものを出さないでくれ。そんなものが出たら俺たちは生活できない」と言って来たものです。埼玉県立近代美術館にハワイのモロカイ島でハンセン病患者の救済に尽くしたベルギー人のダミアン神父を像にした「ダミアン神父像」が展示された時には、退院した人がたくさん美術館に押し掛けて、像の公開展示を差し控えるよう申し入れをするといったことが起きました。私たちはその像を見に行きましたが、顔にちょっとぶつぶつはあるけれど、かえって神々しいぐらいに見えました。そこで、像を資料館で展示しようと美術館から借りてきて、半年ぐらいの展示期間中に、ビデオを上映したり話をしたりするなどして、みんなに少しずつハンセン病の事を理解してもらいました。それは、「ハンセン病のことを知らなければいけない。いいことでも悪いことでも、とにかくみんなに話をして、みんなに理解してもらわなければ、啓発はいつまでもできないんだ」という思いで行いました。
 資料館ができなければ、まだ「らい予防法」は廃止されていません。大谷先生も「入所者の一部でも反対している間は、私は絶対この「らい予防法」は廃止しません」ということをおっしゃっていました。入所者の間でも意見が分かれていたのです。「らい予防法」廃止の時も3つの支部は反対でした。本当は全会一致でなければいけないのだけれども、あの時は多数決で「らい予防法」廃止の決定をしてもらいました。第一次熊本判決が出るまでは原告の数は全国で779人でしたが、判決が出てからは2,350人に一気に増えました。今はみんながハンセン病のことを、理解してくれるようになったと思います。
 しかし、熊本で起きた元患者の宿泊拒否事件の時には本当に胸が痛むというか、腹立たしかったです。けれども、あの熊本という地域は、本妙寺の集団強制連行などがあったところで、ハンセン病に感染した人たちがいっぱいいたものですから、本当に偏見が強いところだったのですね。ですから、あのような宿泊拒否事件も起きたけれど、なんとか治まって本当に良かったなと思っています。
 いま、私が心配なのは、やがて入所者が一人もいなくなるその時に、果たしてみなさんが資料館に来てくれるのだろうかということです。たとえ入所者がいなくても学芸員さんたちがあとを立派に引き継いでくれますし、また全生園の中にはいろんな草花や史跡や建造物や歴史的なものがたくさんあります。
 最後に、「人権の森構想」のお話をします。私たちは「人権の森構想」を2002(平成14)年からやっておりますが、今は原告団、弁護団、全療協、全医労、首都圏市民の会の5つの団体でつくる「ハンセン病療養所の将来構想を進める会」が、全国のハンセン病療養所を負の遺産として、強制隔離収容政策をすすめた歴史や人権差別を語る場として永久保存するよう要求をしているのです。是非これを実現したい。何とかこれだけは実現して、目を閉じたいと思っています、本当に。本日は本当に有難うございました。